Gilbert Keith Chesterton:“The club of queer trades”(創元推理文庫『奇商クラブ』ほか) 英国の大評論家が最初に著した小説がこれとのこと。 この後、有名なブラウン神父シリーズを書いていくことになった、らしい。 都会の本屋で偶然に発見。他のところで見たことがないので絶版かも。
Lord Auch(Georges Bataille):“Histoire de L'oeil”(河出文庫『眼球譚<初稿>』ほか) 特異な構成と激烈な性の世界。まだ読みかけだけど、 とりあえず電車の中ではとても読み辛い…。 河出板がわざわざ初稿と銘打っているのは、この作品は 初稿と改稿ではかなり内容が違うからだとのこと。 改稿版は入手可能なのだろうか…。この初稿版の入手は、結構楽だと思う。
あとついでに、たまたま今バルザックのスレが上がっていたので、彼の処女作を―― Balzac, Honoré de. Cromwell. 1820. オノレ・ド・バルザック『クロムウェル』1820年. (Balzac, Honoré de. Cromwell: tragédie en cinq actes et en verst. Princeton Univ Pr. 1925.)
かの厖大な『人間喜劇』 La Comedie Humaine の作家も、その最初の企ては劇詩であった。 ただし彼が十二歳のときに創ったというインカ帝国に題材をとった叙事詩の第一行目 「ああインカよ、ああ悲運薄幸の王よ!」 « O Inca ! ô roi infortuné et malheureux ! » が『ルイ・ランベール』 (Louis Lambert. 1832) のなかにある。これをどう捉えるか。
■プルースト、マルセル (1871–1922) Proust, Marcel. Les Plaisirs et les Jours. 1896. プルースト『楽しみと日々』窪田般彌訳、福武書店、1986年。
小説の登場人物のうちで、バルザッシアンといってゆくりなくも思い出されるのは、たとえばそう、『失われた時を求めて』 À la Recherche du Temps Perdu におけるあの奇矯な人物シャルリュス男爵ではないだろうか。 わたしの好きな彼の評言に、「バルザックは、ほかのみんながまだ気づかないか、あるいは罪の烙印をおすためにしかせんさくしない、あの種の情熱をさえもよく知ってい〔た〕」(『ソドムとゴモラ』 Sodome et Gomorrhe、第二部、井上究一郎訳) というのがあるのだけれども、もちろんそれは本題とは関係がない。
そしてそのマルセル・プルーストの最初の著作といえば、『楽しみと日々』 Les Plaisirs et les Jours ということになっている。 これは「ル・ゴーロワ」 Le Gaulois 紙やリセ・コンドルセ時代の友人たちとの文藝同人誌「饗宴」 Le Banquet に発表された詩的散文を柱としてまとめられた、絵画的な作品集だ。 さらに収録された十篇の作品をみると、孤児の少女が恋をし、成長して社交界にかかわってゆくさまを描いた、「ヴィオラントあるいは世俗の華」 Violante ou la Mondanité と題する一篇が、最も若い1892年8月という日付を刻んでいる。 (もっとも、彼にはさらに年少の時期になる批評などがないわけではないが、これはしばらく措くとしよう。) 「ある作家を読みはじめると」とプルーストはいっている。「私はすぐ、ほかの作家のとははっきり違った唄の節を、歌詞の陰に苦もなく見分けたものだった。」(『サントブーヴに反論する』 Contre Sainte–Beuve、出口裕弘・吉川一義訳) これは彼自身についてもはっきりといえることだろう。 なるほど若書きの書ではあるかもしれないが、『楽しみと日々』の諸篇が奏でる響きは、『失われた時』の作家のものにほかならない。
エルンスト・テーオドール・アマデーウス・ホフマンの処女作はといえば、1795年に書かれた小説『コルナロ、伯爵ユーリウス・フォン・Sの回想』 Cornaro, Memoiren des Grafen Julius von S. ということになるだろう。 同年、彼は『神秘の人』 Der Geheimnisvolle という作品も執筆している。 しかし残念なことに、両作品ともテキストは散逸して伝わらない。 1803年には、雑誌に『首都の友人に送る修道士の手紙』 Schreibens eines Klostergeistlichen an seinem Freund in der Hauptstadt を発表しており、これが彼の最初に活字になった作品ということになる。 ただしこれはエッセーである。 そして彼が『リッター・グルック』 Ritter Gluck のために筆を執るのは、さらに五年後の1808年になってからのことである。 この小説は、翌1809年「音楽報知」 Allgemeine Musikalische Zeitung 紙に発表された。 ホフマン三十三歳のことである。
