アンチドストエフスキー総合スレッド

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719吾輩は名無しである
ドストエフスキーの手紙ネタをもう一つ。
1838年に工兵学校初等技術者クラスに入学したドストエフスキーはダーロヴォエ村の
渋ちんの父親から金を引き出す為、技巧を凝らした金の無心の手紙をたびたび書き送った。

「父上はご自身も不如意であり、ぼくの野営演習のためにこれ以上は小額たりとも送金
できないと書いていらっしゃいます。親の置かれている状態を理解する子供は自ら喜びも
悲しみもすべて親と分かち合うべきです。親の困窮は子も等しく耐えるべきであります。
ぼくは父上から多くのものをいただこうとは思いません。構わないのです。お茶を飲まなくても
餓死することはありません。なんとか生きていけるでしょう。ただ、野営演習のときの靴のため
にはいささかなりともお願いしたいのです。野営にはそういうものを用意して行かなければ
ならないのです。しかし、このことはもう止しましょう…」

ドストエフスキーの手紙のこの部分だけを抜き出してみると、まるで親の経済状態を
おもんばかって貧苦に耐える孝行息子そのもののようである。お茶など飲まなくても死ぬことは
ありません、靴も用意しなければいけないのですが、しかしこの話はもう止しましょう、と書く
ドストエフスキーは一見けなげな親思いの17歳の少年のように見える。
ところがどっこい、この「親思いの孝行息子」は、このことはもう止しましょう、と書いた後も
原稿用紙15枚ほどにもなる金の無心を書き綴っている。
さらに一番の驚きは、ドストエフスキーが送金の根拠として挙げている「お茶」だの「靴」だのは
国から支給されるのでドストエフスキーが購入する必要は全くなかった、という点である。