というか、政治少年をうpしてるページがまだあったよ。
直リンクはさすがにまずいと思うから、しないけど。
それとも、
>>922さんがうpしてくれたのかな。
法学太郎の特別講義
http://www4.diary.ne.jp/user/435841/ 2005/05/24 (火) 190講〜日本の「恥辱」、大江健三郎また妄言〜
さて、まずはこちらを。
http://plaza.rakuten.co.jp/gakutaro/diary/200505240000/ 「あの」大江健三郎が、わざわざ朝鮮に渡ってまで妄言を吐いたらしい。
以前、防衛大学校の学生を「同世代の恥辱」と呼んだあの大江である。
その後も妄言を繰り返しているのは朝日新聞その他を見れば分かることだが、今回はどのような妄言を吐いたのか。
「憲法を改正すれば、戦争と軍備備蓄が可能になる」?
今でも防衛戦争は可能だが。
そして憲法改正案にも、9条1項の侵略戦争放棄はそのまま残されることが明記されている。
軍備備蓄とは何を指すのだろうか。
有事に備えて平時から弾薬や燃料の備蓄をするのは当然のことだが。
むしろもっと備蓄を増やさないと自衛隊はまともに戦えないという指摘すらあるのが現状だ(「たまに撃つ 弾がないのが たまにきず」は名言)。
備えあれば憂いなし、を大江は知らないのか。
「日本は戦争を準備する方向に進む可能性が高い」?
なぜ憲法改正が戦争準備につながるのか。
左翼ならではの論理の飛躍としか言いようがない。
「盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が今年の3・1節の記念演説を通じて、『日本の知識人は過去を反省して未来に進まなければ、過去の束縛から抜け出すことができない』と言ったが、全面的に共感する。日本の知識人の一人として、そのような要求に応えるために努力する」?
結局そうやって朝鮮人の靴を舐めるために行ったということか。
まぁ、確かに過去を反省すべきであろう。
朝鮮半島の原住民の要求にこたえて彼らを日本人にしてやり、莫大な資金を投じてインフラを整備してやり、敗戦後も居座り続ける在日の面倒を見てやっているのだから。
そして朝鮮人によって「過去」を「束縛」されていることも反省せねばなるまい。
どこまで続く泥濘ぞ、「謝罪と賠償」の要求にこれ以上応じ続けるわけにはいかないだろう。
大江は何を思ってこのような妄言を吐き続けるのであろうか。
彼の神経が理解できない。
だいたい自分を知識人だと名乗る奴は信用できないのだよ(文化人も同様)。
933 :
吾輩は名無しである:2005/09/27(火) 14:27:37
いつ発売なんでしょうか・・・?今日じゃなかったんですか?
934 :
吾輩は名無しである:2005/09/28(水) 00:06:19
読んだ人の感想聞きたいです。
面白そうなら俺も読む
【抜粋・主人公の手紙より】
<広島の夏は暑くて最テイです。幹部は弱腰で赤ドモの偽装平和大会をボ
ンヤリ見逃しています、来るほどのこともなかりけり。昨日のみひと暴れ、
心気爽快でしたが、過激になればなるほど大御心にかなうのではないでし
ょうか?
原爆資料館の日本民族の恥をさらす醜怪な写真その他を見るにつけても、
天皇陛下にこのようなケガラワシイものをお見せしてはならぬ、広島行幸を
一身をかけてもおとしめなければならぬ。決心固くいたしました。
明治天皇陛下のますらおぶりを偲ぶれど大本営跡荒れに荒れたる下剋上
の世に憤怒しますね>
革命ごっこ
http://kakumei.blog2.fc2.com/blog-entry-232.html 大江健三郎&娘のナイスな発言
大江健三郎氏、
韓国で「腐ったトマトは小泉首相が来るまで投げずに我慢せよ」
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1117958862/l50 -引用開始-
大江氏は漢陽大を訪問して学生たちに講演をする中で、
「私の娘は心配性で、敏感な時期に韓国を訪問するのを心配して、
日本人は印象が良くないから腐ったトマトを投げつけられるかもしれないと言っていた。腐ったトマトは私に投げずに、
小泉首相が来るまで我慢しなさい」と言って学生たちの笑いを催した。
横にいた小説家の黄ソギョン氏は大江氏のこの言葉に対して「大江先生には花を投げなければならない」と肯定的に回答した。
-引用終了-
大江健三郎&娘はけしからんですなぁ。朝鮮人は野蛮だから日本人に腐ったトマトを投げつけると思ってるんですよ。実にけしからんですなぁ、差別ですよ差別(ニヤニヤ)。
