(つづき)
このようにしてシャベール大佐も破滅する。物語の最後にわれわれが彼を目にするのは、
貧民相手の養老院においてである。しかし、上に挙げた「人間喜劇」の他の受難者に比べて、
彼の最後には、そこはかとない明るさが漂っているような気がする。たぶんそれは、彼
ひとりがナポレオン帝政時代の最後の生き残りであるからなのだろう。他の人物たちは、
それに取って代わった王政復古期のブルジョア社会の住人である。バルザック自身が、この
時代を「それは寒々とした、けち臭い、詩に欠けた時代であった」と評している。それが
過去形ではなく、現在まで継続していることは言うまでもない。それにしても21世紀の
住人であるわたしが、200年も前に終わった時代の挽歌に打たれるのはなぜだろう。
それはたぶん、バルザックの時代を境にして物語=叙事詩(ロマン)が死に、小説
(ノヴェル)が生まれたからだ。バルザックの作品は、叙事詩の死にして小説の誕生なのだ。
シャベール大佐は最後の叙事詩の英雄として、彼の妻をはじめとする、小説の時代の登場人物
たちに滅ぼされたのである。
「旅人」湯川秀樹 角川文庫
思い返すと理論物理学を志したのはこの書の及ぼすところが大きい。
これは、成功した科学者の自伝書ではない。深淵を彷徨う一個の明晰な旅人の詩である。
その旅人は厳正な態度で己に挑む修行僧でもある。ゆえに人の心を動かしてやまない何かがある。
それな何だろうか。そう問いながら暗い夜道を散歩する。
ふと林の暗闇に目を向ける。そこに深遠なる無限を見たのである。
私の足は急に震え出した。のみならず激しい羞恥に襲われた。
今までの私の研究のいかに平俗であったかを痛感したのである。
帰宅した私は、こじゃれた寝間着を脱ぎ捨て、綿パンとコーデュロイのジャケットを羽織り気味に愛車のボルボに乗り込んだ。
どこに行くというのでもなかった。ただブルブル震えてやまない私の身体をどうにかしたかった。砂利道を通り越したその時である。
携帯にメールが入った。誰だ今ごろ。
メール欄を開く。愛人の雪絵であった。彼女から誘いがあるとは意外である。
私は誘いに藁をつかむ思いで乗った。
その晩私たちは深遠の宇宙を彷徨った。
翌朝、私は着想した。
なんだかコピペっぽいがw
自分の書いた文章に悪酔いしてる文章の典型だな
本の内容については何ひとつ語っていない
川端の「乙女の港」読了。
百合にぞわぞわしたイキオイで、川端つながり「みずうみ」読み始め。
途中、気持ち悪くて脳貧血起こしかけた。本当にすごい変態だ。
保守
「本格小説」水村美苗
文庫
今まで読んだ小説の中で一番面白かった
が、再読は無用。
脳に焼き付いた。
一字一句が焼き付いてる。
とにかく、これは面白い。
しかしあえて批評をすれば、序盤、人を笑わせすぎである。
面白半分に書いている印象を強く持ちました。
最初から最後まで全力投球が文学の基本姿勢だと思ってるので、
不謹慎だなと。
まあ、笑えたからいいけど。
あれで笑えなかったら最後まで読んでなかったしね。
ageるべきか迷うんだONE!
