問題設定として、テクスト化うんぬんというのは
ありえないということね。
>空をぼんやり見ることと、漱石を読むことの変容的
差異がないことになるでしょ.。
と、みるのは間違いだと思う。
実際には、事物は解釈のコードを通じて受容されるわけだから。
その段階において、空をぼんやり見ることと、漱石の小説を読むことの
差異化は確実に行われる。
文学(だけじゃなく他の表象文化もだろうけど)を論じる際には、
文化的・文学的コーによって、受容過程がどのように変化するか
といったことを問題としなくてはならないんじゃないの?
テクスト化について論じる場合だけど。
>>863 テクスト化の基準として、なぜ自己の変容があるかといえば、
言語化されているわれわれの無意識が、目の前にあるテクストに
よって変容してはじめて、テクストがテクストとして読まれた
ことになるからだよ。
ちなみに、前にも書いたけど、検証不可能な次元でいえば、
それこそすべてのことがテクスト化であって、自己を変容していない
とは言い切れないわけでね。テクスト化していない読解もないわけ
なんだけど、僕はあくまで事後的に検証しうる範囲における
話をしているんだ。つまり、自己の変容があったかどうかを
判断しうる範囲において変容があったなら、テクスト化された
と理解すべきなんだ。
>>865 もう少し厳密に話をしよう。
「差異化」っていうのはそっちじゃないよね。
つまり、空と漱石を見分けるなんて話をしているんじゃないでしょ。
僕は話したのは、自己が変容したかどうかの差異だよ。
すべてをテクスト化とするなら、空も漱石も変容を起こすわけで、
どちらも変容させたという意味において差異がない。
しかし、それでは文学を語る意味がなくなるから、文学テクスト
に限定した話をするためには、どうしても「すべてがテクスト化」
という次元ではなく、もう少し狭い次元(すなわち検証可能な
変容)で話す必要がある。という話の流れだったよね。僕が
したのは。
>「差異化」っていうのはそっちじゃないよね。
つまり、空と漱石を見分けるなんて話をしているんじゃないでしょ。
もちろんそれはわかります。
ただ、俺が言っているのはいつの時代だろうが、どんな作品だろうが
受容の段階において、解釈のコードの制限を受けていると言うこと。
だから、問題はテクスト化する、しないじゃないということを言いたかったの。
全てはテクスト化される、ただし、すべて異なった受容過程をたどる――
つまり、検証可能だと言うこと。
aho さんの論旨だと、危機の時代ではないと
文学が存在し得ないことになってしまう。
それは、受け入れることができないよ。
aho さんの論旨は、「危機の時代」においては、
文学を「自己変容」との関連において読む、
という読みの習慣が支配的だったというでしょ。
だから、それを狭義のテクスト化という意味に理解して、
文学成立の根拠とするのは、どうも論が飛躍しているように
思われるのだけど。
>>868 もちろん、それはそれで重要な分析だよ。
僕は今まで、自己の変容という一点にしぼって議論をしてきたけど、
その時代の解釈のコードを検証することによって、受容過程
(僕の観点では変容の仕方)をたどるという観点からも
文学の衰退を語ることはできる。
ただ、とすると、
>>863にあった、統一的な解釈のコードが
失われたから文学が衰退した、という君の議論については
僕には異論がある。というのも、それぞれの人間が文学を
読むときには、それが統一的な解釈かどうかなんて気にも
しない(というか、気にしたら文学の多義性を否定することだ)。
だから、その時代で統一的なコードがあるかどうかというのは、
研究者をのぞいては無意味なことなんじゃないかな。
そもそも、自分がその時代その社会に生きていることで、
無意識のうちに影響をうけている解釈のコードがあるわけで、
それが統一的かどうかというのは、関係のない話ではないだろうか。
厳密な意味での統一的な解釈の枠組みなんて存在しないよ。
だけど、それぞれの時代における解釈の枠組みいうのは、おもしろいほど統一的な形をとる。
たとえば、このスレッドではさんざん「文学」の盛衰を、経済的な側面・売れてるかどうか
という観点から論じられてる。
こういった視点は、70年代くらいまでは存在しなかったと言ってもいいと思うけど、
こういう視点が表れ、にちゃんねるで用いられるくらい浸透していることこそ、
「教養」とか「学問」という概念に支えられていた、
「文学」という枠組みが崩壊していることの顕著な例だと思う。
「文学」として受容する素地が失われた場において、
文学が存在しなくなるのは当然のこと。
>>869 まさしく僕は、危機においてのみ文学があると主張したい
わけなんだけど、自己の変容それ自体が、人間にとってはある種の
