白岩玄。をプロデュース

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400吾輩は名無しである
今日放送のドラマ、実によかったといいたい。原作が描いていたと思われる
現代文学の特性が存分に生かされている。

現代文学が近代文学と明確に区別
されて持つ性質といえば、それは現代社会のありようをそのまま表出すると
いうことであろう。その点において、今日の放送のドラマは、サブ/メイン
カルチャーの垣根を越えて、ひろくテクストとして評価できるのではないか。

具体的には、現代人の感覚の不確かさと、多くの役割分担を担わされつつも、
実質その中身は何もないという空虚さが描かれていたということである。

感覚の不確かさは、登場人物のノブタによって直接「楽しいのって、後からしか
わからない」と語られている。楽しいという感情を、現代人はもはやその場では
感じることができないのだ。そこには、生の条件が充足した、身体感覚を失いつつ
ある現代人固有の原因があるのだろう。その、「楽しい」という具体例が、「文化
祭」として仕組まれている。そして、その「文化祭」と「楽しい」という感情が
結び付けられるために、豆腐やの主人は「おじさんだってキャーキャー言いたい」
という語りがあり、また生霊があるのであろう。生霊はこの作品に独特の
雰囲気を加えていることも見逃すことはできない。いうまでもなくそれは身体
から抜け出た思念の化身である。その思念も、それは、「文化祭」が当然生み出す
はずの「楽しい」という感情を価値付けるために組み込まれている。

もう一つの、現代人の内実の空虚さは、「文化祭」をあたかも太鼓もちのように
いろいろな役割に追われて走り回る主人公が、そのまま現代社会のおける人間
の構図にスライドする形で描出されている。そして、それは日常における
主人公のキャラクターがそのまま反映されたものであり、そのいわばペルソナの
語源である仮面ともいえる姿の裏側には、他者としての自己(自我)があるの
だが、それがまた突然周りを暗くしたり、鏡を使った設定により、映像文化の
特徴を用いて効果的に表現されている。

401吾輩は名無しである:2005/10/29(土) 23:56:04
しかしながら、そうした多くの役割も持つ一見有能な主人公は、最後に不安を感
じつつ終わる。その不安とは、何一つ自分が生み出していないという不安である。
それは、自己の内部に、何者かを生み出すような内実が見当たらない不安である。
このことが、これまで感じていた空虚さと通底するのだ。ノブタらは、
日常のなかでメインとして立ち回る人間ではない。しかし、彼らの作り出した
ものは誰がみてもすばらしかった。つまり、彼らには中身があったのだ。
それを感じた主人公は、自分自身に不安を覚える。しかし、その不安は主人公
だけではあるまい。視聴者(読者)もまた、そこに共通する不安を、否定する
ことはできないのではないか。近代により個が誕生し、現代になりますます
閉塞化する社会の極限と見える帰結の感情が、我々を襲うのである。

ちなみに、先回の放送で、語り手により、今回の文化祭は「こわい」ものであると
予告めいたかたりがなされた。その「こわさ」は、いわば二重の意味を
持たされていたのだ。表の意味としての、生霊が現れるというこわさ。
そして、裏のもっとも強大な意味としての、自分の存在感覚が揺らぐという
こわさである。そしてこれは、このドラマ(あるいはテクスト)の戦略的
な仕掛けであるのかもしれない。つまり、現代社会の不安感をもやもやと
感じつつある視聴者(読者)には、裏の意味をとり、感じていないものは、
表の意味をとる。このように、ドラマの受け手によってその印象が「こわさ」
という点を基準にして変わる。これはつまり、ドラマ(テクスト)に接する(
見る)ということは、そのまま自分自身を見るということに他ならない
だろう。そういった仕掛けが、装置として組み込まれているこの作品は、
その内容のみならず、言説全体として、誠に優れているといえよう。

まあ、こんだけ褒めるのも亀梨くんがかっこよかったからなんだけど☆