07月25日 忘却の河 福永武彦 新潮文庫
07月29日 レキシントンの幽霊 村上春樹 文春文庫
08月04日 赤毛の司天台 新田次郎 中公文庫
387 :
ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2006/08/09(水) 01:17:24
『脂肪の塊』 モーパッサン 水野亮 訳 岩波文庫
映画『駅馬車』の元ネタということで手にとった。
リンゴー・キッドは出てきませんでした。
彼なら、最後涙にくれる娼婦をほっときはしなかたろうに。
それにしても映画の通俗性なら許せて、
この小説のいわゆるリアリズムが鼻につくのはなぜだろう。
「失われた時を求めて」プルースト
ようやく読了したことを報告する。
スタンダール全集
流し読み。
「コーラン」
熟読
「仏典」
「旧約聖書」
「宇治収遺物語」
「ジャパンアズNo.1」
「ジャパンアズNo.1?」
読破
389 :
吾輩は名無しである:2006/08/12(土) 21:39:44
「仮面の告白」
三島由紀夫の作品を初めて手に取りました。
とにかく、一行も無駄のない内容に圧倒されました。推敲、とは、こういうことを言うのだろうな…と。
同時に、私の中で曖昧だった靄のような何かが、急激に、形を取った気がして。
その鮮明さが怖い。
あまりにもリアル。
私は活字の中で溺れてしまった。
17歳の夏休みに、こんな本を読むんじゃなかった……。
ついでに「金閣寺」も読んでみよう!
「本格小説」 水村美苗 新潮文庫
諧謔と知性溢れる傑作。
睡眠不足必定の不世出の名作。
娯楽性と純文学性をマッチさせた天才。
『夢と夢の間』
後藤明生 集英社 1978年
「だからさ、その文房具を買って来て、包み紙をはずしてしまえば、もう輪ゴムは
いらなくなるわけだよな」
「うん」
「しかしだな、確かにそれで輪ゴムの用はなくなるわけだけどね、だからといって、
輪ゴムが、ゴムでなくなるわけじゃないだろう」
「うん」
(p216)
これは、主人公の大学講師と、中学三年になるその息子との会話である。
敗戦直後の物資欠乏の中で育った主人公が、高度経済成長後の繁栄を空気のように
呼吸している息子から、なぜ輪ゴムを捨てずに、机の上のインク瓶に巻いて取って
おくのかと聞かれ、苦心して説明を試みているのである。世代間の断絶の描写としては、
一見ありふれたもののように見える。おそらくこの時代の大抵の家庭では、これに
類する会話が一度ならず交わされたのではないか。私もまた両親の「ものを大切に」
という説教が、その効果はともかく、いまだに耳朶にこびりついている世代に属して
いる。
しかし、主人公の直面する困難は、世の親達のそれとは少し性質を異にしているの
かも知れない。彼は別に息子に対して、ものを大切にせよと説教しているのではないの
である。なぜなら、彼がインク瓶に巻きつける輪ゴムは、ただ巻きつけられたままで、
何かに役立てられることもなく、インク瓶が空になるのと同時に、一緒に捨てられて
しまうからだ。
この困難さというか、もどかしさは、そのままこの小説が耐えている困難さに一致
する。この小説で何か難解なことや困難なことが語られているというわけではない。
作者の現実が幾分か反映されてもいるであろう主人公は、あくまでも平凡な小市民
として存在しており、その思考も行為も、読者の常識を逸脱することは決してない。
単に「世代論」として読まれるのであれば、本書は気の抜けたビールのように希薄な
存在感しか示さないだろう。
(続き)
しかし、本書がはらむ困難は、正にこの平易さと希薄さそのものの中にあるといって
よい。「輪ゴム」が「輪ゴム」としての用途=「メッセージ」を剥奪された後も、ゴム
という物質であり続けるように、日常はふとした瞬間に、その希薄に纏われた「意味」
を吹き払われて、単なる「物質」としての己をあらわにするのだ。そのあるかなしかの
瞬間を現前させるために、意味はできるだけ希薄でなければならない。しかも、その
意味を取り払われた後に残る物質も、いわゆる「真理」などというものとは程遠い、
鈍い肉体的な感覚をつかの間与えるのみなのだ。
「彼は、妻とのやりとりを打ち切って、もう一度、競馬場の方を眺めた。すると、自分