これはあれですよ、人権委員に通報ですよ。「大江が朝鮮人を差別してるから家宅捜索して下さい!」って感じですよ。
日本の代表的な良心的知識人も心の中では朝鮮人は未開で野蛮な民族だと思ってるんですよ。けしからんですなぁ(ニヤニヤ)。
2005/06/06(月) 00:21:5
937 :
吾輩は名無しである:2005/09/28(水) 18:10:14
新刊でますた
938 :
吾輩は名無しである:2005/09/28(水) 18:32:18
>937さんへ
933に書き込んだものです・・・
そうですか・・・何軒も書店を回ったんですが、手に入らなくって。
ありがとうございます。
939 :
吾輩は名無しである:2005/09/28(水) 20:29:10
帯の「絶望からはじまる希望」がいいね。
大江健三郎『言い難き嘆きもて』評
(2002/01/05)
大江健三郎さんは昨年から、つまりアメリカから帰国してからというもの、テレビや新聞での発言が大変多くなった。
ニュースステーションにも出演したし、正月もNHKで若者たちを前に「いかにすればテロがなくなるか」ということについて御説を語っていた。
その発言の大半は、彼がその文学活動の中で政治的なスタンスとして保持してきた「戦後民主主義」の擁護に当たっている。
この、『言いがたき嘆きもて』もその流れの中で書かれたエッセー集である。
帯には「ノーベル賞作家の魂の叫び」と書いてあった。購読者の目を引くための帯にいちいち文句をつけても始まらないが、この本にあるものはそんなものではない。
この本には大きく二つのことが書かれている。ひとつは、混迷の時代にあって彼の師匠である大仏文学者・渡辺一夫氏譲りの、人間に対する基本的には希望的なヒューマニズム(フランス語だからユマニスムというべきか)の継続。
もうひとつはここ十年ほど日本を覆っている、「右」とか「ネオナショナリズム」という言葉で表現される「反戦後民主主義的」なものへの耐えがたい嫌悪感である。
僕も大江さんから見れば「右」とか「ネオナショナリズム」といわれる部類に入るのだろう。
僕は決して大江さんが言うように、人命を軽視しているわけではないし、安易に国家主義に走るつもりもないが、それでも「反戦後民主主義的」ではあり、それを嫌悪されるのならば仕方がない。
実際、嫌悪の度はすさまじいものである。たとえば、丸山真男氏の死に関する次の二つの文章。
若い批評家は、丸山氏の側に立って?つまり現代世界の普遍性に結んで?「虚妄」という言葉の深みをのぞいてみようとはしない。
丸山真男氏の世代から私の世代を経て、若い彼らの世代へと、共通の言語をつなごうとする知識人の努力を、彼は放棄する。
無知と、半ば意識的な誤解によって道を断ち切ることで、自分らの言説の響きに空元気をつけるのみだ。近来の、新ナショナリストの言論に共通の弱さ、アンフェアの特色を示していると思う。(p.27)
内村(鑑三)を「小慷慨家」とあざけり、「国家は実在す、空想にあらざるなり」と天晴れリアリストを以って任じた(高山)樗牛らの立場と、彼によって「腐儒詩人の空想」と嘲罵された内村の立場と、いずれが果たして歴史の動きをヨリ正しく指していたか。
(中略)いまはもう老年に入った私の、感慨がさらに複雑になるのは、戦争の悲惨の経験によって日本人がそれを乗り越えたと丸山(真男)のみなした国家主義が、
今日、高山樗牛をマンガ化したマッチョとでもいう思い入れで若い人たちのうちに復活しているからです。(p.186)
大江さんは小説家だから当然なんだけれども言葉づかいは慎重かつ丁寧だし、そこが大江文脈の真骨頂でもあるのだけれど、彼が「空元気」「アンフェア」「嘲罵」「マンガ」「マッチョ」といった激しい、唾棄するような言葉づかいをするのは珍しい。
それほど彼は昨今の「反戦後民主主義」的な動向を嫌悪しているし、否定したいのであろう。
それはご自由に、である。
問題は、彼が自分の単なる嫌悪感を、普遍的な高みにたって高尚なものに仕立て上げていることだ。
上の文章だって、何も前提がない状態で読めば、「どうして僕たちがつないできた言葉を君たちは聞こうとしないの?それはよくないよ」「内村鑑三は国家主義を否定しました。
高山樗牛はリアリストでした。それで歴史の流れを見ると高山のリアリズムで戦争に負けました。ほら、内村のほうが正しかったでしょ。だから高山はいけません」という子どもっぽい議論にしかなっていない。
この議論を高尚なものとして彼に書かせているのは、自分たちは普遍の側にたっている、自分たちは正しい側にいるのだという自信だ。
しかしその根拠は「歴史の流れが正当性を証明している」というだけの、まったく薄弱なものである。
