1962年、茨城県に生まれる。
東京大学文学部英文科卒業。一浪らしいから23才か
修士号取得が25才くらい
3年くらい博士課程? おそらく教授に嫌われて必死の思いでカナダに逃げたんだろう。
1990‐1992年、ブリティッシュ・コロンビア大学(カナダ)に留学。(28才くらい 〜 30才くらい)
留学失敗記> 私は、泣きたくなった。たしかに私は小説家になりたいと思ってはいた。だがその才能がなかったために、学者の道を選び、こうしてカナダまでやってきたのである。その道からさえ、私は蹴落とされようとしているのか?
ここから東大に戻って博士号を取るところが「ド根性物語」ふう
同大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了。
留学失敗記> 私があちこちで「文藝評論家」と呼ばれるようになったのは、それから七年後のことだった。【1999年ころ】
大阪大学助教授 これの時期わかりますか?
国際文化研究センター客員助教授
(全て公表されてる情報)
1994年 小谷野が大阪大学の講師になった
1999年1月 「もてない男」出版
1999年1月 から交際をはじめる
1999年3月 小谷野が東京に帰る
1999年10月 結婚 (奥さんは5才年上、言語学)
実名じゃなくてイニシャルが多いから読んでも面白くない
http://d.hatena.ne.jp/sunchan2004/20050301 修士論文 『八犬伝綺想―英米文学と「南総里見八犬伝」』(福武書店、1990年)
(1994)私が大阪大学言語文化部へ赴任したのは一九九四年四月のことだ。
(1994)夏休みまで、私はWに怯えながら過ごした。夏休みで実家へ帰ったときから、私は眩暈に襲われるようになり、自律神経失調症と自己診断したが、それは次第に強烈な不安神経症に変わっていった。
(1997)四年目に入り、私は母校から博士号を取得し、助教授に昇任した。
(1997)一九九七年の暮れ、私は二冊の本を出した。
(1998)八月の末、私は自分の精神状態がかなりひどくなっているのに気づき、もう大阪にいたくない、と思って、雑誌で見た東京の大学の公募に四つほど応募した。その時はまだ、公募に落ちたら阪大に残るつもりだった。
しかし、九月の末、また事件が起こった。
(1998)結局私は年末までにすべての公募に落ちたが、もう阪大に残ることは不可能だった。
1999年3月 小谷野、東京に帰る
(1992)・・・三十まで童貞だったという怨念だけは忘れない。(『帰ってきたもてない男』表紙より)
> 風俗で童貞捨てたと聞けば、まあ普通ソープと思っちゃうよね。
どの本に書いてある? 30才、風俗で童貞捨てたのはカナダから逃げ帰って即座に?
(1998.12)「ジェンダーフリー社会をめざす若者セミナー」の席上での小谷野氏の発言が同性愛者の差別
(2002.10) ◇小谷野敦から脅迫メールが! by女将はね奴 2002.10.14.
2002/11/25 絶望書店日記 小谷野敦氏より <5>
「2ちゃんねる」については、匿名での誹謗中傷は卑怯だ、という文章を今年2月21日の「毎日新聞」に書いており、その際2ちゃんねる上には私に対する更なる誹謗中傷が並んだのですから、
その程度のことも知らずに人を批判するのがおこがましいと言っているのですよ。