静かに★大江健三郎★動き出す

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88吾輩は名無しである
 一日一煙
http://homepage2.nifty.com/komacchi/diary.htm
2003年12月5日(金)ボリバーロイヤルコロナスと「知識人」の枯渇〜その1〜
(中略)
 知識人というのは、普通の人よりも知識はもちろんのことその思考においてもより深く、悪い意味での常識や陋習にとらわれず展開することができる人種である、はずである。
しかし例えば、最近大江健三郎がフランスの左翼紙リベラシオンに発表したエッセイなど読むと、知識人とははたして何なのかと思わざるを得ない。周知の通り大江は、進歩的文化人の一翼として一部マスコミがしきりと称揚する作家である。
(面白いことに、朝日新聞は大江の記事を書くに際して必ず「ノーベル賞作家大江健三郎氏」という肩書を付ける。どこかの将軍様を思わせるが、ノーベル賞のご威光は大なるものらしい。
しかし佐藤栄作氏は生前ついに同紙によって「ノーベル賞政治家」と呼ばれることはなかった)
彼はそのエッセイでいきなり「日本は軍国主義の侵略戦争を反省して、戦後アメリカから扶植された民主主義を奇貨として憲法と教育基本法を備えた民主国家となった。
しかるに、小泉首相はブッシュ大統領の世界戦略に唯々諾々と従い、日本をテロリストの標的とするような愚かな政治的選択に踏み込んでいる」とぶちかましてくれる。
いわゆる進歩的文化人といわれる人たちが、アメリカに対して激しい憎悪を抱きながらそのアメリカから投げ与えられた「戦後民主主義」と「日本国憲法」だけは握り締めて話さない心性はある種の病理学的研究の対象として興味深いところだが、
それはこの際措くとしても、「戦後民主主義」を全く疑うことなく拝跪するその姿勢は全く「知識人」とは思えない思考停止ではないか。
(「日本自身による軍国主義の反省の結果」と糊塗するのは正面からその事実を見据えるのが怖いからであろう)もっとも大江の思考停止は今に始まったことではないが。
何せノーベル賞は「スウェーデンの市民から授けられた名誉だからありがたくいただくが文化勲章は「日本の国家権力から与えられる賞」であるという理由で拒否し、その幼稚な思考で唖然とさせた前歴がある。
(いうまでもないが、ノーベル文学賞はスウェーデン王立科学アカデミーの選考による)次回に続きます。
89吾輩は名無しである:2005/11/25(金) 21:37:55
2003年12月6日(土)ホヨードゥモントレーロブストと「知識人」の枯渇〜その2〜
(中略)
 (承前)大江のピュアな思考ぶりは例えば、
「子供時代、10歳までを私は第二次世界大戦の苦痛のうちに成長した。私は日本の超国家主義を味わった。
戦後、民主制と民主主義的理念が民主制のうちの最良の部分、すなわちアメリカの民主制によって日本に扶植された。そして、今度は日本が憲法と教育基本法を備えた民主国家となったのである。
以来、日本人はアメリカの大衆文化、映画や音楽によって影響されてきた。そのことには何の問題もない。日本人はそれでおのれのアイデンティティを失いはしなかった。」
という一節にもいかんなく示されている。
これを読んでその余りの能天気ぶりに「おいおい」というツッコミを20回くらい入れたくなったのは私だけではないだろう。
この余りにも無邪気な「善なるアメリカとそれによってもたらされた「戦後民主主義」に対する信仰」は、いくら愛する日本国憲法によって信教の自由が保障されているとはいえ(笑)、信じても救われない。
戦前の日本にいかなる形でも民主主義は存在しなかったと考えたい一部の人たちがその反動として「戦後民主主義」を抱きしめて離さないのも宗教に類似しているが、
おそらく彼らはなぜ「戦後民主主義」がつねに「カッコ付き」で語られる存在であるのかは理解できないだろう。
敗戦からの再出発に当たって日本人が持たなければならなかった新しいアイデンティティは、映画や音楽といった文化のごく一側面によって形成されたものではむろんない。
あるいは彼は、全き善であった偉大なアメリカがその後世界を侵略する邪悪の帝国(笑)に変貌したことについて呆然としているのかもしれないが、このように無邪気な、考察ともいえない考察では日本を含めた国際政治の全体像を俯瞰することなどとても不可能だ。
思考の枯渇した「知識人」には静かに退場していただくしかない。