危機なんだよ。
だから、自己の変容を迫られる時期というのも危機だし、テクストに
よって自己が変容していくのも危機と呼べる。
(その危機から身を遠ざける状態がひきこもりだったよね。)
自己の変容を迫られることがなく、かつ自己も変容しない、
このまったく危機と無縁の状況においては、文学というのは
無意味かつ存在できないよ。
>>871 それは文学という枠組みが崩壊したというより、変化したと
いうべきじゃないかな。「教養」とか「学問」という概念に
支えられていた「文学」という枠組み、、、というのだけが、
文学の枠組みじゃないよね。違う枠組みがあってもいいわけで、
そして、その違う枠組みを文学と読んでもいいわけだ。
そもそも、そういった過去の(今では通用しなくなった)枠組み
によって支えられていないことを衰退とするのは、根拠のないこと
だと思う。
874 :
吾輩は名無しである:04/06/21 04:19
>>872 その主張に立ち戻るのもいいけど、
それだと、文学のありかたを狭めるだけ。
言語芸術は、読まれる行為によって、いくらでも在り様をかえることになる。
>>873 根拠は
>>242 あたりにある。
文学・純文学という概念は、こういった過程において仮構されていったものだと思う。
>>874 だから、僕のいってきたことは、文学のありかたを狭めることとは
別次元のことなんだよ。どのように読まれるにせよ、
「テクスト読解を自己の変容」と僕は定義してきたわけだから、
どうしたって「危機」という概念と無縁ではない。
どのように読まれるとしてもね。
(875の続きだけどね)
自己が変容しないとしたら、(つまり言語的に構造化されている
無意識が変容していないとしたら)、これはもうテクストを
読んだことにはならない。
加えて、僕は「自己の変容」を「危機」と定義した。
人間にとって自己が変わっていくというのは、そう定義できる
だけのリスクをはらんでいるからね。
こういった議論から、もう必然的に文学は危機と密接になっている。
もちろん、まったく違った定義を展開することで、僕とは違った
文学観を語ることはできるけど、少なくとも「僕が文学の
ありかたを狭めている」という批判は、まったく無意味だ。
>>875 876
「テクストの読解」が「自己の変容」で、「自己の変容」が「危機」
なのだとしたら、時代設定は無意味なのでは?
テクストを読む行為が、「自己の変容」にって定義され、
その上で「自己の変容」が「危機」であると定義するのであれば、
それは実際的な状況としての、危機とは関係ないわけだ。
とすると、明治時代や現在における危機的状況と、
aho さんのいう「自己の変容」としての「危機」は関係が無いのであって、
それを文学衰退という、状況と結びつけることはできなくなる。
結論として。
>>878 実際的な状況の危機と関係はあるよ。
というのも、実際的に危機的な状況というのは、たいてい
「自己の変容」を要求するだろうからね。
関係がないということはないんじゃないかな。
もちろん、時代的な危機が僕のいう危機のすべてではなく、
それこそ誰だって思春期のころは危機を経験するはずだし、
そういった危機の方がよりテクスト化において影響を
与えるはずだと僕は直感している。
もちろん、時代的な危機も人々に影響を与えるので、
危機的な人間を増やすと考えられるけどね。
880 :
吾輩は名無しである:04/06/21 08:56
文学は本来的には反体制思想であるべきだと思いますね。文学の衰退とは、現代の文学が体制内的になっていることをしめしているんではないですか。
勿論、この現体制内であっても人生の苦悩、運命などさまざまな現象がありますが、文学が体制的であればそんな苦悩は「同情」心で救われるもの程度ではないのかと思います。
それは、読者の魂を揺さぶるようなことはないと思います。
だいたい歴史上のいろんなことはね、文学に書かれなきゃだめなんですよ。
歴史書に書かれただけではあまり影響力ないんです。もちろんすぐれた
文学でなければだめですがね。すぐれた文学に書かれれば必ず有名になり、
強い影響力を後世に持つようになるのです。
民衆というものはねえ、文学を通じて歴史を知るので、歴史学を通じて
歴史を知るものではないのです。
海音寺潮五郎/日本史探訪「謙信と信玄」
多分平家物語なんかをイメージして語られているのだと思うが、昨日古い本を
読んでてまあここで語られている文学とはいささか質が違う話ではあるが、
なかなか示唆に富む話だと思ったのだ。
882 :
吾輩は名無しである:04/06/21 11:43
あほか
低脳マキャベリスト
883 :
吾輩は名無しである:04/06/21 12:15
書かれただけで残らないものもあるんだから。
一概にマキャベリズムとも言えないんでは?
