世界演劇総合スレッド

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1吾輩は名無しである
世界の演劇や戯曲について語るスレッドなり。
それから、演劇的言語じゃなくてもよかと。
あと、日本の劇作家について触れてもええで。
2吾輩は名無しである:04/03/11 19:46
611 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/11 18:54
(1)
 このストッパードの奇妙な劇を論じる前に、まずは私たちが
「不条理劇」という名前で知っている劇が、どういう歴史をたどって
生まれてきたのかを考えてみよう。

 伝統的な劇においては、舞台上の俳優同士が言葉、感情もしくは
行動などでぶつかり合う。この場合、観客は舞台と客席を隔てる
いわゆる「第四の壁」(舞台奥と両手側の三つの壁ではない、透明
な壁を表す用語)を隔てて舞台からは切り離されている。しかし、
それでも舞台上の人物や、そこで演じられていることに共感したり
反発したりすることで、ある感動を得る。
 例えば、『楡の木陰の欲望』におけるキャボットとエビン、アビーと
エビンのぶつかり合い、罪と報いが演じられるのを観て、最後の:

  Eben: "Now. Sun's a-risin'. Purty, hain't it?"
  Abbie: "Ay-eh."

という言葉を聞いたときに味わう感動は、舞台から「与えられる」
ことで観客が得た感動である。この場合、観客は意識していないが、
舞台は切り離されることによって完成している。観客が劇に乱入して
しまえば、伝統劇は崩されてしまう。だから、観客は第四の壁がある
ことで、ある意味で安心して感動を与えられるのである。
3吾輩は名無しである:04/03/11 19:46
613 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/11 19:06
(2)
 だが時が経つにつれ、そうした伝統的な劇空間が、劇作家に
ある苛立ちを与えるようになる。それは伝統劇は舞台を特権化
しているのではないか、という苛立ちである。
 もちろん、舞台上に物語があり、それが観客に感動を与える
というのが劇の本質であろうが、観客は決してその物語を
自分個人の「現実」と受け止めることはない。日常から切り離され、
第四の壁で隔てられているからこそ、安心して非日常の感動を
与えられるのである。
 しかし、例えばテネシー・ウィリアムズなどは、「我々一人一人が
牢獄の壁を叩いてコミュニケーションしている」と書いているように、
個人の悲劇が普遍の悲劇であると考え、またリアリズムは舞台上
だけではなく、それを見ている観客にとっても現実的な悲劇として
受け止められるべきだと考えていた。『ガラスの動物園』のトムが
観客に向かって話しかけるのも、また『わが町』に「ステージ・
マネージャー」が登場するのも、伝統的な手法からさらに一歩
進んで、舞台と観客個人を結びつけようとする試みである。
 第四の壁は取り払われても良いのではないか。それをどう取り
払うか?
4吾輩は名無しである:04/03/11 19:46
616 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/11 19:15
 多くの劇作家は、舞台上の物語が深く真実を突くものであれば、
それだけで舞台と観客はつながるのであり、第四の壁などという
小理屈は必要ない、と考えるであろうし、もちろんこの意見には
同意すべきであろう。だが、伝統に対する反抗というものは演劇
にある種の(時に無軌道な)若さを呼び込んだ。その一例として、
ハプニングを重視し、観客を舞台上にのせる劇などが現れた。
これは非常にアカラサマな反発であり、形式としても稚拙な
ものであったため、一部で熱狂的な反応を引き起こしたものの、
長くは続かなかった。
 しかし、これよりももっと内面的な形で、観客に伝統的な物語
ではないものを提示し、「筋」が通らない不安を与えることで
舞台と観客の間の空間的な隔たりを解消しようとする劇も
あった。こういう劇をエスリンは「不条理の演劇」と呼んだ(この
呼称には今でも異論や反論があるが、ここでは便宜上用いる
ことにする)
5吾輩は名無しである:04/03/11 19:47
620 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/11 19:36
(俺は前にもこれと同趣旨の「解説」をどこかで書いたぞ、
全く面倒だ…このぐらいはどんな演劇の解説にも載っている)

(3)
 さて、「不条理の演劇」の中でも、ストッパードの劇は形式的な
洗練と内容の不条理を合わせたような、高い完成度を誇るもの
が多い。『ほんとうのハウンド警部』も、劇と観客、さらには
作品と批評という関係を「形式」として舞台上に提示する。
つまり、劇中劇という形にするだけではなく、舞台上に客席を
作り、そこに二人の劇評家が座っているという設定によって、
伝統的な舞台[対]観客、物語[対]受け手という二項対立を
解消している。簡単に言えば:

