ポール・ヴァレリー Paul Vale´ry

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58吾輩は名無しである
 一遍の詩(ポエーム)は、「知性」(アンテレクト)の祝祭であるべきだ。それは、
それ以外のものであってはならない。
 すでに祝祭である。すなわち楽しみであるべきだ、だがおごそかな楽しみ、規矩ある
楽しみ、意義ある楽しみであるべきだ。普通はない姿であり、努力が報いられてそのまま
リズムとなるような境地の姿であるべきだ。
 祝祭は、あるものが完成した時、または、あるものをその最も純粋な最も美しい状態に
顕示してこれをとり行なう。
 詩の場合、言語(ランガージュ)の性能とその逆現象(“その逆現象”に傍点)、
その内容、それが分離するものの識別(イダンチテ)が問題になる。また言語(ランガージュ)
から、そのわずらわしさ、その弱点、その家常臭を除去する必要も生じる。つまり人は
言語の持つあらゆる可能性を組織立てなければならない。(“可能性を組織”に傍点)
 祝祭が終わったあとには、何物も残るべきではない。 ただに、灰と踏みにじられた花綵と。

                                ヴァレリー文学論/堀口大學訳