Hoffmann, Ernst Theodor Amadeus. Ritter Gluck. 1809. ホフマン「騎士グルック」深田甫訳、『ホフマン全集 1』創土社、1976年。 ホフマン「騎士グルック」鈴木潔訳、『ドイツ・ロマン派全集 3 ホフマン』国書刊行会、1983年。
■フロベール、ギュスターヴ(1821–1880) Flaubert, Gustave. Louis XIII. 1831. Flaubert, G. « Louis XIII. » Œuvres Complètes, tome 1: Œuvres de Jeunesse. Paris: Gallimard, 2001. フロベール『ルイ十三世』
『楽しみと日々』[>>77]のなかの一篇「ブヴァールとペキュシェの世俗趣味と音楽狂」 Mondanité et Mélomanie de Bouvard et Pécuchet には、フロベールの奇妙なふたりの人物が駆り出されている。 そのはしゃぎようからも、彼らをことのほか愛してやまなかったらしい、若きプルーストの底知れぬ感性がうかがえる。 フロベールの絶筆『ブヴァールとペキュシェ』 Bouvard et Pécuchet の作品世界に遊ぶことに悦びをおぼえる者は、いまの世にも尠くないであろう。
ギュスターヴ・フロベールは、はじめに歴史を編んだ。 処女作『ルイ十三世』 Louis XIII は、1831年、彼がわずか九歳のときに書かれた史的作品で、プレイヤード版の全集でも華々しく劈頭を飾る。 彼は自身を、作中で同年齢におかれた幼き王になぞらえているらしく、この作品が彼の母親に捧げられているというところも、またなんともかわいらしい。 たしかに修行期の幼い筆でしかないが、わたしたちは、この瑞々しい歴史絵巻の世界に、彼が生涯育てつづけた資料への偏執と、歴史に対する情熱の花の萌芽をみてとることができるだろう。 しかし彼は歴史学者のようには書くのではない。 「解剖学者と生理学者とを、私はフローベール氏のあらゆる部分に見出すのである。」(サント=ブーヴ『月曜閑談』 Causeries du Lundi 土井寛之訳) そうした器用な資質から生み出される精密な描写の秘密は、やはり彼の類いまれな藝術的想像力と深く係わりがありそうだ。 彼がのちにあの周到な『サランボー』 Salammbô と、モノマニアックな『聖アントワヌの誘惑』 La Tentation de Saint Antoine を書かねばならなかったのも、ゆえなしとしない。
■ シラー、ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ(・フォン) (1759–1805) Schiller, Johann Christoph Friedrich (von). Die Christen. Absalon. 1772. シラー『キリスト者』『アブサロン』 ―――――――――――――――――――――――――――――― 浩瀚な資料に依拠して筆を執るにしても、 フロベール[>>80]の場合はそもそも学者ではなく あくまでも藝術家として挑んだのであって、 そうでなければ『サランボー』におけるカルタゴの詩美や、 『聖アントワヌの誘惑』の奇怪な幻想の花が咲くことはなかったであろう。
ドイツ古典主義文学を代表する作家であるシラーもまた、 厖大な文献を渉猟し、徹底的に解析したうえで詩文を綴ったわけであるが、 彼の場合は、イェーナ大学に職を得た専門の歴史学者でもあったわけで、 その考証的な姿勢は、まことに端倪すべからざるものである。 しかしそうはいっても、戯曲をなすのに史実に拘泥してしまっては、 作品に生命を吹き込むことはなかなか困難となるのであり、 たとえば『マリーア・シュトゥーアルト』 Maria Stuart におけるメアリーにせよ、 『オルレアンの乙女』 Die Jungfrau von Orleans におけるジャンヌ・ダルクにせよ、 史実とは異なりながらも、あのように水晶のごとく透きとおり輝いているのは、 やはり彼の稀有の詩人的素質がなせる業であろう。
Schiller, J. C. F. Zusammenhang der Tierischen Natur des Menschen mit Seiner Geistigen. 1780. シラー「人間の動物的性質と精神的性質との関連について」植田敏郎訳、『シラー選集 2』新関良三編、冨山房、1942年。