884 :
そこもで ◆ACT.MODE.E :04/06/21 12:21
影響力とか、今は映像が先いってんからな。
885 :
そこもで ◆ACT.MODE.E :04/06/21 12:24
文章、書物で育ってきた世代の人の言葉は、
まー、それしかなかったからそういうんであって、
今だと、説得力よえー。
aho氏の意見は長いので随分はしょって拝見したが、要約すると危機意識が
あり、なにものかを超克しようとする時に文学が存在する、といえるのかな。
文学を読む、或いは書くというのは当然個人的な行為なのだが、その認識を
共有するという点においては社会的な行為である。
この共有認識が薄まりつつあるのが今という時代で、それがこの衰退論の
下敷きになっていると思うのだ。
文学が「興隆」していたとされる時代は文学の意味が、人間とは一体何物か、
というモチーフがどういう作品にも内包されていた。
人間とは一体何物か、というのを紐解くという共有認識があった訳である。
しかしいつからなのか、それがここでいう衰退の始まりと見ていいと思うの
だが、その共有認識が個の分散へと向かい始める。
当然共有認識も伴い拡散していき、ほぼ文学の目的とは何か、というものが
見えなくなっている。
作品自体がひたすら個に拡散していくので、ほとんど作品は目的の共有されない
個の陳列にすぎなくなっているように見えているのが現代なのではないか。
それが再び共有した目的を持つ事がありうるのか、出来るのか、という事が
これからの文学の在り様の問題である。
887 :
吾輩は名無しである:04/06/21 14:05
だから阿部和重は物語を書いたのだ。
888 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 18:42
凄いスレだね。ここは。事実を曲げてまで人を貶したいのか。こええ。
>>737 サブカルが基準になってるってのが頭おかしいんだって。なんで「サブ」カルが基準になるの?
そもそもそれってサブカルって言えるの?
そこらへん考えてくれよ。サブカル信者の人たちは。
>>739 素泊まり二日で12000円。でも循環湯じゃない本物の温泉つき。
料理は外で食べたよ。いるかってものを食ったのは初体験。
あと鮫の軟骨もね。
両手広げても届かない舟盛り、
ウニ満載の海鮮ちらし、
さっきまで生きてた伊勢海老の味噌汁、
めちゃくちゃでかくて噛みごたえ抜群のスモークサーモン、
噛んだら肉汁とろける若鶏の唐揚ブルーチーズ風味、
絶妙なタレの中身が知りたい黒かさごの煮付け、
猪肉の黒胡椒焼きは下手な牛肉より美味かったし、
地酒も地ビールも飲みまくったよ。
でも交通費込みで5万いかないくらいかな。一人。
彼女と二人で10万弱。
すげえ満足だけど「豪遊」ってほどじゃないね。
まあ貧乏だし。自殺者の多い岸壁で吊橋渡っていたときに
いいインスピレーションを得たな。
その先で半裸のおねえちゃんたちが撮影会してた。
死と性って近いんだな、やっぱ。
889 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 18:42
>>740 次は西のほうに行きたいな。旅はいいよ。発想を新たにしてくれる。あなたにも良い旅を。
890 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 18:43
>>741 すげえ恥ずかしいよね。うん。でも砂漠はなかなかいい感じじゃない?
