【新作2038】 村上龍 PART∞ 【長編待ち】

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prologue 2 平壌

「2010年3月21日 平壌 朝鮮労働党三号庁舎・第一映写室」

 パク・ヨンスが三号庁舎に来いという命令を受けたのは昨夜遅くだ。夜の十時過ぎ
に伝えられる命令にはろくなものがない。しかもその命令を伝えてきたのは文化省の
チャン・ジンミョンだった。確かに、チャン・ジンミョンは大学の同級生だが、対南
工作を担当する労働党書記局統一戦線部が入っている三号庁舎への出頭命令が、文化
省副相から下達されるのはあまり例がない。通例ではないことに対して警戒を怠って
はいけなかった。それはパク・ヨンスが三十年におよぶ苛烈な政治の場で学んだこと
だ。金正日政治軍事大学で旧東欧の芸術理論を専攻したチャン・ジンミョンは党の組
織指導部から引き抜かれる形で文化省に行った。哲学と英語を学んだパク・ヨンスは
人民軍人民武力部総政治局に入り、第五軍団特殊指導部付きとしてさらに十六年間日
本語を学び、四年前から政治軍事大学の語学教官として教える側に回っている。
「久しぶりだが元気にやっているようだね」
 部屋に入ってきて、チャン・ジンミョンはそういうことを言ったが、眼鏡の奥の目
は笑っていなかった。実際に会うのはほぼ十年ぶりだ。どんなときでも警戒心を失わ
ない狡猾な男だったが、これほど緊張しているのを見るのは初めてで、それがパク・
ヨンスに違和感を抱かせた。チャン・ジンミョンは、よく喜劇映画の俳優が着るよう
な青い背広を着て、胸に黄色いシミの付いたシャツに化学繊維の赤いネクタイを締め、
まるで平壌動物園の名物である大トカゲのように太っていた。芸術を専攻したインテ
リというよりは、国境の経済特区の商工人のようだとパク・ヨンスは思った。チャン
・ジンミョンは部屋に入ってくると、ひっきりなしに額と頬の汗を拭いた。いくら
太っているといっても、汗をかくような室温ではなかった。