お呼びでないけど、偶然プロバイダ規制が解けてたので、出てきてしまった。
僕はこの二作品は、またえらく「既成」のエッセンスを詰め込んだような作品だなあと思った。
だから「既成」を超える、「変革」というのは、いまいち感じなかった。ただ新しい点があると
すれば、「既成」のラインがこれまでにないほど、ぎりぎりのとこまで広げられた、ということ。
僕も「巧い、よく出来てる」と感じた。と同時に、「巧い、よく出来てる」モードに仕上げ
る「主体」というのが、何というか、作品の中で、サイボーグ化してるというか、そういう輪
郭で浮いて見えてくる。作品にまず、〈感受性豊かな女子高生の日記〉の書き手みたいな主体
があって、その主体が提供した素材を、別の「巧い、よく出来てる」モードの主体が、無表情
に自動的に加工していく、なんかそんな作り方を思わせたんですね。
必ずしも、別人が手を入れているという意味ではなくて、同じ人の中に二つの人格がある、とい
うことでもいい。島本はこの二つが、綿矢や金原のように分離せず、わかちがたく混じり合ってる
分、作品には破綻が多い。でも綿矢と金原のは、素材や言葉の側からの抵抗感を全くシャットアウ
トして、「巧い、よく出来てる」モードで、自動的に加工し、コーティングされてる。これほどま
でに「既成」の文学装置が、形式化、というかフォーマット化された、という新しさは感じた。
だからそこまで「既成」のウィングが広がった以上、飽和して破裂して別の軸が別の人の手で、
大きく前に出てくるかもしれない、そんな根拠のないおぼろな期待、予感は感じてます。
まえ僕が休止する時、あるスレで、この二作品をお前はどう読んだか?みたいなレスをもらってその
ままにしてたんですが、いちおうそれは果たせたかな。なんか変な論理ですけど。ではまた冬眠します。
あと、ixionさんという人のかきこみは、よく感嘆してみてましたが、この人なんだ・・・・