が今こうして、この京葉ハイツと呼ばれるハイツの、五階のベランダで、道子という
名前の女と並んで立っていることが、何か不思議なことのような気がしてきた」(p173)
「この二つの世代の違いは大きい。(中略)しかし不思議なことは、その違いそのもの
よりも、そういう二つの世代が、こうやって親子として暮らしているということだろう」
(p12)
「彼はふとんの中から、呆んやりと仕事部屋の天井を見上げた。そして、また、おや、
と思った。天井は白木の板だった。それが何か不思議なことに思えた。この鉄筋
コンクリートのハイツの中に、そんなものがあることが意外だったのである。
もちろん山川の仕事部屋の天井が、とつぜん白木の板に変わったわけではなかった。
山川が忘れていただけだった」(p344)
このように、主人公は何度も「不思議」がる。しかし、その感覚が彼を実存的な考察
に追いやることはついになく、平凡な市民である主人公は、一瞬の眩暈の後に、再び
日常の世界へと戻って行く。ところで、この希薄な意味を纏った希薄な物質としての
日常の正体とは何だろうか。それはおそらく「言葉そのもの」なのだ。言葉は、ゴムや
紐(これも主人公の執着の対象である)のような物質的存在としてあり、本書もその
ような限りなく無意味に近い物質の集積として存在している。そこに纏わりついている
「意味」などは夢のようなものに過ぎぬ。「夢と夢の間」に言葉がある、というよりは、
言葉と言葉の間に夢があるのだ。
(最後)
しかし、このような状況は、あくまで「歴史的」なものであることを、後藤は別の
著作の中で述べている。
「つまり「日常」とは別のどこかに「異様」な世界があるのではない。日常そのものが
異様なる世界なのである。そしてそれは「僕らの日本」が、戦争に負けることによって
はじめて発見された、小説の新しい世界ではないかと思う」
(後藤明生 『小説――いかに読み、いかに書くか』 講談社現代新書 p212)
つまり後藤は、敗戦直後の自分達の体験が「リアル」であり、それに続く世代のそれが
希薄な虚構だなどとは決して言わないのだ。敗戦を境に、そもそも我々の「リアリズム」
は失われてしまったのである。だから、主人公とその息子の関係も「夢と夢の間」なのだ。
この過激な「歴史認識」は、あくまで希薄な言葉でしか語られ得ない。それが息子の
疑問を前にした主人公の困難であり、同時に本書の野心なのである。
『あめりか物語』 永井荷風 岩波文庫 2002年改版
独身者は、いつも「外」に誘われるようにして彷徨いを始める。
独身者は足音をひそめて、ひとり霧深い夜半の街を歩いてゆく。
「ここに半夜を費やし、やがて閉場のワルツに送られて、群集と共に外に
出れば、冷き風、颯然として面を打つ…………余は常に劇場を出でたる
この瞬間の情味を忘れ得ず候。見回す街の光景は、初夜の頃、入場したる
時の賑さには引変えて、静り行く夜の影深く四辺をこめたれば、身は忽然、
見も知らぬ街頭に迷出たるが如く、朧気なる不安と、それに伴う好奇の
念に誘われて、行手を定めず歩みたき心地に相成り候」
(「夜あるき」)
しかしどうしたことか、絶えず「外」を求めてやまないはずの独身者は、
今度は家々の窓から漏れる暖かな灯火に吸い寄せられて行くのだ。
「ある日本人は盛に、米国の家庭や婦人の欠点を見出しては、非難しますが、
私には例え表面の形式、偽善であっても何でもよい、良人が食卓で妻の
ために肉を切って皿に取って遣れば、妻はその返しとして良人のために茶を
つぎ菓子を切る、その有様を見るだけでも、私は非常な愉快を感じ、強いて
その裏面を覗って、折角の美しい感想を破るに忍びない」
(「一月一日」)
それら明るい窓々が懐かしいのは、寂寥や疲れにさいなまれた独身者が、
たとえ一時の気の迷いであれ、家庭主義者に鞍替えしたからなのだろうか。
違うのだ。独身者は、常に「外」を求めてやまないものである。戸外に出た
瞬間、外は「外」であることをやめてしまい、今度は、独身者にとって、
壁に囲まれた家の中こそが「外」となったからだ。全てはガラス窓越しの
風景である。独身者は、その後ろに控える「裏面」だの「真実」などには
一顧だにしない。そして独身者、荷風にとって、4年間を過ごした北米大陸
は、巨大なひとつの「外部」に他ならなかった。