そんな薄弱な論拠から「普遍性」というとんでもなく困難な代物を
(例えば昨日書いた『トランスクリティーク』を読んでいると、それがどんなに困難な代物かだけはわかると思う)引っ張り出そうとするのは傲慢なのではないか。
僕ら若い世代が、「反戦後民主主義的」になっているとすれば、それは国家主義というよりも、
われわれが子どもだったころまで赤旗を振って真顔で反戦運動をやる大人たちが主張していた「戦後民主主義」のもつ傲慢さ、そしてその傲慢さがもたらした結末への反感である。
そもそも、われわれ(日本人、である)はいつ「国家主義」を乗り越えたのか。いつ普遍性の高みに達したのか。大江さんはこう書く。
私が被爆者たちの生涯から学んだのは、個人としての災厄の自覚に始まって、日本人としての、と展開する被爆の受け止めが?確かにその段階まではナショナリズムと通うところがあったとしても、
「時」を経て、人類レベルの普遍性に昇華していることによってである。
(中略)その普遍性の獲得は、被爆者たちの核廃絶への運動を、アジア侵略への積極的反省とも結びうるものとした。(p.30)
私は日本の新ナショナリストたちの「自虐史観」説にあるひ弱さに対して、広島・長崎の被爆者たちの「時」に鍛えられる誇るべき強さ、普遍性を示したい(p.32)
僕自身長崎に生まれて、子どものころから多くの被爆者と接する機会を持った(いや、持たされた)から、被爆者たちの個人的災厄がどれほど悲惨でその後も含めて辛いものであったかは重々承知している。
また、アジア侵略の犠牲となった人々の話も大学時代にたくさん聞いた。
僕はナショナリストであるが、ネオ・ナショナリストの一部の人たちが言うように「アジア侵略は解放戦争であり、何にも謝る必要はない」というほど厚顔無恥ではない。
朝鮮・台湾・中国への強圧的政策の中で住民が蒙った犠牲を思うとき、顔を赤らめずにすむ日本人がどれほどいるだろうか。そのことが十全な解決に至っていないのも承知している。
しかし、である。僕が何を嫌悪するといって、子どものとき、被爆者の話を聞く機会を持った(持たされた)あと、それを主催した左翼系の大人たちの「ほら、聞いただろ。
だから戦争はいけないんだ」という顔ほど嫌なものはなかった。犠牲になった人たちの心痛、それは一応同じ人間として、いわば「普遍的」にシンパシーをもてる。
けれども、犠牲者の個的体験を借りて、己は犠牲者でも何でもないのにあたかも犠牲者に成り代わって俺が普遍性を主唱するのだ、俺は犠牲者から話を聞いて普遍性に達したのだ、という連中の傲慢な心理には我慢がならない。
被害者宅に押しかけ、いかにも悲しげな表情を作って加害者を大袈裟に糾弾するワイドショーリポーターと心根としては変わらない。
そして、「戦後民主主義」を支えてきたのはそんな連中なのである。
もし大江さんの上の文章で、普遍性を「獲得」したのがわれわれ戦後の日本人だというのであれば、それははっきり言って傲慢だ。
被爆者自身とアジアの犠牲者たちとの連携も存在するが、それは同じ戦争犠牲という紐帯によって結ばれているのであって、その悲しみを借りて普遍性を主唱することは偽善あるばかりか、犠牲者への冒涜ですらある。
個的体験がそう簡単に普遍性に昇華されるものではないことも言っておきたい。
朝鮮人や中国人をいまだに蔑視する被爆者は少なくない。かつてアメリカの核疑惑艦が長崎に入港したとき、被爆者団体の幹部は艦長が平和祈念像前に置いた献花を公衆の面前で踏みにじった。
当然の心理である。だがそれは平和団体の「市民運動家」たちの厳しい非難の的になった。なぜか。
「運動家」たちが普遍的な正義と信じる信条から見てインコレクトだったからだ。普遍性に立つ彼らは決して被爆者の心の奥底に耳を傾けようとはしない。
あるいは、朝鮮や台湾、中国大陸で、日本政府の無法な政策とは別に、個人的なハートから現地の人々に尽くしいまだに顕彰されている日本人もいる。
彼らがネオ・ナショナリスト系の言論の論拠として使われているのは承知しているが、個的体験という意味ではどちらも変わりがない。
一方を正義に、もう一方を不正義にしているのは日本が戦争に負けたという政治的な理由であり、ポリティカル・インコレクトネスによって一方が封印されているだけだ。
そんな政治的に左右されるものが「普遍性」とはちゃんちゃらおかしい。ましてわれわれが普遍性を獲得したコスモポリタン面して出かけていったところで、当面の間われわれは「日本人」である。外国人はそうしか見ない。
のっぺらぼうのコスモポリタンでは戦争責任も戦後賠償もありはしない。
