文学はなぜ衰退するのか本気で考えて見れ!【9】

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12000円でその料理は安いな。
何だ、外で食べたのか・・・。
896吾輩は名無しである:04/06/21 19:14
旅の話とか、フラッシュの話とか
正直、そんなもんどうでもいい。

どうせオナニーするなら、スレタイにからめてしろ!

ついでにコテハンはずせ!
897C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:18
>>766 続きです。

あなたはいわゆる「イデオロギー」ではなく「文学イデオロギー」について語ったんだと言うわけですね。
それは「近代以降の文学的状況によって」「作られた」と。
では近代ではない現代、その文学的状況によって「作られた」「文学イデオロギー」について
何故、語らないのでしょうか。
何故、近代の文学的状況とは違う現代の文学について
近代の「文学イデオロギー」を根拠に衰退だの消滅だの言えるんでしょうか。

近代は皆さんご存知のように過ぎ去りました。そして近代の文学状況も。その文学イデオロギーなるものも。
ちなみに242さんが語っていたイデオロギーは「現代」の定義なはずなのに、
何故か近代の漱石はそれを知っていました。おどろきです。
そして現代の定義であるはずなのに現代の作家は知らないと断言されています。
検証することもなく。ぶったまげです。

僕には単にこう見えます。
僕が定義した242さん言うところの「前時代的イデオロギー」とは
「ある社会の下部構造の上にある概念」というような意味です。そして242さん自信が語った過去の文学状況も
むしろ僕の定義に近いようです。当然ながら「ある社会」には「文学の世界」も含まれるわけで。
少なくとも242さん自身が定義しなおした最先端イデオロギーつまり
「個人がそれぞれの存在の諸条件に対してもつ、想像上の関係の表象」
が242さんが最初に書いた「意識的な文学概念の構築」
とどう関連しているのかわかりません。
さらに言えば、その最先端定義はむしろ、今の作家達に共有されている
通俗的な概念であって、今はまさにその「視座」から作品を書いている人達ばかりだと思います。

ならばタイムマシンで漱石を呼びこの時代最先端の文学イデオロギーなるものに首肯させなくとも、
242さんの言う定義どおりの意味で今の文学は活発に生きつづけていると言えるでしょう。
898C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:33
>>772

僕は何度も「なぜ衰退していると言えるのか」と問いました。
答えはこんなのばっかりでした。

「見ればわかる」「実感がある」「わからない奴が馬鹿なだけ」

それを見て愉快に思う人はあまりいないんじゃないでしょうか。
少なくとも本当に文学を愛している人ならば。

899C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:35
>>778

それいいですね。いずれにせよ衰退論がなくなるなら本望です。

900吾輩は名無しである:04/06/21 19:39
900get!
結論は文学は衰退したでいいねもう
次立てないよ
901吾輩は名無しである:04/06/21 19:40
ファルロス満々まだー!
900来ちゃったよッ!
902C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:47
>>770
なんだかおかしな話ですね。僕の定義では「文学と社会は違う」なんて書かれていないのに。
どこをどう読むとそういう解釈になるんですか?

あなたの前振りは「西欧文化の核」に触れた日本の知識人達がそれに絶望し
日本の知を再構築するために意識的に働きかけ、文学のその影響を受けたということでした。
これには誤解がないはずです。そしてここからはあなたの書かれた外の話ですが、
その「絶望」は文化そのものではなくそういった文化を持っていた当時の先端国家に対する畏怖や不安から生じたものです。
だから日本語を拝して日本人みんな英語を話そうなんて思想まで馬鹿にできないくらい力を持ったのです。
ある意味、今にそっくりなんですけどね。そしてそのことを僕は言っているんですけどね。僕の定義でもおかしくないし。

ただ、僕はあなたの話を混同しているかもしれませんね。
それはあなたが近代の文学的な運動を根拠に「文学というものはこういう定義で、今その定義が通じない以上、文学は死んだ」
などと言う一方で近代の文学イデオロギーについて「前時代的なイデオロギー」は的外れで
「今の文学研究」を基準にするべきだなんてことを書くような人だからです。

そりゃ混同します。近代の話をするなら近代、現代の話をするなら現代、
それなら「まだ」わかります。でもあなたは自分に都合よく近代の話を現代で語り
現代の話を近代で語っているのです。結論が先にあってそこに向かうだけの理論構築だからそうなるのです。

僕の立場としては、誰が何をどう知ってまたそれをどう定義しどう考え修正しているかわからない以上、
言葉は具体的に書くべきで、あなたのように仄めかした後になって意味づけをしていくような方法は不毛だと思っています。
同じ文献や同じ資料を読んでいる学者のみが集まる学会とは違うのです。最低限それは踏まえるべきでしょう。
903C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:47
上のは>>792に対する反論です。間違えました。
904C ◆7sqafLs07s :04/06/21 19:50
>>793

書く能力がないのに書いたんですか。とんだすっとこどっこいでしたね。ただ他人のことは他人に任せましょうね。

時系列に関する話に整合性を持たせられない今のあなたでは撤退するしかないでしょうね。
次はもう少し長くお話できるといいですね。
905C ◆7sqafLs07s :04/06/21 20:01
>>825