「現実の」観客 → [ 「舞台上の」観客=劇評家 → [劇中劇] ]
 A → [ A’(B) → [ B’(C)] ]
6吾輩は名無しである:04/03/11 19:48
(5のつづき)
という明確な図式ができあがっているのだ。そして、この
記号において「A→A’]は現実の舞台における観客と役者
(二人の劇評家)のことであり、[B→B’]は舞台上の舞台
における観客と役者(劇中劇の役者)のことを表している。
つまり、「現実の」観客は舞台と舞台上の舞台を観ていること
になる、というAとBの「二重性」がここにはあるのだ。
 そして、伝統的な葛藤や対立、和解やカタルシスというものも、
この劇には存在しない。というのも、対立すべき相手が不在で
あるという設定になっているからだ。一方の劇評家は自分より
格上の劇評家の「代わり」であり、対立すべきその相手は今
ここにはいない(同様に、この劇評家の地位を狙う格下の
劇評家も不在である)。もう一方の劇評家は、妻に隠れて浮気を
しているが、その妻は劇が嫌いであり一緒には来ていない。
劇中劇においても、既に殺された後の死体が舞台上に存在して
いるが、それは途中まで気づかれず、さらに誰がなぜ殺したのか
ということも特には重視されない。
7吾輩は名無しである:04/03/11 23:36
(つづき)
(4)
 さらに「不在」については、劇中劇の主人アルバートも行方不明
であり、また「直線的な対立の拒否」ということに関しても、二人の
女性を股にかける男サイモンが、その女性の一人シンシアと激しい
喧嘩になりそうになると、途端に劇中劇の幕が閉じられることにも
注意しておくべきであろう。

 劇中劇はさらに進行し、「エセックスに潜伏中の危険な精神異常
者」を捜索しているハウンド警部がついに登場する(ところで、この
精神異常者について報じているラジオ放送中の「行くえ不明者が
出ないように注意してください」という言葉は興味を引く)。
8吾輩は名無しである:04/03/11 23:41
(ixion氏からの引用つづき)
 「ハウンド(猟犬)」という名前からして記号的であるこの警部は
一体何者なのか。それは『本当のハウンド警部』という題名の「劇」
を観ている「現実の」観客が当然抱く疑問であろう。その警部は、
先ほどまではいたはずのサイモンこそが捜索中の精神異常者で
あり、舞台上の死体は行方不明のアルバートだと断言する。だが、
その直後に死体はアルバートではないと確かめられ、死体の身元
は不明になる。そして、一瞬だけ劇中劇の舞台上に誰もいなくなった
瞬間に、サイモンが現れ、銃で撃ち殺される。これも誰による犯行か
分からないまま、劇中劇の舞台は再び幕を閉じる。
 そして二人の劇評家が、いわば「劇中劇の舞台内舞台」にあがる
ことになる。少し前から、二人の台詞は「頭のなかで考えていること
が」「声に出るといったぐあい」のものになっていた。つまり、外的な
言葉と内的な思考の「壁」が無くなりつつあったのだが、劇中劇の
小道具としての電話が鳴ったとき、それをこの劇評家(たち)が
取り上げたことにより、劇中劇の「観客」から今度は「役者」へと
転じることになる。
9吾輩は名無しである:04/03/12 22:28
632 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/11 23:29
(4)
 さらに「不在」については、劇中劇の主人アルバートも行方不明
であり、また「直線的な対立の拒否」ということに関しても、二人の
女性を股にかける男サイモンが、その女性の一人シンシアと激しい
喧嘩になりそうになると、途端に劇中劇の幕が閉じられることにも
注意しておくべきであろう。

 劇中劇はさらに進行し、「エセックスに潜伏中の危険な精神異常
者」を捜索しているハウンド警部がついに登場する(ところで、この
精神異常者について報じているラジオ放送中の「行くえ不明者が
出ないように注意してください」という言葉は興味を引く)。
10吾輩は名無しである:04/03/12 22:28
633 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/11 23:30
 「ハウンド(猟犬)」という名前からして記号的であるこの警部は
一体何者なのか。それは『本当のハウンド警部』という題名の「劇」
を観ている「現実の」観客が当然抱く疑問であろう。その警部は、
先ほどまではいたはずのサイモンこそが捜索中の精神異常者で
あり、舞台上の死体は行方不明のアルバートだと断言する。だが、
その直後に死体はアルバートではないと確かめられ、死体の身元
は不明になる。そして、一瞬だけ劇中劇の舞台上に誰もいなくなった
瞬間に、サイモンが現れ、銃で撃ち殺される。これも誰による犯行か
分からないまま、劇中劇の舞台は再び幕を閉じる。
 そして二人の劇評家が、いわば「劇中劇の舞台内舞台」にあがる
ことになる。少し前から、二人の台詞は「頭のなかで考えていること
が」「声に出るといったぐあい」のものになっていた。つまり、外的な
言葉と内的な思考の「壁」が無くなりつつあったのだが、劇中劇の
小道具としての電話が鳴ったとき、それをこの劇評家(たち)が
取り上げたことにより、劇中劇の「観客」から今度は「役者」へと
転じることになる。
11吾輩は名無しである:04/03/12 22:29
636 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/11 23:52
 もう少し簡単に整理すると、
(1) 劇中劇は犯罪にかかわる劇であるにもかかわらず、誰が
    犯人かは明確にならない(中心の不在)。
(2) 二人の劇評家は、現実の観客からすると舞台上の役者で
   あり(A’)、同時に劇中劇の観客である(B)という役割を
   負わされていた(二重性)
(3) その二人が劇中劇の「役者」になることで、さらにCという
   「奥の」舞台、もしくは舞台内舞台に移動する。このとき、
   もはや現実の観客は「不在」であるかのように扱われている
   ことになる(現実の不在)