もしかして、「僕はもう日本という国家的なものに束縛される段階は超越しちゃっているんですけど、でもまあ、ご先祖さんたちが悪いことしちゃったんで、その点については謝ります」とでもいうのだろうか。
あなたたちがどう思おうと、所与条件として国家は個人に張り付いている。国家的なものを否定するのは自由だが、その戦略は国家というものがいまだ有効な現状を前提としてはじめなければならない。
そんな状況にあって、誰が「国家主義を乗り越えた」というのであろうか。
こう見てくると、大江さんの嫌悪感ばかりが目立つ。
脳梗塞をわずらい、妻を失った江藤淳氏の自裁を「センチメンタルな甘え」と断じ、
「現に脳梗塞を乗り越えてリハビリテーションに励む人たちに無礼じゃないでしょうか?」と言いながら、
伊丹十三氏の自殺を『神曲』を引用して悼むというのは、かたや終生の論敵、かたや終生の友人にして義兄という関係がもたらした「アンフェア」としか思えない。あるいは、
そこで私は、迫ってくる老年についても、アジアの先行きへの不安についても、環境、人口、資源のどの課題についても、明らかに進行する悪いときを引き受けるつもりで生きよう、と自分に言うのです。
(中略)さらに悪いときは必ずやってくる、しかし、その到来をいくらかなりと先のほうへ押しやろうというのが、ありていに言えば、世紀末から次の世紀にかけての、人類の基本的な態度ではないでしょうか?(p.73)
なお彼らが?われわれみなとともに?平和の奪われた世界で希望を喪う日は遠いように!(p.243)
というような文面に至っては、いずれにせよあまり希望的な観測の持てない世界でこれからを、それでも希望をもって生きていかなければならないわれわれ若者たちに対して、
すでに世俗のことから離れたかのような、宗教的な救世主的な発言はそれこそ失礼ではないだろうか。
「彼らが」と「われわれ」という言葉遣いが、普遍性の高みに到達してた救世主的「われわれ」と、その神の言葉に耳を傾けようとしない反戦後民主主義的な「彼ら」との区別を濃厚に象徴している。
かくして、反戦後民主主義的な高まりに対して戦後民主主義派が吐くべき呪詛が、この本には詰め込んである。
そして、われわれがもっとも嫌う戦後民主主義的な要素が、大江健三郎さんという著者を通じて顕になっている本だ。論点を明らかにしていく上で、一読しておくべきものであろう。
むろん、反戦後民主主義派にも問題はある。
「戦後民主主義」というとその主張やスタイルが比較的まとまっているのに対して、戦後民主主義への批判者はあまりにも多様な形をとりすぎているのだ。
黒塗り街宣車でわめきたてるヤクザ、皇居一般参賀で菊の御紋章の入った御旗を掲げて陛下に忠誠を誓う若者、自虐史観を批判しリキの入った教科書を執筆する大学教授もそうならば、
僕のようにいや今日は寒いねといいつつコタツに入って茶をすすりながら一般参賀の中継も見ないけれども、いやおめでたいねえと思っている人間もそうなのである。
そしてこれらを貫く筋の通った理論はない。ネオ・ナショナリズムを批判する人たちはいったいどこを批判しているのか判然としないだろう。
そのことに、ネオ・ナショナリズムのほうも甘えてきた感がある。
僕自身も、ナショナリズムは生活の総体というかスタイルなのであって、「…主義」というのとは異なるだろう、と思っている。
しかしながら、ナショナリズムそのものを論理化するというよりは、新しい保守思想、新たに国家とか個人とか社会とかを捉えなおそうという思想運動をナショナリズムをベースとした別個の理論として立ち上げる必要には迫られているだろう。
そうしないと、ありがちな流行で終わってしまい堕落した戦後民主主義の跋扈を再び許すか、勢いでファッショの再来を招くか、どちらかしか道はないからだ。
普遍性を目指す運動を否定するつもりはない。むしろ普遍性は状態として現実にあるのではなく、決して実現することのない理想への運動としてしか存在しない。
普遍的なものに足場を置くことはできないのだ。戦後民主主義はそのありえない足場の上からものを言ってきた。その空虚さに気づいているのが、現在の反戦後民主主義的な運動である。
普遍性を問い直すための足場を、「日本」という国家あるいは社会の中に見出すことができないか。それがナショナリストとしてのわたしの「希望」である。
948 :
吾輩は名無しである:2005/09/28(水) 23:18:35
ちょっとほほえましい。
新刊が出ると聞いて
急に必死になりだしたコピペちゃんが。
どうせ誰も買わないのになあ。良くも悪くも。
つまり、文学に興味がある人は買うし、政治に興味がある人は買わない
ということだが
何部ぐらいなのかな?5000部ぐらい?
