文学はなぜ衰退するのか本気で考えて見れ!【3】

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844吾輩は名無しである:03/12/09 14:15
>→「進化」と呼ぶには最早語弊がある。
については評価法の問題なので割愛するが、
1)2)4)5)は6)でいう変化の一例だね。
そして、3)7)はあなたの意思表明かな。

1)2)4)5)から6)については、
人間の情報処理に関する特性が変化している
ということなのだと思う。
自分で獲得した一次情報と
マスメディアから得られる二次・三次……情報とを較べれば
少なくとも量の面では後者が前者を圧倒している。
その結果、既に整理された情報は得意だが、
生の情報を扱うのは苦手な人間が増えた。
読書は二次情報だが、その解釈は一次情報であるため、
受け手に労力を要求する文学が売れなくなった。
(労力を要求しない雑誌や読み物は今でも売れている)

と、話を結んでみたが、
三・四十年前の若者が文学を理解していたかどうかは知らない。
単にファッションとして買っていた人も多かったのかもしれないし。
実際、今の寺山好き・安吾好きはそんな感じなのだし。
845843:03/12/09 16:08
>844
概ね同感です。何よりも、落ち着いたレスが返ってきて
正直ホッとしています。

7)を書いた時に考えたのは、バラバラで恥ずかしいのですが、
ラブクラフトという怪奇小説作家と、哲学です。
先日オカ板で、ラブクラフトは映画化されると何故つまらないかという
話をしていて、彼の「怖さ」はその作品が伝える「事件」の内容よりも
小説としての構造、文体等に依る部分が多い、という結論に落ち着きました。
哲学も「映画化」出来ない(短絡的ですみません)ということを考えていて、
それで、「やはり、言葉でしか組み立てられない世界はあるのだ」
と思った次第です。
846吾輩は名無しである:03/12/09 22:42
しかし、明治から昭和初期までの文学作品は
そんなにレベルが高かったのかな?
?外、漱石、一葉、芥川、谷崎といった
トップクラスの作家(とその読者)の教養水準が高かっただけで
同時代に活躍した作家の技術はそれ程高くなかったと思いますよ。
例えば欧米でトリストラムシャディ以降とか
ゴンゴラの詩以降というのならなんとなく分かりますけど、
日本の場合は構成力や表現力の低下というよりは、
かつての作家(とその読者)が保有していた
漢籍の素養や古典文学に対する知識の欠如の方が大きいでしょう?
ただ、それを「衰退」と言い切って良いのかが問題なわけで。
欧米で評価の高い谷崎だって
そんなに文章力や構成力があったとは思えないんですけどね。
847780:03/12/10 01:42
>>816
こういういいレスがつくんなら、起きてればよかったと思った。そこで質問。

>やたらと「深さ」や「本質」を強調するかのような言説が日本の若い
>人のあいだに見られるようになったのは、正直言って恐怖な現象。

具体的には、誰の言説のことをおっしゃってるのでしょうか。
そして、それはなぜ「恐怖」なのでしょうか。






848780:03/12/10 01:56
>>816

>「深さ」や「本質」なるもの自体が西洋からの輸入品じゃねえのか

西洋からの輸入品であるという、「どこからきたか」の問題、「起源」の問題は、
それが私たちの現在にとり、意味があるかどうかという問題とは、別だと思う。
言い換えると、輸入品だからダメということにはならない、
自分の文脈の中に、それをどう置き換え、意味をあたえていくかということが重要ということ。





849780:03/12/10 02:04
>>821

>昔は「あはれ」といっていたものが「深さ」に「まこと」を「本質」
>と言葉の使い方が変わっただけでしょ。

これは>>816に対し、「いや日本にもある」という反論だと思いますが、
ことさら西洋的なものの対応物を、日本の中に探さなければいけないということ自体、
私たちが、西洋的な枠組みに取り込まれている証拠とも言えるわけで…
だから輸入品か、もとからあるかということよりも、それ(にあたるもの)に
私たちがどういう意味を認めるか、ということのほうが重要だと思う。


850780:03/12/10 02:25
>>846

前の「本質」の問題と、この「構成」の問題は、ある意味、通じると思う。
西欧の文学では、「構成」に関する規範がすごく堅固で、
だから「トリストラムシャディ以降とかゴンゴラの詩以降」という、
それに対する「崩し」に意味があるわけだけど、
日本にはもともと西欧的な「構成」はないから、ことさら崩すことにも、意味はない。