彼には数篇の小説もあるが、1782年の『寛大なる行為――最近の出来事より』 Eine großmütige Handlung, aus der neuesten Geschichte が最も早いようである。
さて、シュトルム・ウント・ドラングの記念碑として名高い戯曲『群盗』 Die Räuber であるが、すでに士官学校時代の1777年には、その最初のシーンが着手されている。 しかし完成作が発表となるのは、その四年後の1781年(初演は1782年)のことである。 失われた約十年前の二篇『キリスト者』『アブサロン』を除外するとなれば、 これ作品が最初の戯曲ということになるだろう。
Schiller, J. C. F. Die Räuber. 1781. シラー『群盗』久保栄訳、岩波文庫、岩波書店、1958年。
■ ラシーヌ、ジャン=バティスト (1639–1699) Racine, Jean–Baptist. Le Paysage, ou les Promenades de Port–Royal des Champs. c. 1665. Racine, J. Œuvres complètes, tome I. Paris: Gallimard, 1999. ラシーヌ『風景、あるいはポール=ロワイヤル散策』1655年頃。 ―――――――――――――――――――――――――――――― シラー[>>81-82]を評して語られるときの紋切型の表現のひとつに、 理想主義というのがあるけれども、なるほどたとえばショーなどと比較しても、 『オルレアンの乙女』におけるジャンヌは、ひときわ崇高に描かれている。 その意味では、時代も処も隔たるにせよ、彼をコルネイユと比較してみるのも興味深い。 一方、そのコルネイユととかく比較されがちなラシーヌの場合は、 これもしばしばいわれるように、悲痛ながらも人間の真実の姿を描くという点で、 わたしたちをして感歎させずにはおかない。 ラシーヌには「人が周圍の人々において認める事柄、自分の裡に感ずる所の事柄の方が より多くある。」(ラ・ブリュイエール『カラクテール』 Les Caractères 関根秀雄訳)
1655年、寄宿学校を出たジャン=バティスト・ラシーヌは、それ以前にもいた ポール=ロワイヤル修道院付設の学校にて、ふたたび峻厳な教育を授かることになる。 同1655年、かねてより彼の地の麗しき景色に魅せられていた彼は、 そのポール=ロワイヤルに、詩集『風景』 Le Paysage を捧げている。 成立は1656年から1658年あたりにかけてという意見もみられるが、いずれにせよ、 この詩集こそが彼の処女作であり、全集の雑詩篇の部にも冒頭に置かれる。 少年ラシーヌが、この作品を通じてポール=ロワイヤルを案内してくれるわけだが、 収録された七篇の標題が訪問先を語ってくれているから、ついでに示しておこう。 「ポール=ロワイヤル頌」 Louanges de Port–Royal en général 、「概観」 Le Paysage en gros 、 「林の叙景」 Description des bois 、「池」 L'Étang 、「草原」 Les Prairies 、 「群牛闘牛」 Des Troupeaux et d'un combat de Taureaux 、「庭園」 Les Jardins ――こうしたコースになっている。
Racine, J. La Thébaïde ou les Frères Ennemis. 1664. ラシーヌ「ラ・テバイード」鬼頭哲人訳、『ラシーヌ戯曲全集 I』伊吹武彦・佐藤朔編、人文書院、1964年。 ラシーヌ「ラ・テバイッド」渡辺清子訳、『世界古典文学全集 48 ラシーヌ』筑摩書房、1965年。
同時代のセヴィニェ夫人(1626–1694)は、その次の作品である『アレクサンドル大王』 Alexandre le Grand (1665年初演)や『アンドロマック』 Andromaque (1667年初演) といった初期の戯曲を妙にほめているようだが、わたしの場合は、むしろ劇壇引退後に 書かれた神聖なふたつの作品、すなわち音楽的な『エステル』 Esther (1689年初演)と 宿命的な『アタリー』 Athalie (1691年初演)とに、彼の詩魂の円熟の達成をみる。 いずれにせよ、彼の作品は、二十一世紀に生きる者の心をも捉えて放さないのであって、 「ラシーヌは〔彼の愛人である女優の〕シャンメレのために芝居を作るのです。 後世のためではありません」(『グリニャン夫人宛書簡』 Lettre à Mme de Grignan 吉田郁子訳)とは、少々いい過ぎであろう。 処女作のころ、ポール=ロワイヤルで熾烈なる信仰心と深きギリシア古典の素養を 身につけた彼は、ついに「かつて異教徒がその邪神をたたえて歌うのに用いた合唱部を、 真の神をたたえて歌う」(『エステル』序文、戸張智雄訳)までに至るのである。 最後の戯曲『アタリー』の筆を擱いて以降も、彼は処女作を捧げた忘れがたき ポール=ロワイヤルへの想いをさらに募らせ、1693年に『ポール=ロワイヤル略史』 Abrégé de l'Histoire de Port–Royal を綴りはじめる。