どうなんだろうね。なんだかんだで売れるんじゃないかという気もする。
図書館とかにも入るだろうし。
「憂い顔」が出た時点で新聞広告に「取り替え子」がたしか八万部と書いてあった。
単行本だけで十万近く出るんじゃないかな。
まあ取替え子は伊丹という飛び道具があったから
多めに売れてたんじゃないかと思うが。
http://www.eireinikotaerukai.net/E05Iken/E050021.html 『虐日日本人の精神構造』
酒井信彦
(東京大学史料編纂所教授)
(前略)
ところで歴史問題の多くは、日本発の問題であると良く言われる。教科書問題の一番の前提に、家永教科書訴訟があったし、慰安婦問題は左翼人権団体と朝日新開の協同謀議によるものであることは確かである。
このことが歴史問題の本質が、日本に対する偏見・差別・迫害であると言う事実を分かりにくくしている面があると思う。
そこでこの点について、以下に私見を述べてみたい。戦後の日本には敗戦ショックによる共産革命願望があり、左翼勢力が大きな力を持った。それは当然、労働組合、マスコミ、大学などに浸透した。
左翼勢力は日本が弱体であればあるほど、革命が起こし易いと考えたから、アメリカ占領軍の遺産である東京裁判史観と「平和」憲法の強力な護持者となった。
しかし革命の願望が潰えた現在でも、その考え方は牢固として残った。と言うよりも、共産主義没落後、かえってそれに縋(すが)り付いて生きるようになった。
なぜなら日本の過去を否定・告発することによって、過去を反省し謝罪する良心的人間を演じ続けることができるからである。これは明らかにこの上ない偽善である。
したがって、これらの人々の考え方、活字媒体でいえば朝日・岩波的考え方は、偽善主義と呼ぶべきものである。
その御用文化人である、大江健三郎・加藤周一などの人々は、「進歩的文化人」では無く「偽善的文化人」である。
彼らの言説がいかに矛盾に満ちた偽善であるかを、土井たか子衆議院議員を例に、もう少し説明しておこう。社民党は北朝鮮による日本人拉致を、無視するどころか否定さえしていた。
しかし社民党はそもそもアジア人権基金と称する人権団体を持ち、土井議員はそのトップである代表理事である。ところがこのアジア人権基金は、アジアにおける人権侵害の大国、中共・北朝鮮の人権問題に、全くと言うほど沈黙する。
意図的にでっち上げた慰安婦など日本の過去の問題を追及しても、中共・北朝鮮両国の現実に存在する深刻な人権問題を無視するのであるから、これはデブル・スタンダードのレベルを遙かに越えた、完璧なデタラメである。
なお辻元問題の際指南役として名前の出た土井議員の五島昌子政策秘書は、謀略裁判劇「女性国際戦犯法廷」の首謀者である松井やよりさん(故人)が主宰するアジア女性資料センターの幹部である。
彼らの本質が根本的に偽善者であることが判明すれば、彼らの考え方を「自虐史観」と表現することの、不十分さが明らかになってくる。
自虐史観と言うネーミングは、それなりに便利で有効ではあるが、彼らの精神構造の特徴を見逃している。つまり「自虐」と言っても、彼らが自分自身に痛みを感じているのかと言えば、それは全く感じていないない。
彼らは始めから加虐の側に立ち、日本人を、日本という存在を責め続けているのである。同じ日本人である同胞を迫害する行為が、一見自虐的に見え、更には反省的・良心的に見えるのである。
すなわち自虐史観ではなく、正確に言えば「虐日」史観である。反日史観と言う表現もあるが、反日では余りにも弱すぎる。
したがってより広く中共・韓国など諸外国を含めた日本いじめ・日本叩きの考え方を、「虐日イデオロギー」と呼ぶのが適切である。
(中略)
一連の大学紛争で、一貫して左翼学生に同情的だったのは朝日新聞であるが、朝日はこの爆弾テロ事件においてすら、極左の暴力に極めて寛容であった。
朝日が口にする反戦主義・反暴力主義が、いかに欺瞞に満ちたものであるかは、朝日の報道の歴史を振り返って見れば、直ぐにわかる。
日本人の虐日偽善者のメンタリティーを考える場合、「ドメステイク・バイオレンス」の概念を援用すると更に理解し易いかもしれない。
現在、ドメステイク・バイオレンス」すなわち「家庭内暴力」の流行がマスコミで報ぜられている。子供が親を殴り、母親すら子供に暴力を振るう。
それと同じように、虐日日本人の行動は、民族・国家の規模における、ドメステイク・バイオレンスなのである。極左暴徒のように、直接の暴力も振るうこともあるが、一般的には言論による暴力が主流である。