「美術1」だった俺にしては。
891 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 18:50
>>750 一応、事実とは全く違うので書いておくと、この板の人ならわかるように
そこまで君は知ったかぶって色々と書く割には何も知らない印象だけで生きている人なので、
僕はそんな彼につきまとわれてうんざりし、
その結果なんでもありを引退しようと思ったのです。
その直前にフラッシュの話があって、それはけっこう意見をもらって
それらを参考にフラッシュ初めての素人ながら進めていたわけです。
フリーソフトしか使わずにね。
だけど引退する前に宣言していたフラッシュのことは一応
形にするべきだろうと思い、悪戦苦闘しながら続けていました。
ただそういう形である以上、モチベーションもないし、
方向性もそれまでの流れとはまったく無関係です。
それはそのように宣言しているしそこまで君も知っているはずなのに
嘘を書いているのです。
ともかくそんな中、意見をくれた一人が「待つのは辛い」と言ってきたので
それに答えるべく未完成のままアップしたのがその物笑いの種です。
ちなみにその人は「思っていたよりはよかった」と言っています。
つまりそんなに良くないってことなのはちゃんとわかってます。
「みんな」を代弁するつもりはないし、「興味なくして」いるかどうかは
知らないけど、そこまで君はいつも「みんな」を主語にしてしまう病気なので
そこまで君自信がそう思っているのでしょうね。
他人が言っているように見せかけて自分の意見を通すってのもどうかと思いますが。
892 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 18:53
>>754 確かに君は議論できなくなっちゃうね。俺が意見を書くと。不思議だね。
>>755 そんなこと書いた覚えないけどな。なんで嘘まで書くの?
なんで文章の一部を引用して歪んだ印象を与えようとするの?
なんでここまで来て俺の話しかしないほど、
俺のファンになっちゃったの?
893 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:05
>>766 あなたもそういう誤謬に陥っている人なんですよね。「今絶対主義」ってやつですね。
学問の先端みたいなものを過信している人。しかも概ね誤解したままね。
論文ではなく本で得た知識から語っているのに「最先端」を知っていると思い込むタイプ。
あなたが示したイデオロギーの定義は確かに一面から見れば「ポスト構造主義以前」ではあるでしょう。
でもだから何です?重要なのはその定義の真贋でしょう?
あなたが得意げに示しているその「現在の文学研究の場で」ってのの定義は、
実はマルクス以前の定義に戻っただけなんですよ。というかマルクス以前の「一部」にね。
ご存知でしょうか。マルクスが使う前にイデオロギーという言葉は「学問」として存在したことを。
たとえばトラシーっていう人の『イデオロジー原論』(だったと思う)という本は1800年代初頭に書かれています。
マルクスがエンゲルスと書いた『ドイツ・イデオロギー』(だったはず)は1850年前くらいでしたよね。
あなたの言っているその最先端を僕は詳しく知らないけれど、想像はできますよ。
つまりマルクスとエンゲルスによって社会構造にばかり関連させられてしまうようになった
イデオロギーという思考法をより本来の形に近づけようという運動なんじゃないでしょうか。
あなたは今しか知らないし、それが絶対だと思っているから、そういう恥を晒してしまうんです。
だから僕は「ほのめかす」のではなく具体的に書くべきだ、と書いたんですよ。
具体的に書かれたものっていうのは「今」だの「前時代」だのどうでもいい区切りと無関係に
確かにそこに存在できる文章になるからです。そしてそれこそが本物だと思うからです。
続きます。
12000円でその料理は安いな。
何だ、外で食べたのか・・・。
旅の話とか、フラッシュの話とか
正直、そんなもんどうでもいい。
どうせオナニーするなら、スレタイにからめてしろ!
ついでにコテハンはずせ!
