【JUNKYな】糸圭秀実スレッド 3【あまりにJUNKYな】

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14吾輩は名無しである
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「漱石の『こゝろ』のKが幸徳秋水だのエンペラーだのキングだの、果ては『蒲団』の横山芳子が天皇だのといたあてことじみた議論は、正視するに堪えない馬鹿馬鹿しさである。」
――小谷野敦「「天皇と文学」という問題は存在するのか」『反=文藝評論』57頁
15吾輩は名無しである:04/11/23 17:01:29
菅秀実『「帝国」の文学 戦争と「大逆」の間』第七章注(4)pp.358〜359
「なお、『こゝろ』のこの問題をめぐっては、それを「正視するに堪えない馬鹿馬鹿しさ」
(小谷野敦「『天皇と文学』という問題は存在するのか」「文學界」二〇〇一年五月号)という
批判が存在する。それは、一見するとまっとうな批判である。しかし、天皇制とは、その「馬鹿
馬鹿しさ」それ自体のことではないのか。つまり、Kとは誰かという問いへと多くの者が必然的
に誘われること自体が、天皇(制)的なのであり、その問いを回避して「正解」だけを抽出する
ことは不可能である。本書(本章)とともに、私が先の拙稿「『こゝろ』論」を破棄しない理由
も、そこにある。」

糸圭のこの文は反論になってない。
仮に、Kとは誰かの当てごとゲームの「馬鹿馬鹿しさ」が「天皇(制)的」(って何よ?)なのだとして、
だとすれば糸圭もまた、「天皇(制)的」であるに過ぎないことになる。
Kはキングだとする『こゝろ』論を破棄しない以上、糸圭は「天皇(制)」ゲームを維持するわけだ。
他方、「その問いを回避」するならば、もはやそこに「正解」を求めることなどない。
問題設定の誤りを指摘して「問い」を発さない者が、依然としてその問題の「正解」を求める筈があるまい。
そんな「問い」には正解なぞない、各種の解の前に「問い」自体が馬鹿げてる、と言っとるのだから。