とすれば、物理的暴力によるテロがあるように、言論の暴力によるテ打が存在するのである。
結局、歴史問題とは、内外虐日勢力による言論を利用した、日本に対する卑劣極まりないテロ攻撃だと理解すべきなのである。
ところで、物理的暴力と言論の暴力と比較した場合、前者の方がずっと単純であり、対処し易い。物理的暴力には取り縮まる法律があるからである。
それに対して言論の暴力は、「言論の自由」に大きく守られている。つまり言論の暴力・言論のテロの方が、造かに始末が悪い。しかも虐日偽善者たちは、日本社会の中枢に堂々と大量に入り込んでいる。
ではどうしたら良いのか。端的に言って、敵に学ぶべきである。彼らの方が、エネルギーとテクニックにおいて、まだまだ我々より優れている。
基本的に言論の暴力には言論で反撃するしかないが、その際最も大切なのは、相手の攻撃を防御するだけでなく、こちらから積極的に攻撃を仕掛けて行くことである。
個々の問題で虐日偽善者の言論に弁明・反論するのはそれなりに必要だか、破らの偽善体質を解明し告発して行くことこそ、我々が最も力を注がなければならない課題である。
その意味で、「百人切り競争」に関して、本多勝一氏、朝日・毎日両新聞社、柏書房を告訴したのは、大いに評価すべき動向である。攻撃が最大の防御なのである。
最近、中共・韓国両国首脳が小泉首相との会談で、歴史問題を取り上げることを控える態度を見せた。もっとも韓国大統領は国内からの批判を受け、最後の国会演説で地金を表してしまったが。
ともかく教科書問題・靖國問題とりわけ拉致問題で、我が国にも漸く国家意識・民族意識の高まりが現れて釆たことの反映であろう。すなわち日本側が強く出たからこそ、相手は少し引いたのである。
それではこちらも相手を刺激することは控えようと日本側が考えるとしたら、それは全く愚かである。
南京問題にしても、慰安婦問題にしても、我々は歴史問題において、巨大な濡れ衣を着せられたままである。
この冤罪を晴らし、内外の虐日イデオロギTを撲滅するまで、懸命の努力を続けなければならない。(了)
平成15年8月1日
958 :
吾輩は名無しである:2005/09/29(木) 23:24:07
>>953 >「憂い顔」が出た時点で新聞広告に「取り替え子」がたしか八万部と書いてあった。
>単行本だけで十万近く出るんじゃないかな。
ということは、文庫も含めると「取り替え子」はかなりの部数になるね。
もしも、大江氏が亡くなりでもしたら(縁起でもないなんておこらないでね)、
今度の「さようなら、私の本よ!」はタイトルがタイトルだけに
相当売れるんじゃないかと思われ。
八万部以上も売れているのに
この過疎っぷり。
読者層の年齢が高いという事かな。
ようやく海女損が動きました。
発送可能時期:通常24時間以内に発送します。
てかどこの本屋行ってもねー。
一応政令指定都市なんだが。
取り替え子は売れた方だと思うから、
普通は10万弱も行ってるとは思えないけどな。
今日の読売夕刊に大江の記事があったよ。
「さようなら、私の本よ!」の宣伝。
まあ昔はもっと売れてたろうけどな。
大江健三郎
週刊朝日の作品酷評に怒る
ノーベル文学賞作家として名高い大江健三郎(写真右)をネゴシ
エーターと呼ぶ。その本領を発揮するような“事件”があった。
「週刊朝日」が連載していた匿名書評家によるコラムで大江の
最新作がこき下ろされたのが事の発端。
朝日賞の選考委員で、「週刊朝日」に連載予定のあった大江から
編集部に早速クレームが入った。問題のコラムは連載中止となり、
編集長は解任された。
大袈裟とも思える「週刊朝日」の反応には訳があった。ライバル
紙・読売が大江の新聞連載小説をモノにしたという情報を察知して
いたからだ。
天下の朝日、読売を手玉に取った大江。流石はノーベル賞作家だ
と業界人をうならせている。
(国民新聞平成15年3月25日号)
965 :
吾輩は名無しである:2005/10/02(日) 23:56:39
「さようなら、私の本よ!」今年度ベスト3の予感!
966 :
吾輩は名無しである:2005/10/04(火) 03:42:40
原広司氏って何者なんすか?
967 :
吾輩は名無しである:2005/10/04(火) 10:59:01
最新刊『さようなら、私の本よ!』、主題に魅かれて発売日に購入。目下ちびちびと読中なんですが、人物関係が巧く把握できんとです。どなたか大江ヘビーユーザーの方がいらしたら、解りやすく解説してくれませんか?