 そして、全てが「舞台」となっていく。劇中劇でサイモンとハウンド
警部であったはずの役者は、舞台上の客席に座って二人の劇評家
に成り変わり、二人の劇評家はそれぞれサイモンとハウンド警部と
いう役を負わされる。
 ここで、劇評家のお粗末な演技という面白さに着目して、役者と
劇評家を単純に対立させることもできるが、そういった二項対立を
際立たせることはストッパードの目的ではないだろう("The truth
is always a compound of two half-truths, and you never reach it,
because there is always something more to say."と皮肉っぽく
語る彼の劇作家としての姿勢を忘れてはならない)。
12吾輩は名無しである:04/03/12 22:30
637 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/12 00:09
(5)
 そういえば、ローゼンクランツとギルデンスターンも、
結局「舞台」から逃れることはできなかったのだが…。

 さて、現実と舞台の境界がなくなった途端に、「不在」であった
者たちが現れてくる。もちろん、舞台上で鳴った電話は一方の
劇評家バードブートの妻からのものである。そして舞台上の
死体は、もう一方の劇評家ムーンが敵にしていた格上の劇評家
であると分かる。そして、舞台と不在に逆襲されて、二人の劇評家
は死んでいく(これを劇が批評に逆襲したのだと考えるのは、
あまりに短絡的であろう)。
 ここで問題になるのは、バードブートの死に際の台詞「そうか――
とうとう――なにもかもわかった――」である。無論、この台詞を
どう理解するかによって、この劇の「ほんとうの」犯人が誰なのか
ということに「解答」を与えることになるだろう。ここからはひとつの
仮説である。
 伝統的な演劇の観客は、対立の不在や複雑な二重性を嫌う。
もしそうしたものが「物語」に組み込まれた場合、最後にはそれが
解き明かされることを期待しながら観劇することになる。それは
デウス・エクス・マキナ的な予定調和になることもあれば、流血の
悲劇という死のカタルシスに終わるときもある。いずれにしても、
何らかの「結末」を望ますにはいられない、「不在」や「不可解な
点」があってはいけない、というのが、物語を重視する伝統的な
観客の態度であった。
13吾輩は名無しである:04/03/12 22:31
638 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/12 00:23
 ここまで書けば言わんとすることは明確であると思うが、
要するに劇中劇から見て置き去りにされていた「現実の」観客、
しかも「第四の壁を挟んだ伝統的な物語」を求める観客こそが、
この劇評家たちを殺していくのである。つまり、見る側こそが
生殺与奪の権を握るのである。
 ストッパードは"the single assumption that makes our
existence viable - that somebody is watching.... "と述べている
が、観客の眼差しがあるものを存在せしめるのが演劇である。
そして、"Reality"を求める観客はそれ以外のものを殺すことも
あるのだ。「こんなものは演劇じゃない」「リアリティがない」と、
常に複雑さや不在や二重性などを認めない伝統的演劇保守
論者は、劇をどう生かして/殺していくのか…ここで最初の
ト書きに立ち戻ってみよう。

「まず最初に観客は、巨大な鏡に映るおのれの姿を正面から
見ているのかと思う。まさか。だが、奥の薄暗がりのなか――
フットライトの反対側――には、絹綿ビロードを張った座席が
並び、人びとの顔がぼんやりと浮かんでいる」
14吾輩は名無しである:04/03/12 22:34
640 :ixion ◆ySh2j8IPDg :04/03/12 00:34
 この劇の題名"The Real Inspector Hound"というのは、
『本当のハウンド警部』でありながら、同時に「現実的なもの
(The Real)を詳しく見る(inspect)しつこい猟犬(Hound)」
と読むこともできる。

 劇の終り、ハウンド警部を演じさせられていたムーンは、
「するとあんただったのね/気違いは!」と糾弾される。
そして、劇中劇の役者の一人が「わたしがほんとうの
ハウンド警部だ!」といって仮面を剥ぎ取り(何のパロディ
かは明確である)、ムーンを撃ち殺す。最後の部分から
引用しよう:
シンシア: するとあなたがほんとうのハウンド警部
マグナス: それだけじゃない!――私の人生は二重に
       なってる――少なくとも!(「少なくとも」に傍点)
シンシア: するとあなたは――?
マグナス: そのとおり!――わたしだ、アルバートだよ!
 このThe Real Inspector Houndの役者ぶりには、死にゆく
ムーンと同じく観客も感嘆してしまうかもしれない。もし
そうだとしたら…あなたは鏡を覗き込んでいるのである。
15吾輩は名無しである
2−14とイクシの文章を引用したんだが、
はて、どうしたものか?
もっと要点を明確に簡潔にしてけろ>イクシ