「自分は走行く電車の中から幾人と数え尽されぬほど、多くの美人多くの
美男子を見た。自分は美人美男子を見る時ほど、現生に対する愛着の念と、
我と我存在を嬉しく思う事はない。科学者ならぬ無邪気の少女は、野に
咲く花をただ美しいとばかり、毒草なるや否やを知らぬと等しく、道学者、
警察官ならぬ自分は、幸にして肉体の奥に隠された人の心の善悪を洞察する
力を持っていないので美しい男、美しい女の歩む処、笑う処、楽しむ処は、
すべて理想の天国であるが如く思われる。」
(「夏の海」)
こうした独身者の彷徨いは、しかし行き着く場所を知らぬ、魅惑によって
呪われた永久運動に他ならない。
「夢、酔、幻、これ、吾らの生命である。吾々は絶えず、恋を思い、成功を
夢みているが、しかし、決してそれらの、現実される事を望んでいるのでは
ない。ただ、現実されるらしく見える、空(あだ)なる影を追うて、その
予想と予期に酔うていたいのである」
(「おち葉」7)
「自分は結婚を非常に厭み恐れる、と答えた。これはすべての現実に絶望
しているからである。現実は自分の大敵である。自分は恋を欲する、が、
その成就するよりは、むしろ失敗せん事を願っている。恋は成ると共に煙の
如く消えてしまうものであれば、自分は、得がたい恋、失える恋によって、
わずかに一生涯をば、まことの恋の夢に明してしまいたい――これが自分の
望みである」
(「六月の夜の夢」)
一見すれば気恥ずかしいほどキザな大見得だが、実はこれらは独身者の
峻厳なマニフェストなのだ。絶えず「外」へ「外」へと横滑りして行くこと。
独身者にとっての恋とは、この終着点を持たぬ無限運動そのものに他ならない。
冬にあっては夏を、夏にあっては冬を夢見る独身者にとって、最も美しいのは
夏や冬そのものではなく、それらの間の移行の瞬間である。
「一閃の朝日が、高い見世物の塔の上に輝き初めた――ああ、何たる美しい
光であろう。自分は一夜、閉込められた魔窟から救い出されたように感じて、
覚えずその光を伏拝んだのである」
(「暁」)
しかし、その光が独身者の最終的な救いとはなりえないことは、もはや
言うまでもない。また夜が来て、朝が来る。
09月09日 或る女 有島武郎 角川文庫
09月17日 内灘夫人 五木寛之 新潮文庫
09月30日 剣客商売 池波正太郎 新潮文庫
10月12日 翔んでる警視正 平成篇1 胡桃沢耕史 文春文庫
10月14日 日本人ここにありB成功編 梶山季之 角川文庫
10月18日 麦屋町昼下がり 藤沢周平 文春文庫
『詩めくり』 谷川俊太郎 マドラ出版株式会社(って何モノ?) 1984年
楽しかったです。
件名:削除を求める
日時:2006年10月30日 23:46:52
貴殿の下記の記述は、私(福永正明)の名誉を毀損し、誹謗中傷するものであり、本メール到着後2日以内の削除を求める。
なお、削除を実行しない場合には、関係法規に従い法的措置を執る用意があることを通知する。
2006年10月30日
筑摩書房刊行「インド旅案内」執筆者
福永正明
http://yondance.blog25.fc2.com/ 「分け入っても分け入っても本の山」より、名誉毀損の記述内容の引用
ペンギン666 URL @
10/31 23:58 . なるほど。
たしかに名誉を毀損しかねない記述はありますね。
「だれからも嫌われる旅行者がインドにはいる。 」
「古株ぶって、やたら先輩風を吹かせる」
「自分がいちばんインドをわかっていると勘違いした男」
「本書を読んで思う。たしかに福永正明先生は問題がある。
人間的な問題が! 大問題が!」
誰からも嫌われている、先輩風を吹かせる、
勘違いしている、人間的な問題がある、
そういった点を具体的・理性的に説明していないのは、
大いに問題です。
事実であっても相手の名誉を毀損する内容は
名誉毀損に問われる可能性がありますが、
出版・公開されている文書と作者を、
具体的な説明を伴って理性的に批判するのなら問題はないでしょう。
もちろん、それでも告訴は可能ですが。
ところで「削除しないと告訴するぞ」といって実際に告訴しない場合、
脅迫罪や強要罪に問われる可能性があるそうですよ。
ムー大陸 URL @
11/01 00:41 どうでもよい横槍です。.