西尾幹二のインターネット日録
西尾幹二,人権擁護法,郵政民営化,靖国,皇室 « 『日本人は何に躓いていたのか』 最新書評ホーム講演「正しい現代史の見方」帯広市・平成16年10月23日(二) »
http://nishio.main.jp/blog/archives/2004/12/161023_1.html (略)
日本が加害者だと思い込んでいるんですよ。
てんから。日本は加害者だから、歴史の加害者だから、詫びなきゃいけないんじゃないか、悪いことをしたなら、それも認めなきゃいけないんじゃないか。悪いことなんかなにもないよ、そんなことは、言っていいのかなぁ、と思案している。
みなさんはどう思いますか。20世紀の歴史を振り返って、まぁ19世紀の末から21世紀の今日に至るまでですけど、誰に対しどの点で詫びる必要があるんでしょうか。
日本は必ずしも加害者じゃありません。自ら戦争を始めたわけではない。20世紀の前半は地球上のいたる処で大戦争が折り重なるように相次いで起っていて、日本もその大河の中に呑み込まれていった、勿論自らの意志もあってのことですが。
詫びるとか詫びないとか、そんな個人の身に起る出来事のようにして戦争を考えるということはできない。
詫びるんだったらいよいよの最後に破天荒なことをした国、原爆を落としたアメリカが詫びなきゃ、まずアメリカが真先に詫びなきゃいけないんですよ。
詫びる詫びないというのは、まず何のことを言っているんだろうと、私はそこがよく分らない。
まずその私の、気持ちの中にふり切れないものがある。私も多少なりと、迷っていて、よく分らないところがある。戦争を詫びるというのはどういう事だろう。私はまぁ終戦を迎えたのは小学校の4年生でした。
始まったのは小学校に入る一年前、昭和17年の入学ですから、16年12月8日はまだ幼稚園生だった。
でも、何か若い人には、正しい歴史の知識で、いけないことをしたなら、それを正直に教えていくことが客観的な正しい歴史を教えることであって、悪いことをしたなら悪いと認めるのも大切だというような言い方がたしかにありますよね。
これ、言い続けてきたじゃないですか、戦後。そして悲惨な戦災や、悲惨な満州からの引き揚げや、悲惨な数多くの戦前戦後の物語を語り続けて来たこの民族の60年間、
もうそれもだんだん、今は陰が薄くなりましたが――最初の40年間くらいは映画やテレビにそういうドラマが絶え間なくありましたが――みな日本が仕掛けた戦争だったから仕方がないんだと、
悪いのは日本人なんだからと、そう思い込んで無理に納得してきたんじゃないでしょうか。
とりわけ大変に滑稽なのは大江健三郎という男で、「アウシュビッツの後に文学なし」といったドイツの思想家の言葉にならって、「広島の後に文学なし」と、こう言ったんですね。
アウシュビッツと広島の惨劇を二つ並べるのは、悲惨のレベルという点で必ずしも間違った見方だと私も思いませんけれども「アウシュビッツの後に、ドイツの文学者がドイツの文学を書くことは出来ない」というのは、加害者のドイツ人が、ということですね。
「広島の後にアメリカに文学なし」と言うのならば話は通りますよ、これは。「広島の後に日本人が、もはや文学を書くことはできない、文学はない、精神はない、もうないんだ」。
これはおかしいんじゃないのかなと、てんでひっくり返っているんじゃないかなと、思うわけであります。原爆を落としたのはどこの誰なんですか?