ただ「構成」に対応するような、文章に秩序をあたえる規範はある。
西欧的な「構成」とは、言い換えると「論理性」ということで、
西欧人は「日本人の文章には論理がない」というけど、これも「ない」のではなく、
文章をどう秩序するかという、その遣り方が違うだけだと思う。

「本質」の概念にしてもそうで、日本には「ない」などということはないわけで、
そういう「本質」的な価値を、成り立たせる仕組みが違うだけだろう。





851おさむ ◆UvGJoaFDw6 :03/12/10 03:09
あの、知識人が海外の日本人観を輸入してきて〜ってくだり。

やっぱり、骨のある文学を書くにはそういう変な惑わしに引っかかっちゃいけないわけです。
で、それに引っかからない一つの手段が愛国心。

やはり、作者に迷いがあってはいけないし、他人の意見におもねってもいけない。
一番作者的に真っ直ぐでいるには愛国心が必要。
852780:03/12/10 04:25
>>851

本当にそうだと思う。
愛国心なんて言うと、思想の問題と思われがちだけど、
851に「手段」とあるように、まともにあるための手がかりなんだと思う。
 
本当は学者・批評家こそ、惑わされちゃいけないと思うが、
そういた「惑わし」に乗ったほうが、図式化しやすいから、乗るんでしょうね。
そうすることが「学問的」だと、思ってる人も多い。







853吾輩は名無しである:03/12/10 11:24
愛国心ってなに。
単なる様式や日本的観念を愛国心といってるの?それとも政治や主義
の国家体制を含めての愛国心のこと?
これが愛国心だ、というなにか共有されるべき指標があるのですか。
その手がかりである愛国心が曖昧では手段にもならないではないですか。
854吾輩は名無しである:03/12/10 13:04
>>851-852
それは「愛国心」ではなくて、
もっと一般の「誇り」や「自負」の話ではないのかな。
855【矢部】 ◆pIzFRdQNI. :03/12/11 15:03
最近の文芸誌から、「文学衰退論」を写しときます。

●柘植光彦「新人小説月評」『文学界』2004.1

映像や画像や音響などのメディアに比べて、情報量が極端に少なく、
したがって高度に抽象化された「文字」というメディアは、
それを読解するのにも高度の知性の訓練を要する。
その努力に対して与えられる結果が、他のメディアに比較してごくわずかなものであるならば、
だれが小説なんか読むだろう。



856【矢部】 ◆pIzFRdQNI. :03/12/11 15:09
>>855の続き。柘植の論から。

「近代小説」が作った枠組みを破壊してしまわなければ、
デジタル社会での小説は、単なる趣味として、
あるいは過去の遺物としてしか生き残れないであろう[…]

かつての文字メディアの栄光にしがみついていて、
三十年前、あるいは五十年前と同じような作品を書いていたら、
小説は滅びる[…]
857【矢部】 ◆pIzFRdQNI. :03/12/11 15:18
●山形浩生「小説の効用分析とその未来を考える。」『群像』2003.11

(経済が発展し)文化娯楽的な経済活動のパイが拡大するけれど、
それを取り合う他の活動も増える。テレビ、ゲーム、ケータイ。

小説が衰退するのは仕方ない、ということだ。
経済の発展に応じた効用の増加を果たし得ていないんだから。
過去の小説からくる効用はだんだん目減りして、新作の効用はそれを補いきれていない。
これは小説に限った話ではなく、書物とか文字文化すべてにも適用できる議論だ。






858【矢部】 ◆pIzFRdQNI. :03/12/11 15:26
>>857の続き。 山形の論から。

アメリカの小説の多くはそれに対して思いっきり長くする、
という手をとった。ある種の理屈っぽい観念性をこめ、
映画なんかとの比較優位を確立する、そんなやり方もある。

いずれ創作の自動化をまじめに考えなきゃいけないと思っている。
[…]それはバロウズのカットアップ手法が指し示した道ではある。
既存の文章あたりの情報密度を高める手法としてのカットアップ、
さらには自動的なテキスト生成手法としてのカットアップ[…]
8591b™ ◆1bBtQE5sBo :03/12/11 15:38
>>855
「動物化」なんていわないところには好感をもてますね。
>その努力に対して与えられる結果が、他のメディアに比較して
>ごくわずかなものであるならば、だれが小説なんか読むだろう。
この「結果」という観点がこのスレにはやや欠けていると思います。
860【矢部】 ◆pIzFRdQNI. :03/12/11 15:53
どちらも、@経済発展とメディアの発達に原因を求め、
A小説の形式や手法の刷新に、活路を見出そうとしています。
この議論の型は、このスレにもよく見受けられます。