>さっそうと逃げます。
これは日本語としてへんなんじゃ…?
「さっさと逃げる」ではないかと。
すみません。
応援してます♪
Yonda? URL @
11/01 19:48 ペンギン666さんへ.
デリケートな問題にコメントをいただき、ありがとうございます。
わたしも名誉毀損問題をいろいろ調べてみましたが、いまいちわかりません。
ひとさまざまです。
有名作家はいくら批判されようがいちいち訴えたりしません。
これは度量の大小と関係あるのかはまだわかりません。
福永氏からの返信がないからです。
まあ、期限は今日まで。そのうちわかることです。
結果は「本の山」で報告いたします。
よろしければもうしばらく見守ってください。
Yonda? URL @
11/01 20:17 ムー大陸さんへ.
さっそうと返答します。
たしかに変です。日本語を間違えています。
グーグル検索で何件ヒットしようと誤記は誤記です。
ご指摘、ありがとうございます。今後、注意します。
ううむ。どうでしょうか。
この場合は「さっさと」よりは「早々と」のほうがいいような。
早々と退散する。
「さっさと」では、かのインド学者が疫病神かなにかのようです。
敬して遠ざかるというのが、表現したい逃亡方法でした。
>応援してます♪
法廷へご登場願うことも、あるいはあるかもしれません(笑)。
そのときはよろしくお願いします。
いざとなったら、仕方がないとあきらめます。
「訴える」といいさえすれば、批判をもみけせるという風潮を作ってはいけません。
Yonda? URL @
11/01 20:22 Kさんへ.
間違えてコメントを消してしまいました。
Kさんのコメントは以下です。
うっかりしていました。ごめんなさい。お許しください。
>「福永正明」でググるとここが3番目に出てくるんですね。
>4番目に出るアマゾンの書評は全て好意的なので、
>Yonda?さんみたいな意見もあると公平でいいことだとは思うんですが、
>いかんせん目立ちすぎてしまったということでしょうか。
>しかし言論弾圧はジャーナリズムの宿敵ですから、削除する必要はないと思いますね。
わざわざ調べてくださったようで。
ありがとうございます。
なんでこんなにグーグルから好かれているのかわかりません。
人間にはあまり好かれないのだから、なんとも皮肉なものです。
いまのところ削除をするつもりはありません。
福永氏の返信を待っているところです。
ですが、これで名誉毀損が成立するのならおかしな話。
ネット上には無数の書評サイトがあります。
どれも対象をほめているものばかりではないのは当然でしょう。
著者がそれらサイトを名誉毀損で訴えたという話は聞いたことがありません。
うちが初めてのケースになるのかもしれないと思うと複雑な気分です。
ムー大陸 URL @
11/01 20:56 ごめん世間知らずで.