大江健三郎は狂っているんはないですか。こんなふうに狂った人が戦後ずっと多かったんですよ。
えー。西尾幹ニってアドルノも知らんのか。。。ショックだ。
971 :
吾輩は名無しである:2005/10/04(火) 21:23:04
http://homepage3.nifty.com/bhind/krm1.htm かって真実だったもの
あれは何で読んだのだろうか、大江健三郎の、おそらく昭和30年代に書か
れた文章だ。「祖国」たる北朝鮮に「帰って」行く「在日」の人々を”賛美”
した文章だった。その当時、盛んに在日韓国朝鮮人の人々の、北朝鮮への「帰
国」運動が行われていたのだった。
大江の文章は、北への「帰国」を選んだ人々の爽やかな笑顔の印象を語り、
また、「帰国運動」に抗議してデモを行う韓国の学生たちを、政府の指令に従
って動いているだけの愚劣な者たち、として描き出していた。
もう一つ。いまだ未見なのだが、吉永小百合が”青春スター”だった頃の、
「キューポラのある街」なる映画がある。その映画の一挿話に、やはり北への
「帰国」を手に手を取って果たそうとする「在日」の若いカップルの出発を友
人たち皆が祝福する、などというシーンがあるそうだ。一度見てみたいと思っているのだが。
この「帰国運動」が、どのような結果になったのか、「帰って」行った人々
がどのような運命をたどったのか、我々はすでに知っている。帰国体験者の証
言や、公表された手記によって。それが、いかなる悲劇への招待状であったかを。
だが、大江が「北への帰国者」の清々しさを語り、映画のフィルムに「北」
において実現されるであろう幸福な新婚生活を信じ夢見る若いカップルの姿が
焼き付けられたあの時代、
そんな”事実”は、誰も知らずにいたのだ。少なくとも”こちら側”において
は。その頃、”こちら側”の人々は、別の真実を信じていたのだった。
そして、その”真実”が幻想だったと分かってしまった今日。幻想だった
”真実”を賛美してしまった人々は、その件に関して口をつぐみ、まるで何も
なかったように、そんな過去への責任を放棄したままである。
2002年10月 6日(日)
>>967 憂い顔の童子、取り替え子(チェンジリング) を読んでから
さようなら〜を読むと良いと思う。
この三つは話が続いているので、説明を省かれている部分も
あると思う。
それとも、家族関係・友人関係などの基本的な人間関係の事を
おっしゃっているのでしょうか?
974 :
吾輩は名無しである:2005/10/05(水) 07:24:37
973さん、どうもありがとう。参考になります。
話が続いているというのは、推測するに三島の『豊饒の海』みたいな感じなんでしょうかね。一応はそれぞれ独立した作品としても読めるという。
ちなみに今まだ前半なんですが、古義人、繁、アカリ、マーちゃん等の関係性がいまいちハッキリしない感じです。
>>971 なんか変わってるね、この賞って。政治目的で利用するわけかな?
半島系作家用だったりして。
講談社も面白いことするもんだね。
コピペじゃない文章もかけるんだ
977 :
吾輩は名無しである:2005/10/05(水) 22:17:40
コギトの初めての子供がアカリで、その妹がマーちゃん。
ってそんなこと聞きたいんじゃないよね。
大江、昔のほうが読みにくい描写だったが、今はストーリーがわかり
ずらい・・・・。でも昔のほうがパワーがあってよかったね。
だめだこりゃ。
978 :
吾輩は名無しである:2005/10/05(水) 22:30:14
おらっちは昔のより最近のほうがいいと思うけどな。
そろそろスレも残りわずか。
次スレはPart20くらい?
図式的な少女趣味
大江健三郎『同時代ゲーム』新潮文庫
海外でほとんど訳書も出ていなかった著者が、なぜノーベル賞を受賞したのかは、今もって謎である。
世界的な評価を得ている日本人の小説家といえば、三島由紀夫と安部公房、それに最近では村上春樹ぐらいだろう。
川端康成の受賞も「三島由紀夫の空席が回ってきた」といわれたが、その類推でいうと安部公房が死んだために空席が回ってきたのだろうか。
著者は一時、ノーベル賞の候補者を推薦すると自称していた矢野暢と仲よくしていたというから、その効果があったのかもしれない。
いずれにせよ、佐藤栄作と並ぶ恥ずかしいノーベル賞である。
しかも、海外で評価される作品も『万延元年のフットボール』までで、それ以後はほとんど話題にならない。客観的にみても『個人的な体験』や『万延元年』は傑作といえるし、
後年の作品でも『雨の木』の連作のように肩に力を入れないで書いた短編には見るべきものがある。
しかし本書のように「同時代」への意識が過剰な作品は、読むに耐えない。
学生から職業作家になった著者には切実なモチーフがなく、「社会的」なテーマを頭の中で作り出して書いているからである。
30歳のときに書かれた『万延元年』が最高傑作とされるのは、著者の思想的限界を象徴している。
特に本書が著者の最低の駄作とされる原因は、当時、著者が傾倒していた山口昌男氏の「道化」論を小説に丸ごと取り入れたことである。
登場人物にそれぞれ文化人類学的な位置づけが与えられ、「祝祭」とか「異化」とかいう言葉が小説に出てくるのは、鼻白むのを通り越して腹が立ってくる。
最良の作品というのは、山口的な図式を乗り越えるところに意味があるのに、作家自身がその図式で書いていたのでは、話にならない。
本書には『ヒロシマ・ノート』以来の「核戦争の恐怖」のモチーフもあるが、こういう「非武装中立」の少女趣味が日本の民主主義をだめにした害毒は計り知れない。
最近の「歴史教科書」問題でも、著者は例によって自分の子供を引き合いに出して「弱者」への配慮がどうとかいう見当違いな批判をしていた。
作家としてはともかく、戦後民主主義の生み出した最悪のイデオローグとしては歴史に残るだろう。