これに対し私としては、
@時代とか社会とかが、文学の在り方を規定するという全体論的な発想は、
 そういう「時代」や「社会」を、均質なものとして想定すること自体、
 困難になりつつある現在、有効性を欠いているのではないか。
 そこで逆に、文学の側が、人の意識を規制していく面を重視すれば、
 マルクス主義の「下部構造-上部構造」論みたいな発想でなく、文学の在り方に内在する原因を、探る必要があるのではないか。
 (これは>>843-845に対する疑問でもあり、既に>>209->>212に書いたことにも繋がると思う)
A形式の破壊や手法の刷新をすれば、おのずと作品は難解になり、
 ますます人が離れていくのではないか。そもそも破壊や革新は、
 過去の作品をよく読んでる人にだけ、意味があるのであり、
 あまり読まない人には、どこがどう新しいかもわからない。
ということを感じています。
861吾輩は名無しである:03/12/11 16:02
江戸時代には立派な大衆娯楽だった人形浄瑠璃が今でが伝統芸能としての
保護の下かろうじて生き残っているものの、ほとんどその社会的役目を失
ってしまっているのと同じでしょう。
小説もほとんどその社会的役割を失いはじめているのだろう。
862【矢部】 ◆pIzFRdQNI. :03/12/11 16:06
>>859

860を書いた後、859を読みました。
確かに「結果」という観点は、重要と感じました。
ただ柘植氏の論では、その「結果」の中身が詰められることなく、
山形氏の言う「効用」と同じく、単に「Userの満足」ということを意味してるようで、
この「文学」の側でなく、「社会」の側から見ていく姿勢に、違和感があります。
文学の側から、社会のあり方、現実の捉え方を更新させていく、
という意味での「結果」の方を、私は重視したいです。
(ただ1bさんとは前にもやりとりがあって、やはり市場のシェアとか
社会から文学へという方向を重視されてるようなので、そこは立場の違いですね)



)


8631b™ ◆1bBtQE5sBo :03/12/11 16:16
>>860
確かに
>(経済が発展し)文化娯楽的な経済活動のパイが拡大するけれど、
>それを取り合う他の活動も増える。
という時代に、かつて文学が占めていたような位置を考えること
自体おかしな話で、こういう事態を衰退といってみても始まらない。
864吾輩は名無しである:03/12/11 16:51
まあ文学ではなく文壇が衰退してるだけなんだけどな
8651b™ ◆1bBtQE5sBo :03/12/11 17:03
>>862
「userの満足」があるからこそ、かつて文学のuserは社会の在り方、現実のとらえ方を
更新していったわけで……。それを考えると他ジャンルを前提としなければならないし、
前提としないのであれば、>>861のような話になるのでは?

そういう「結果」を考えるのであればトレンディードラマなんて言い方も古いですが、プロレタリ
ア文学であれなんであれ、新しい愛の形か共産主義かという違いはあっても、やってることは
同じだと私は思っております。その宣伝すべきもの、訴えるべきものが「文学」に内在するな
にものかであるというのなら話は別ですが。


8661b™ ◆1bBtQE5sBo :03/12/11 17:05
>>864
結局、それに尽きてしまう気がしました。
867パピヨン ◆tQ.hdNBCT2 :03/12/11 20:15
>>860
「時代とか社会とかが、文学の在り方を規定する」というのは、文学の社会的役割がある
という前提の基に成り立っています。
ならば、文学の社会的役割は何なのかが焦点にならざるを得ないのではないでしょうか。
この10〜20年間の日本で科学、経済の成長、進歩が頭打ちになったのは自明の理でしょう。
例えば、「鉄腕アトム」や「ドラえもん」といった、科学の進歩が人類の明るい希望であったのは
遠い昔の事のように感じられます。
現実には、21世紀になっても昭和30年代の暮らしと大きな変わりがない。
こんな閉塞感が漂う現在の日本において、思想界の最高峰であるはずの文学が、
人類の進むべき道について、何ら効果的な指針を示してこなかった。
これこそが、大衆が文学に期待を持てなくなった原因の内の一つではないでしょうか。
868843:03/12/11 21:40
まず、
>855 >856の柘植光彦さん(知らない人です)の言葉は何か「でじたる社会」に
迎合した、視点のずれを感じます。特に「情報量」というところ。