>法廷へご登場願うことも、あるいはあるかもしれません(笑)。
名誉毀損って民事だったっけ、刑事だったっけw
『新釈雨月物語・新釈春雨物語』 石川淳 ちくま文庫 1991年
『現代語訳 日本の古典 雨月物語・春雨物語』 後藤明生 学習研究社 1980年
「罪と罰」江川卓訳 岩波文庫 2005
再読。
これをはじめて読んだときは殺人を扱っていてもちゃんと文学作品になるんだと驚いた。
それと作者が登場人物をこれでもかと悲惨な状況におとしこむところがいやだった。
以降ささやかながら読書体験を積んで、ギリシア悲劇やシェイクスピアなどで
昔から人殺しは重要なテーマであり、社会の底辺の人々の惨めな暮らしを描き
読者の哀れを誘うのは、ユゴーやディケンズなど19世紀の文豪によく見られること
だと知った。
今「罪と罰」を読んで感じるのは主人公ラスコーリニコフの現代性です。
ある程度教養はあるけれどそれを生かす術がなく、自意識ばかりが高い
「高等遊民」は身の回りを見渡せばあちこちで見かけることができる。
誰より自分自身の中に。
「謎とき『罪と罰』」 江川卓 新潮選書 2005
「罪と罰」を「巧妙なからくり装置」であるとして「罪と罰」を深読みしている本。
この「謎とき」では予審判事のポルフィーリイが最後に登場する場面で
人が変わってしまったようになるところを解釈するところが一番面白かった。
これは今回「罪と罰」を読んで私も気になったところだった。
今までポルフィーリイは刑事コロンボ的役回りとしてとらえていたけれど
見方によってはなかなか奥が深い人物ですね。
辻仁成「クラウディ」読了。
噂には聞いていたが、ひどい小説だ。
描写が稚拙。一生懸命恰好いい表現をしようとしているのが鼻につく。
自由だとか、亡命だとか、そういうテーマも幼稚な感じがする。30歳ならもっと他のこと考えろ。
「七王国の玉座W」 ジョージ・R・R・マーティン ハヤカワ文庫
文庫になってくれて本当に嬉しいシリーズ
純粋にコレ面白い!と思える本なので、是非読んでみて欲しい
いやしかし、あっちこっちで色々起こって大変だ…早くXも読もう
『神秘の島』(上)(下)
J・ベルヌ 作 清水正和 訳 福音館書店 1978年
「野火」 大岡昇平 新潮文庫 2006
再読。
これを読んで気になるのは、主人公が人肉を食べることには良心の
呵責を感じているのに、フィリピン人の女を殺したことにはそれほど
心を動かされていないこと。
女に銃を向けた瞬間こそ、彼の左手は右手を止めるべきではなかったか。
もっとも、少年時に知った「性的習慣」(58頁)のときも
左手は右手をとめなかったらしいです。
「武蔵野夫人」 大岡昇平 新潮文庫 1983
昔から何度も読みかけては途中で投げ出していたこの本をついに読破。
舞台や人物の説明の続く第一章で、はやく本題に入らないかと
いつもイライラしてしまうのです。
けれどここに、「いずれ宮地家は死に絶える」という予言(11頁)や
催眠剤を手に入れる(16頁)という物語の伏線があるので
決して軽んじてはいけないのでした。
ストーリー自体は言ってみれば小金井のエンマ・カレーニナと
若い復員兵の悲恋。
.
「事件」 大岡昇平 新潮文庫 2006
ある町で起きた殺人事件を裁判の模様を軸に描く。
裁判所の内幕物としては取材不足な感じ。
なにより弁護士だけかっこよく描き過ぎ。
また推理小説として読んでもドキドキがなくつまらない。
後半になって都合良く殺人の目撃者が現れたりして興ざめです。
殺人犯が被害者の夢を見るところを引用
「宏も夢を見る。ハツ子はまだ生きているので彼はもう一度殺さなければ
ならない。ハツ子の顔が子供みたいな表情をとり、目の前から消え失せる。
しかしなんども起き上がって来て、彼の方へ手を差し伸べる」
リザヴェータ(罪と罰)ですね。
「小説家夏目漱石」 大岡昇平 筑摩書房 1992
大岡が30年にわたって漱石について書いた文章や講演をまとめたもの。
前半に漱石の初期の短編「薤露行(かいろこう)」に関する江藤淳との論争が
収録されているけれど、こんな論争に興味ある人はいるのだろうか?
