メディアの茶話
作家の大江健三郎氏がフランスのレジオン・ドヌール勲章を受けて、喜びの弁を語っているのを奇異に感じた。
大江氏は、文化勲章を「受けない」と断ったから、勲章そのものを認めないのかと思ったら、
外国の勲章は別だったらしい。
しかし、同じ人間が日本の勲章はダメで、外国のものならよい、というのは常識的には納得しにくい。
慣例では、ノーベル賞を受けた人には文化勲章が贈られる。中間子理論の湯川秀樹博士は、戦前、若くして文化勲章を受け、戦後のノーベル賞を待った。
逆に、ノーベル賞が先きになった福井謙一博士は、あとから文化勲章を受けた。
大江氏は、ノーベル賞のあとの文化勲章を断わった。賞は受けるが勲章は受けない主義かとみられたが、そうではなかった。日本の勲章だからいらない、というのでは、日本国に不満があるように思える。
しかし、ノーベル文学賞は、その国の言葉で発表されたその国の文学(者)にあたえられる。それゆえ、大江氏の賞は、日本人だからあたえられたのである。何か感ちがいをしているのではなかろうか。
朝日新聞の報道によると、東京のフランス大使館で行われた勲章授与式で、大江
氏は「ちょうどニ百年前に創設された勲章をお受けすることは、幸運な予兆で心から励まされます」(5月29日・大阪夕刊)と歯の浮くようなことを言っている。
夏目漱石は、人間に等級をつけることを嫌って、博士号も勲章もいらないと言った。大江氏のご都合主義とは大分ちがう。大江氏は、国家の権威と権力の象徴である勲章に対して反発しているのかもしれないが、
その勲章に二重規準を持っているとすれば、大江氏の国家観もあいまいなものといわざるをえない。
大江氏に勲章をくれたシラク仏大統領は、サッカー・フランス大会で、フランスからの分離独立を唱えるコルシカのチームのサポーターが、国歌ラ・マルセイエーズにブーイングしたのに激怒して席をけった。
これは、国家を代表する公務員としての当然の行動だった。ほぼ同じころ、国家の誇りが傷ついた瀋陽の日本総領事館の亡命者連行事件に対して、日本の小泉首相は、いまだにあいまいな事なかれを通している。
国家というものについての意識が低いことについては、大江氏だけを責められないかもしれない。
残念なことである。