僕はあなたの意見にはあなたにだけ言葉を返しているのだから、
あなたも僕の意見には僕にだけ言葉を返してもいいんじゃないかな。

それは善悪の問題ではなくモラルなんかでもなく格好の問題だ。

議論する相手を前にしてカメラのほうばかり見ている男を人は支持するだろうか。
まずそれを考えてもらいたい。衰退論の人たち多くに当て嵌まることだが。

本題。

あなたの議論では純文学には娯楽性と衝撃度が求められることになりますね。
そしてそれらの強度が上向きになっていないから衰退と。

では、今の僕らにとって今の作品よりずっと娯楽性も衝撃度も低い昔の作品はみんな
「駄目」ってことになりますね。あくまで今の僕らから作品のみを見た場合ですが。
そうですよね。「今読むと何てことは無い作品」が当時は「衝撃的」だったそうですから。

あなたの意見だとそうなるわけですが。

僕はそう思いません。まず文学は娯楽性だの衝撃度だのそれこそ重箱の隅に残ったご飯粒のような話ではなく
作品そのもので語られるべきであって、その見方には多様性があっていいし、
あるべきだし、あるものほど良い作品だと思うからです。だから今になって今の見方で見ても読める文学は素晴らしいし、
同様に、昔の見方しかないから「わからない」センスの持ち主が幾ら貶したところで、
その人たち以外の見方で支持されている作品には可能性があると信じるからです。

マンネリというのは読み手の問題でもあります。読みもしないのに否定するような人は正にそうでしょう。
906吾輩は名無しである:04/06/21 20:12
cのアホな全レスだけで1000行きそうだ
>>906
そうやって、Cの連続投稿規制を解除してやる、お前が好きだ。
908吾輩は名無しである:04/06/21 20:47
荒らしを呼ぶ男が嵐とともに帰ってきた!
909そこもで ◆ACT.MODE.E :04/06/21 20:47
>>891
言い訳長すぎ。
910吾輩は名無しである:04/06/21 21:22
>>905
長いから最後の1行しか読んでないけど、
「衰退を感じるのは読み手の問題」というのは同意です。

ゲームは衰退した。
映画は衰退した。
音楽は衰退した。
これは受け手が違えば、
たとえばテレビゲームを始めてやった人にしてみれば
「こんな面白いものがあったのか」と思うかもしれない。
特定の作家や作品について、批評することはできても
「文学」という枠組みで批評することが可能なのだろうか?
という根本的な疑問を持ちます。
そこで「文学は衰退している」と思う人は
そこでの「文学」と「衰退」の意味を定義して提示する必要があるはずですが、
いままでのを見ていると客観性に乏しいように思いますが…
911:04/06/21 23:26

>>898
>僕は何度も「なぜ衰退していると言えるのか」と問いました。
>答えはこんなのばっかりでした。
>「見ればわかる」「実感がある」「わからない奴が馬鹿なだけ」
>それを見て愉快に思う人はあまりいないんじゃないでしょうか。
>少なくとも本当に文学を愛している人ならば。
Cさんが文学を愛していることは感じています。
またCさんのレスから読書家であることも窺われます。
そしてわたしはその愛と素養を尊重したいと思います。
ただ、たとえば「わからない奴が馬鹿なだけ」という
それこそ自ら利巧とはいえないことを自己言及しているレスに対して
不愉快に思う必要も応答する必要も感じないのは私だけでしょうか。
また、文学を愛しているがゆえに現状に危機感や不安感を抱き、
衰退を考える人がいることも理解できるのではないかと思いますが。
912:04/06/21 23:33

>>910
>特定の作家や作品について、批評することはできても
>「文学」という枠組みで批評することが可能なのだろうか?
これは以前からCさんが主張していることですね。
特定の作家や作品について語ることができないのに、
もし「文学」について何事かを語るとしたら、
もちろんそれは、本末転倒以前の問題外になります。
しかし、ある程度の特定の作家や作品について語ることができれば、
そうした文学作品の集合として「文学」を語ることは可能でしょう。
たとえばあなたが中国へ旅行に行ったとします。
一度の旅行では中国について語れないかもしれない。
しかし何度か中国旅行をし、また他の外国も旅行する機会があれば、
あなたは中国について語り始めることはできるでしょう。
913吾輩は名無しである
>>912
中国に年に数回行くという生活を数十年続ければ、
中国の発展や衰退について語ることはできるでしょう。
しかし、そこで語ることができるのは
中国のこの部分は発展している。
中国のこの部分は衰退している。
中国のこの部分は変わらない。
でしかないでしょう。
「文学は衰退している」「文学は発展している」というのは
「中国はもうだめだね」という発言と同程度の知性しか感じません。
「自分は中国についてなにを知っているのだろう」と自身に問い掛ける
謙虚さを忘れないでいたいものです。
自分が思う「文学的」なものというものは別の形にシフトしているかもしれません。あるいは海外にあるのかもしれません。