未完の「明暗」がその後どう展開していったのかを推量する
「『明暗』の結末について」だけおもしろく読んだ。
大岡は『明暗』を子供の頃読んだときはちっともおもしろくなかったけど
「……こんどこの講演をするために、読み返したら、面白かった。
もっともその意味は複雑で、諸家の異なった様々の議論を導き出すテクスト、
パズルとしてのテクストの興味でした」と言う。
漱石に対するこういう接し方は近年漱石について書く人によくみられると思う。
12月28日 背徳のメス 黒岩重吾 角川文庫
01月01日 女坂 円地文子 角川文庫
01月08日 伊賀忍法帖 山田風太郎 角川文庫
02月11日 生きてゐる兵隊 石川達三 角川文庫
02月14日 人間コク宝 吉田豪 幻冬舎文庫
02月20日 まんぞく まんぞく 池波正太郎 新潮文庫
03月07日 孤剣 藤沢周平 新潮文庫
03月13日 特務工作員01 大藪春彦 徳間文庫
03月24日 ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー 山田詠美 角川文庫
04月01日 雪の炎 新田次郎 文春文庫
4/21『タウリス島のイフィゲーニエ』 ゲーテ/片山俊彦 岩波文庫
ゲーテはこれが初だがわるくなかった
04月19日 二十歳の設計 源氏鶏太 集英社文庫
05月15日 ナギーブ・マフフーズ短編集−エジプト人文豪の作品より ナギーブ・マフフーズ/塙治夫訳 近代文芸社
05月18日 ふてえ奴(上)無我夢中の巻 清水一行 角川文庫
05月19日 タムくんとイープン ウィスット・ポンニミット 新潮社
06月08日 神様のメモ帳 杉井光 電撃文庫
06月09日 絹 アレッサンドロ・バリッコ/鈴木昭博訳 白水社
06月10日 ふてえ奴(下)男・挑戦の巻 清水一行 角川文庫
06月14日 バンコクジャパニーズ列伝 皿井タレー 双葉社
06月19日 地下鉄のギタリスト 土門秀明 水曜社
06月23日 速効!図解 Illustrator CS Windows版 BABOアートワークス 毎日コミュニケーションズ
426 :
吾輩は名無しである:2007/07/12(木) 19:25:55
JHグリフィン「私のように黒い夜」読了
皮膚病薬を飲んで内側から肌を黒く染め、さらに頭髪を剃り落とし完全に黒人になりきる。
白人作家JHグリフィンの行く先はアメリカ南部。
黒人として味わう様々な差別から浮かび上がってくる隠されたアメリカの姿。
06月24日 間違いだらけのタイ語 中島 マリン/吉川 由佳/赤木 攻 (監修) めこん
06月24日 難民キャンプのパントマイム 矢野和貴 めこん
07月02日 モリー先生との火曜日 ミッチ・アルボム/別宮貞徳訳 NHK出版
07月08日 ラーマヤナ エリザベス・シーガー/山本まつよ訳 子ども文庫の会
07月08日 キリスト屋 平賀元気 サンクチュアリ出版
07月09日 バンコク・自分探しのリング―ムエタイを選んだ五人の若者 吉川 秀樹 めこん
07月10日 普通の人が本を書いて怖いくらい儲かる秘術 わらし仙人 総合法令出版
07月11日 歩くバンコク DACO編集部 メディアポルタ
07月13日 日本のみなさんさようなら リリー・フランキー 文藝春秋
07月21日 タイの歴史―タイ高校社会科教科書 柿崎 千代訳 中央大学政策文化総合研究所 明石書店
07月20日 ラーマーヤナ―インド古典物語 (上) 河田 清史 第三文明社
07月22日 速効!図解 Photoshop Elements2.0 Windows版 BABOアートワークス 毎日コミュニケーションズ
08月02日 ラーマーヤナ―インド古典物語 (下) 河田 清史 第三文明社
08月03日 わたしの名は「紅」 オルハン パムク/和久井 路子訳 藤原書店
08月03日 時の肖像―小説・中上健次 辻章 新潮社