897 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:18
>>766 続きです。
あなたはいわゆる「イデオロギー」ではなく「文学イデオロギー」について語ったんだと言うわけですね。
それは「近代以降の文学的状況によって」「作られた」と。
では近代ではない現代、その文学的状況によって「作られた」「文学イデオロギー」について
何故、語らないのでしょうか。
何故、近代の文学的状況とは違う現代の文学について
近代の「文学イデオロギー」を根拠に衰退だの消滅だの言えるんでしょうか。
近代は皆さんご存知のように過ぎ去りました。そして近代の文学状況も。その文学イデオロギーなるものも。
ちなみに242さんが語っていたイデオロギーは「現代」の定義なはずなのに、
何故か近代の漱石はそれを知っていました。おどろきです。
そして現代の定義であるはずなのに現代の作家は知らないと断言されています。
検証することもなく。ぶったまげです。
僕には単にこう見えます。
僕が定義した242さん言うところの「前時代的イデオロギー」とは
「ある社会の下部構造の上にある概念」というような意味です。そして242さん自信が語った過去の文学状況も
むしろ僕の定義に近いようです。当然ながら「ある社会」には「文学の世界」も含まれるわけで。
少なくとも242さん自身が定義しなおした最先端イデオロギーつまり
「個人がそれぞれの存在の諸条件に対してもつ、想像上の関係の表象」
が242さんが最初に書いた「意識的な文学概念の構築」
とどう関連しているのかわかりません。
さらに言えば、その最先端定義はむしろ、今の作家達に共有されている
通俗的な概念であって、今はまさにその「視座」から作品を書いている人達ばかりだと思います。
ならばタイムマシンで漱石を呼びこの時代最先端の文学イデオロギーなるものに首肯させなくとも、
242さんの言う定義どおりの意味で今の文学は活発に生きつづけていると言えるでしょう。
898 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:33
>>772 僕は何度も「なぜ衰退していると言えるのか」と問いました。
答えはこんなのばっかりでした。
「見ればわかる」「実感がある」「わからない奴が馬鹿なだけ」
それを見て愉快に思う人はあまりいないんじゃないでしょうか。
少なくとも本当に文学を愛している人ならば。
899 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:35
>>778 それいいですね。いずれにせよ衰退論がなくなるなら本望です。
900 :
吾輩は名無しである:04/06/21 19:39
900get!
結論は文学は衰退したでいいねもう
次立てないよ
901 :
吾輩は名無しである:04/06/21 19:40
ファルロス満々まだー!
900来ちゃったよッ!
902 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:47
>>770 なんだかおかしな話ですね。僕の定義では「文学と社会は違う」なんて書かれていないのに。
どこをどう読むとそういう解釈になるんですか?
あなたの前振りは「西欧文化の核」に触れた日本の知識人達がそれに絶望し
日本の知を再構築するために意識的に働きかけ、文学のその影響を受けたということでした。
これには誤解がないはずです。そしてここからはあなたの書かれた外の話ですが、
その「絶望」は文化そのものではなくそういった文化を持っていた当時の先端国家に対する畏怖や不安から生じたものです。
だから日本語を拝して日本人みんな英語を話そうなんて思想まで馬鹿にできないくらい力を持ったのです。
ある意味、今にそっくりなんですけどね。そしてそのことを僕は言っているんですけどね。僕の定義でもおかしくないし。
ただ、僕はあなたの話を混同しているかもしれませんね。
それはあなたが近代の文学的な運動を根拠に「文学というものはこういう定義で、今その定義が通じない以上、文学は死んだ」
などと言う一方で近代の文学イデオロギーについて「前時代的なイデオロギー」は的外れで
「今の文学研究」を基準にするべきだなんてことを書くような人だからです。
そりゃ混同します。近代の話をするなら近代、現代の話をするなら現代、
それなら「まだ」わかります。でもあなたは自分に都合よく近代の話を現代で語り
現代の話を近代で語っているのです。結論が先にあってそこに向かうだけの理論構築だからそうなるのです。
僕の立場としては、誰が何をどう知ってまたそれをどう定義しどう考え修正しているかわからない以上、
言葉は具体的に書くべきで、あなたのように仄めかした後になって意味づけをしていくような方法は不毛だと思っています。
同じ文献や同じ資料を読んでいる学者のみが集まる学会とは違うのです。最低限それは踏まえるべきでしょう。
903 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:47
904 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:50