■ セネカ、ルーキウス・アンナエウス (c. 4 BCE/1 CE–65 CE) Seneca (minor), Lucius Annaeus. De Motu Terrarum. c. 30s. セネカ『地震について』30年代頃。 ―――――――――――――――――――――――――――――― 一面ではエウリーピデースの弟子とでも称すべきラシーヌ[>>83-84]ではあったが、 彼の作品にセネカの影が色濃く射していることを、わたしたちは無視できぬであろう。 たんに『フェードル』 Phèdre のみならず、ルネサンス以降の文藝にみられる セネカの悲劇受容については、いまさら喋々するまでもなく甚大である。
そのルーキウス・アンナエウス・セネカの処女作だが、特定は厄介である。 執筆時期がもっとも早い著作には、まず、彼がエジプトからローマに戻ってきて以降の ティベリウス帝治世(14–37年)の末期からカリグラ帝治世(37–41年)にあたる時期、 そのおよそ十年のあいだに書かれたとされる三作がある。 すなわち『地震について』 De Motu Terrarum 、『石の本性ついて』 De Lapidum Natura 、 『魚の本性について』 De Piscium Natura である。 いずれもテキストは散佚しており執筆順も未詳だが、このうち『石の本性ついて』と 『魚の本性について』については、真作としては見送られる場合がある。 最近の『断片集』(Vottero, D. ed. L. A. Seneca: I Frammenti. 1998)にも 他の作家が言及している作品として標題が掲げられ、 さらに現存する『自然に関する諸問題』 Naturales Quaestiones にも その改訂稿の巻が設けられているのは、『地震について』なのである。
ところが、名のみ伝わる作品に『エジプトの地誌と宗教儀礼について』 De Situ et Sacris Aegypiorum というのがあって、仮にエジプト滞在中 (25?–31年)に書かれたものだとすれば、これが処女作となる。
さらにほかにも、失われた作品には『インドの地誌について』 De Situ Indiae 、 『宇宙の形状について』 De Forma Mundi 、『義務について』 De officiis などがある。 このうち『宇宙の形状について』は、コルシカ島流刑期(41–49年)以降に書かれたと 推測されるが、その他のいずれかが処女作である可能性も否定できない。
(セネカ――承前) それでは現存するなかでの最古の著作は何かといえば、 『マルキアに寄せる慰めについて』ということになる。 成立年については諸説があり、古代ローマ研究の碩学ピエール・グリマルによれば、 カリグラ統治末期の39年から40年の成立である(『セネカ』 Sénèque)。 ほかにジャンコッティの、カリグラ帝即位(37年)のあとの数年後とする説などがある (『セネカ「対話篇」年代記』 Cronologia dei « Dialoghi » di Seneca)。
Seneca, L. A. Ad Marciam de Consolatione. c. 39–40. セネカ「マルキアあて、心の慰めについて」茂手木元蔵訳、『セネカ 道徳論集(全)』東海大学出版会、1989年。 セネカ「マルキアに寄せる慰めの書」大西英文訳、『セネカ哲学全集 1 倫理論集 I』岩波書店、2005年。
セネカは、41年から49年までのあいだ、クラウディウス帝(在位41–54年)により コルシカ島へ流刑となるが、彼の戯曲はこの時期に集中して書かれたのではないか、 とする見方がある(Dingel, J. Seneca und die Dichtung. 1974)。 すなわち彼の悲劇は、追放の身の絶望と悲しみのなか、 ストア哲学への懐疑とともに綴られた、というのである。 また、そのうち何篇かは59年か60年頃に書かれたとも推測されている。
■ モンテーニュ、ミシェル・ド (1533–1592) Montaigne, Michel de. « 28 février [1533]. » c. 1553. Le Livre de Raison de Montaigne sur l'Ephemeris Historica de Michael Beuther. 1551–1591. モンテーニュ「家事録 n° 1」『モンテーニュ全集 9 モンテーニュ書簡集』関根秀雄訳、白水社、1983年。 ――――――――――――――――――――――――――――――