あと「文学の衰退」という問題はその「経済上の衰退」とは
さほど関係のない局面でこそ重大だと考えています。
843を書いたときに考えていたのは、世代的に変化しつつある人間の
意識のかたち(うまく言えません)です。
869843:03/12/11 21:40
すごく変な話で恐縮ですが、
以前ホルモン攪乱物質に関する本を何冊か読んだことが基になっています。
つまり、人間という種のメス化によって、まず生物レベルで
感覚情報の処理の仕方が変わってきているという認識です。
「より速く、より表層的に、常に変化を」という方向でしょうか?
もっと複雑で多岐に渡る変化が平行して進んでいるような気がします。
まだよく掴めていません。

「文学が衰退している」という感覚は今のところ、
この「変化」に対する漠然とした不安感ではないかと、考えています。
最終的には「衰退とは言えない」という結論が待っているような気もしています。
870843:03/12/11 21:41
山形浩生が素朴にバロウズを引き合いに出しているのは面白いと思いました。
精神変容薬を常習する者は様々な「意識のありよう」(ぜんぜんうまく言えません)
に敏感ですし、彼は冷静に、ある階層から他の階層へと流れていく意識を描写していたはずです。
おそらくそういった作品はこの「衰退」を免れ得ているのでしょう。

乱文失礼しました。
871吾輩は名無しである:03/12/12 22:00
>>852
>そうすることが「学問的」だと、思ってる人も多い。

そもそも近代以降の日本の学問自体が西洋の学問体系をそのまま
受け入れることで生まれたわけだから、ある種やむをえない態度とも
言えるんでしょう。本来なら、学問全体を日本という土壌、文脈の上で
捉え直す必要があるはずなのだけれど。

個人的に、"文学"であったり"芸術"であったりという言葉には違和感を
覚えずにはいられなくて(特に後者)、それはなぜかと考えると、それらの
概念の輸入元である西洋と日本でその言葉に付随しているバックボーンの
重みが圧倒的に違うからであって、結局のところ日本で流通しているそれらの
言葉は>>848-849で言うような、自分たちの文脈の中に置き換えて意味を
持たせるという、根をつける作業のなされていない、まるで生け花のような
ものでしかないからだと感じざるを得ない。

で、「愛国心」、この言葉だと少し乱暴だし誤解を招きやすいし、>>800
書いてある「日の丸見て胸を熱くして」なんてのは(まあ冗談なのだろうけど)、
ずれていると思うが、西洋的なものを目の前にしたときにそこにある違和感や
差異を自覚して、自分が立っている土壌、文脈を見つめてその中でそれらの
ものを咀嚼するという行為が本当に大事なことなんじゃないか、そう思う。
872780:03/12/13 00:06
>>853

>単なる様式や日本的観念を愛国心といってるの?
>それとも政治や主義の国家体制を含めての愛国心のこと?
>これが愛国心だ、というなにか共有されるべき指標があるのですか。

ふう。こういう話きくと、ため息つきたなるわ!
わしがな、日本が変やなあ思うのは、
愛国心ゆうと、政治や思想の問題にされてまうことや。
本来はな、愛国心ゆうのは、どんな政治的立場の人も、どんな思想の人も、
みんな心に秘めとらんとあかんもんなんや!欧米ではそうや!左翼にも愛国心ある!
なんで日本では、愛国心いうと右翼ってことになんねん?
逆に日本の左翼いうたら、今、反ナショナリズムしかあらへんやろ?
本来、右と左ゆうのは、経済や社会の在り方についての、対立のはずやのに、
日本に限って、ナショナリズムの是非が争点いうのは、おかしいんちゃうか?
愛国心いうのは、なんかこれこれの「指標」を共有する人だけのもんちゃうんや!
あらゆる「指標」を超えて、誰の心にもあらんといかんもんなんや!
873780:03/12/13 00:21
こういうと愛国心いうのは、なんか曖昧なものにきこえるかもしれん。

>>854
>それは「愛国心」ではなくて、
>もっと一般の「誇り」や「自負」の話ではないのかな。

という風に、思えるかもしれへん。でもそうやない!例えばやな、
《文学は民族の魂やから、何を措いても尊重せなあかん!》
いう観念が、みんなに共有され、揺ぎ無いもんとしてありさえすれば、
いくら時代が変化しても、メディアが発達しても、文学を守るため、あらゆる方策がとれるやろ!
そういう絶対的なもんがないから、文学も、時代の波にさらわれてまうんとちゃうんか?
この場合な、愛国心いうもん自体は、空気みたいなもんでも、
それが文学に貼りついとるだけで、文学の運命もずいぶん変わってくるんや!
愛国的な文学、いうもんはない!
どんな文学をやろうと、そこに愛国心の支えがあれば、全然、違ってくるいうことや!
日の丸も、悠久の大義も、それ自体には何の意味もない!
だだそういうもんで意識を支えていくだけで、文学も何もかもが変わってくるんや!