>>793 書く能力がないのに書いたんですか。とんだすっとこどっこいでしたね。ただ他人のことは他人に任せましょうね。
時系列に関する話に整合性を持たせられない今のあなたでは撤退するしかないでしょうね。
次はもう少し長くお話できるといいですね。
905 :
C ◆7sqafLs07s :04/06/21 20:01
>>825 僕はあなたの意見にはあなたにだけ言葉を返しているのだから、
あなたも僕の意見には僕にだけ言葉を返してもいいんじゃないかな。
それは善悪の問題ではなくモラルなんかでもなく格好の問題だ。
議論する相手を前にしてカメラのほうばかり見ている男を人は支持するだろうか。
まずそれを考えてもらいたい。衰退論の人たち多くに当て嵌まることだが。
本題。
あなたの議論では純文学には娯楽性と衝撃度が求められることになりますね。
そしてそれらの強度が上向きになっていないから衰退と。
では、今の僕らにとって今の作品よりずっと娯楽性も衝撃度も低い昔の作品はみんな
「駄目」ってことになりますね。あくまで今の僕らから作品のみを見た場合ですが。
そうですよね。「今読むと何てことは無い作品」が当時は「衝撃的」だったそうですから。
あなたの意見だとそうなるわけですが。
僕はそう思いません。まず文学は娯楽性だの衝撃度だのそれこそ重箱の隅に残ったご飯粒のような話ではなく
作品そのもので語られるべきであって、その見方には多様性があっていいし、
あるべきだし、あるものほど良い作品だと思うからです。だから今になって今の見方で見ても読める文学は素晴らしいし、
同様に、昔の見方しかないから「わからない」センスの持ち主が幾ら貶したところで、
その人たち以外の見方で支持されている作品には可能性があると信じるからです。
マンネリというのは読み手の問題でもあります。読みもしないのに否定するような人は正にそうでしょう。
906 :
吾輩は名無しである:04/06/21 20:12
cのアホな全レスだけで1000行きそうだ
>>906 そうやって、Cの連続投稿規制を解除してやる、お前が好きだ。
908 :
吾輩は名無しである:04/06/21 20:47
荒らしを呼ぶ男が嵐とともに帰ってきた!
909 :
そこもで ◆ACT.MODE.E :04/06/21 20:47
>>905 長いから最後の1行しか読んでないけど、
「衰退を感じるのは読み手の問題」というのは同意です。
ゲームは衰退した。
映画は衰退した。
音楽は衰退した。
これは受け手が違えば、
たとえばテレビゲームを始めてやった人にしてみれば
「こんな面白いものがあったのか」と思うかもしれない。
特定の作家や作品について、批評することはできても
「文学」という枠組みで批評することが可能なのだろうか?
という根本的な疑問を持ちます。
そこで「文学は衰退している」と思う人は
そこでの「文学」と「衰退」の意味を定義して提示する必要があるはずですが、
いままでのを見ていると客観性に乏しいように思いますが…
>>898 >僕は何度も「なぜ衰退していると言えるのか」と問いました。
>答えはこんなのばっかりでした。
>「見ればわかる」「実感がある」「わからない奴が馬鹿なだけ」
>それを見て愉快に思う人はあまりいないんじゃないでしょうか。
>少なくとも本当に文学を愛している人ならば。
Cさんが文学を愛していることは感じています。
またCさんのレスから読書家であることも窺われます。
そしてわたしはその愛と素養を尊重したいと思います。
ただ、たとえば「わからない奴が馬鹿なだけ」という
それこそ自ら利巧とはいえないことを自己言及しているレスに対して
不愉快に思う必要も応答する必要も感じないのは私だけでしょうか。
また、文学を愛しているがゆえに現状に危機感や不安感を抱き、
衰退を考える人がいることも理解できるのではないかと思いますが。
>>910 >特定の作家や作品について、批評することはできても
>「文学」という枠組みで批評することが可能なのだろうか?
これは以前からCさんが主張していることですね。
特定の作家や作品について語ることができないのに、
もし「文学」について何事かを語るとしたら、
もちろんそれは、本末転倒以前の問題外になります。
しかし、ある程度の特定の作家や作品について語ることができれば、
そうした文学作品の集合として「文学」を語ることは可能でしょう。
たとえばあなたが中国へ旅行に行ったとします。
一度の旅行では中国について語れないかもしれない。
しかし何度か中国旅行をし、また他の外国も旅行する機会があれば、
あなたは中国について語り始めることはできるでしょう。
>>912 中国に年に数回行くという生活を数十年続ければ、
中国の発展や衰退について語ることはできるでしょう。
しかし、そこで語ることができるのは
中国のこの部分は発展している。
中国のこの部分は衰退している。
中国のこの部分は変わらない。
でしかないでしょう。
「文学は衰退している」「文学は発展している」というのは
「中国はもうだめだね」という発言と同程度の知性しか感じません。
「自分は中国についてなにを知っているのだろう」と自身に問い掛ける
謙虚さを忘れないでいたいものです。
自分が思う「文学的」なものというものは別の形にシフトしているかもしれません。あるいは海外にあるのかもしれません。