十六世紀後半から十七世紀前半にかけて、とりわけフランスにおいて一世を風靡した 観のあるセネカ[>>86-88]であるが、なにも彗星のごとく出現したわけではない。 すでに中世の暗闇のなかでヒエローニュムス Eusebius Sophronius Hieronymus や ラクタンティウス Lucius Caelius Firmianus Lactantius らがこの異教の哲人を賛美し、 名だたる初期キリスト教教父たちが セネカの思想のうちに彼らの哲学的瞑想との一致を見出して以来、 彼はいわゆる「生来的にキリスト者精神をもつ者」 Anima Naturaliter Christiana として見做されてきていたという経緯がある。
そうした背景を考慮したにせよ、ミシェル・ド・モンテーニュがセネカ ――とりわけその『ルーキーリウス宛倫理書簡集』――から受けた影響は、 度はずれているといってよいであろう。 主著『ミシェル・ド・モンテーニュのエセー』 Les Essais de Michel de Montaigne におけるセネカからの引用は、『ルーキーリウス宛倫理書簡集』にかぎっても、 じつに298箇所にもおよぶのである(後述ヴィレによる)。
またひるがえって考えてみるに、モンテーニュほど後世さまざまな著名人に影響を与え、 手垢にまみれ、語り尽くされてきた感のある文筆家もそう多くはあるまい。 しかし、あまりに人口に膾炙しすぎたせいか、つとに十九世紀においてサント = ブーヴ Sainte–Beuve (『新月曜閑談』 Nouveaux Lundis )が指摘したように、 モンテーニュ研究は、すでに久しきにわたって、いわば暗闇に淀んだ泉のなかで 停滞していたのである。 そこに新たなる光を当てたのがピエール・ヴィレ Pierre Villey の記念碑的労作 『モンテーニュのエセーの典拠と発展』 Les Sources et l'Évolution des Essais de Montaigne (1908年初版、1933年改訂版)であった。
ヴィレによると、『エセー』のなかで最初期の執筆にかかるものは、 隠栖直後の1571年か1572年のものとおぼしき 第一巻第二十章「哲学するとはいかに死ぬかを学ぶこと」 Que Philosopher C'Est Apprendre à Mourir 、 および第一巻第三十二章「神意を判断するには節度をもってなすべきこと」 Qu'Il Faut Sobrement Se Mesler de Juger des Ordonnances Divines の二篇ということになる。(エセー各版の増補改訂については、ここでは考慮しない。)
ちなみに上記の最初期の二篇において、 ヴィレが執筆年代を決定する際の根拠とするモンテーニュの利用文献をみると、 やはりそこにはセネカ(『ルーキーリウス宛倫理書簡集』『〔狂える〕ヘルクレース』)や キケロー Marcus Tullius Cicero (『トゥスクルム荘対談集』 Tusculanae Disputationes 『最高善と最大悪について』 De Finibus Bonorum et Malorum) といったストア派の哲人たちがいるし、 また、ルクレーティウス Titus Lucretius Carus(『物の本質について』 De Rerum Natura)だとか ホラーティウス Quintus Horatius Flaccus(『書簡詩集』 Epistulae 『歌章』 Carmina) といった偏愛のラテン詩人たちの比率も高い。 ちなみに後年頻出するプルータルコス Πλούταρχος は、 まだ『対比列伝』 Βίοι Παράλληλοι からわずかに一箇所である。
ところが、これらの章よりもあきらかに古い時期に書かれた内容が 『エセー』中に含まれている事実に、わたしたちはただちに気付くのである。 彼の蔵書であるグイッチャルディーニ Francesco Guicciardini 『イタリア史』 Storia d'Italia 、 フィリップ・ド・コミーヌ Philippe de Commines 『ルイ十一世およびシャルル八世治下の回想録』 Mémoires sur les Règnes de Louis XI et de Charles VIII 、 ギョーム&マルタン・デュ・ベレ Martin & Guillaume Du Bellay 『回想録』 Mémoires ――モンテーニュは、これらの余白に彼自身が記した書評あるいは私註のごときものを、 『エセー』第二巻十章「書物について」 Des Livres のなかに転載している。 この章が書かれた時期は、ヴィレによると1579年から1580年初めということになるが、 典拠であるそれらの書評は、モンテーニュ自身の証言によれば、それより 「十年ばかり前」(『エセー』第二巻第十章、原二郎訳)のことだというから、 1569年から1570年初めごろに書かれたものなのである。
