【成熟と喪失】江藤淳【一族再会】

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60吾輩は名無しである
>>58
うーむ、そこのところがよくわからない。
漱石を「大層な人物」として描き出すのも、「たかだか小説家」と
決めつけるのも、同じレベルの話のように思えるのだが。
要は漱石のいかなる側面を浮かび上がらせることができるか、
によって、出発点が生産的かどうかが決まるのではなかろうか?

>>59
「論証抜きの断言し過ぎ」というのは同感。そもそも註もないし。
ただ、その断言がどの程度反証されたり、あるいは確認されているのかね?
61吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 03:52:30
>>60
生産的って……。メザシはどう解剖したってメザシだよ。
つまらぬ側面でも高遠に論じてみせるのが生産的ってことなら、好きずきで。

断言を実証したり論証するのは著者の責任であって、こっちがひっかぶるこっちゃないやね。
62吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 04:02:44
註の有る無しの問題ではないでしょ、論証ってのは。>>60
論理的に飛躍の無い、理路を提示した説明で判断を裏づけること、ですよ。
63吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 04:53:16
根拠を示して判断を裏付けるために註というものがあるのでは?
64吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 08:49:36
註にしなくても本文でやればいいこと。出典情報だけが論拠ではあるまいに。
65吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 12:46:25
院生がまず「やってはいけないこと」として教えられるのが、
こういうスタイルだからな。
その意味(アカデミズムと批評の違い)がわからない奴は、
「注がない本は糞」(アカデミズムの絶対視)という短絡に走るかもしれない。

でも江藤の漱石論の場合、
批評と研究の間でどっちつかずなのが一番ダメだと思うよ。
批評家に対しては研究と主張して、
研究者に対しては批評と言い張る類の文章。
66吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 18:14:57
すまん、初歩的な疑問だが、アカデミズムと批評の違いって何?
アカデミズムにおける厳密性が批評においては要求されないとしたら、
批評という営みの正当性はどこに求められているの?
「批評=厳密さを欠いたいい加減なアカデミズム」というわけではないだろうし。
あと、文学研究者と文芸批評家は、この意味ではお互いを「別の種族」と見ているの?
67吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 18:22:26
漱石と朝日新聞の関係は
長島と読売新聞の関係と同じで
マスコミが天才に祭り上げていって大衆が巻き込まれたのだ。
両方とも外国の評価は低い。
68吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 19:27:09
>>66
『日本近代文学』23集(1976年10月)に載ったシンポジウム「批評と研究の接点」を
読むべきだ、近代文学研究者ならば。
あれは研究史のメルクマールであるから、研究に志す者なら知らないはずないよね?
69吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 19:57:05
江藤淳の嫂萌えの論と、小坂晋『漱石の愛と文学』(恥かしい題だな)とが、
批評と研究の差違を対照的に現したものと見る向きもあるみたいだけど、どうかね?
7066:2005/06/27(月) 23:47:50
>>68
どうもありがとう。私は近代文学研究者ではなくて、趣味で読んでいるだけだけど、
全然違う分野の研究を志していて、ふと方法論なんかに関心を持ったので。
ちょっとすぐには文献が手に入らないんだけれど、どういう話かもう少し教えてくれません?
71吾輩は名無しである:2005/06/28(火) 10:24:51
>>70
シンポジウムの発表者の一人である谷沢永一は続けて、正に「方法論論争」を起こし、
これは『牙ある蟻』『方法論論争』等の谷沢の著書で読める。
五年半後の総括としてシンポと同じメンバーによる座談会もある。
吉田X生・前田愛・谷沢永一・磯田光一「批評と研究の接点・その後」『国文学 解釈と鑑賞』一九八一年十二月号「近代文学研究法」