【蓮實>>】糸圭秀実 4【<<柄谷】

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410吾輩は名無しである
問題の「消滅する象形文字」最終段落から引用する。

 ところで、Kとはいったい誰か。話者「私」はこの作品の冒頭で、「先生」を
「先生」と呼ぶ理由について、「其方が私に取つて自然だからである」と言い、
なおかつ、「余所々々しい頭文字抔はとても使ふ気になれない」と言っている。
だとすれば、「下」における「先生」は、なぜそのかつての友人を「余所々々しい
頭文字」で呼ぶのだろうか。その理由も今やはっきりしていよう。……

ところでこの「K=余所々々しい頭文字」問題は、小森陽一の『心』論以来のものだが、
それが歴史的具体性から遊離した疑似問題である所以が藤井淑禎によって明らかだ。
藤井の調査によれば、頭文字の使用は明治四十年頃から目立ってくることで、愛する
人物や自分を頭文字で呼ぶことも多く、親しみを籠めた使用例が多い。
したがって「余所々々しい」とは頭文字自体が隔てがましいニュアンスをもつ意味ではなく、
飽くまで二人称的な呼びかけである「先生」の親愛度と比べれば他人行儀、との意味で冠したに過ぎない。
「余所々々しい」なる表現に過剰反応した深読みは、同時代の考古学的調査からいって成り立たない。
『漱石文学全注釈12 心』(若草書房)の藤井による注釈、もしくは
藤井淑禎『小説の考古学へ』(名古屋大学出版会、2001)参照のこと。