さらにいえば、初期のの諸章もまた、よかれあしかれ、 こうしたいわば読書ノートに匹敵する内容であることを、わたしたちは知っている。 そうであれば、わたしたちはここで、上記『エセー』中に転載されたものよりも 古い時期に記されたノートが残されていることを、思い出しておかねばなるまい。 すなわち、たとえば1564年ごろに書き込まれたと推測されるニコル・ジル Nicole Gilles の『フランス年代記』 Les Annales et Chroniques de France への百三十箇所以上 にもおよぶ註解や、ルクレーティウスの『物の本質について』に付された 1564年の日付のある書き込みの存在である。 これらはみな翻刻され、今日テキストとして公刊されているのである。
Montaigne, Michel de. « Annotations sur les Annales de Nicole Gilles. » Œuvres Complètes de Michel de Montaigne. Vol. 12. Éd. Arthur Armaingaud. Paris: Conard, 1924–1941. Screech, Michael Andrew. Montaigne's Annotated Copy of Lucretius: A Transcription and Study of the Manuscript, Notes and Pen–Marks. Genève: Droz, 1998.
時系列で多少前後するが、そもそも彼の最初の出版物は『エセー』(1580年初版)ではなく、 1569年に上梓されたレーモン・スボン Raymond Sebond (Raimundus de Sabunde/Sabiende/Sabonde/Seybond) 『自然的神学あるいは被造物の書』 Theologia Naturalis sive Liber Creaturarum (原著1434–1436年成立)の翻訳書『羅仏新訳レーモン・スボンの自然的神学』 La Théologie Naturelle de Raymond Sebon docteur excellent entre les modernes, en laquelle par l'ordre de Nature est démontrée la vérité de la Foy Chrétienne & Catholique traduite nouvellement de Latin en Français ではなかっただろうか。 父親宛の書簡形式で書かれたその序文の日付を確認すると、1568年6月18日という父親の命日を刻んでいる。
そしてさらなる古い日付をもつ資料の存在をも、わたしたちは忘れてはならぬであろう。 モンテーニュの蔵書に『ブーテルの歴史暦』 Michaelis Beutheri Ephemeris Historica というものがある。 これは一家の出来事を永代日記ふうに記録できるようになっている書物で、 ふつう『リーヴル・ド・レーゾン・ド・モンテーニュ』 Le Livre de Raison de Montaigne と呼ばれている。 購入したのは、おそらく彼がパリ遊学中の1551年と推測される。 そしてそこには、モンテーニュ二十歳前後の手蹟による記入がみられるのである。
じつはラ・ボエシの名を挙げたのはほかでもない。 モンテーニュの処女作が何であるかということに、彼は深く関係しているのだ。 『モンテーニュ全集』 (Œuvres Complètes de Michel de Montaigne. Paris: Conard, 1924–1941) の編纂者であるアルマンゴー Arthur Armaingaud によれば、 上記ラ・ボエシの遺稿集には意図的に収録されなかった彼の代表作 『自発的隷従あるいは反一人論』 Le Discours de la Servitude Volontaire ou le Contr'Un (1546?–1548?/1549/1553年頃成立)は、じつはモンテーニュの手によるものだという。 その真偽のほどは議論の分かれるところであり、ここでは不問にするよりほかあるまい。 「わたしは判断を保留する。」« επέχω. » (セクストス・ホ・エンペイリコス Σέξτος ο Εμπειρικός 『ピュローン主義の概要』 Πυρρώνειοι Υποτυπώσεις 第一巻第二十二章、金山弥平・金山万里子訳) 仮にこれがモンテーニュの作品であるならば、 処女作となる可能性が出てくることを付言しておくにとどめよう。