翻訳が日本文学を作った、ってのは結構あるから
ねぇ…藤本和子のブローティガンがなかったら、
村上春樹や高橋源一郎はなかったわけだしさ。
その点に目くじら立てるつもりはない。
独り身のハート、第二のハートを貫くのはナイフ。
このハートはアブホールなしのおれだ。そのナイフ
と同じくらいでっかなくちばしを持った鷲が、ナイフの
柄にウンコ座りして、こう言ってた。「クソに屈するより
死んだ方がまし」
刺し貫かれて貫かれて貫かれまくり、おれたちの心は
死んだ。死んだハートは赤い薔薇となった。おれたちの
死体または薔薇には、まだナイフが突っ立ってる。何も
岩魚にヘビが、鎌首をもたげ、開いた薔薇に巻きついて
た。これが第三のハート。これはマンコ。
(キャシー・アッカー『アホダラ帝国』山形+久霧訳)
『阿修羅ガール』一冊に対して、こんなアッカーの
一節でさえ同じだけの「重さ」がある、そーゆー「薄さ」
がラノベ云々言われちまう原因じゃねえのか、とそこを
問いたい。つーか
「ハートと、書くことに、何の関係があんのよ」(同上)
そこをもっと突っ込め>舞城
ラノベ馬鹿にするのはよくない。
ラノベやたら擁護するのはよくない。
薄いのが良いのに。
んな重いもんばっか食ってらんないすよ
>>380みたいなのがライトノベルの現実なんだろう。
しかも「薄いのが良い」とかの意見をはっきり駄目って言えない雰囲気が
この周辺には強烈にある。
ちゃんと読めば薄められたものでしかないことが判るのに
一部の読み手にバイアスかかってるから変に評価されてるとしか思えない