874780:03/12/13 00:25
>>871

そう。そういうことが大事やとわしも思う。
日本では、ナショナリズムが、
政治や思想の問題にされてしもうとるもんやから、
そういう大事なことが、出来んくなっとるのを哀しく思う。   
875吾輩は名無しである:03/12/13 01:01
ただ、西洋対日本という図式ではなくて、
中国・朝鮮対日本という図式でナショナリズムが
江戸中期に勃興してきたわけだし、
その際に民族精神の自覚という事で
万葉、記紀、源氏物語といった古典文学の再評価が
真淵や宣長らによってなされた事も留意しておかないと。
50音表記や万葉仮名の和訓への翻訳がなされたのもちょうどこの頃で
その延長線上に明治維新があるわけで、
日本文学というものは
学問として成立した段階でかなり政治的だった、と。
876吾輩は名無しである:03/12/13 01:32
>>872
愛国心の形成とは、まさに政治的次元の問題だよ。
「誰の心にもあらんといかん」と君に言わせてしまう、まさにその
制度の成り立ちを自ら問いただしてみることだね。
「これこれこそが自然的だ」と感じることの歴史性=政治性を意識しないまま
「自然」を押し付ける人間には虫唾が走るよ。

877780:03/12/13 01:57
>>876

君に「君」呼ばわりされる、筋合いはないね。
それにあのさあ、日本の批評ってのはさあ、その自然=自明とされるものの、
制度性・歴史性・政治性を暴こうってことで、80年代からずっとやってきたわけね。
でもさあ、もう今は2003年なんだぜ。
いくら「自然=自明」なものなどないとか言いながら、
そういう人たち自体、別の「自然=自明」に寄りかかり、
支えられてるから、生きていられるわけだよね。
具体的にいうと、近代国民国家的な「自然=自明」は批判しても、
それは単に、ポストモダン消費社会的な「自然=自明」を補強してるに過ぎないわけ。
だからさあ結局、ひとは何か「自然=自明」なものがないと生きられないとしたら、
では何を「自然=自明」とみなすべきかという、意思の問題、覚悟の問題が出てくるんだよ。
その意思と覚悟で引き受けるべきものは、この国の歴史と使命しかないって俺は言ってるわけ。
だから今だに無自覚に、制度性だの政治性だの言ってる人間には、呆れるしかないよ。
878780:03/12/13 02:13
>>875

まあな、その辺りの、国学的な言説と、
明治期の国民国家の言説との関わりってのは、難しいところだな。
酒井直樹とかはまあ、その江戸期のとこを、むしろ重視するわけだ。

あと「西洋対日本という図式」と、「中国・朝鮮対日本という図式」とが
どう交錯するのかっていうのも、すごく大きな問題だわな。
まあ近代になる前に、「中国・朝鮮」という東アジア的世界から、
離脱する方向で「日本」意識が立ち上がり、それがさらに「西洋」と対峙するわけだから、
単純に「日本」が、もとからある自然なものだとは言えないわけだわな。

ただ先にも書いたけど、そういう政治的な起源があることと、
今の時点でわれわれがそれを、自明のものとして引き受けるということとは、
別に矛盾しないと思うがなあ。だから逆に言うと、
単に「それは歴史的・政治的だ」と言ってるだけでは、ナショナリズムは崩せないってことだ。

879780:03/12/13 02:21
>>875-876

あと「政治性」についてひとこと。

あなた(たち?)が言うのは、ある制度的な枠組みの「政治性」なわけだけど、
わたしが「日本では愛国心が政治的問題にされてる」というときの「政治性」とは、
制度的な枠組みの内部での、具体的な対立点、争点になってるってこと。

国民国家が歴史的・政治的起源をもつってことと、
国を愛するかどうかが、最大の対立点になるってこととは、
別の次元の話なんであって、愛国心の是非が争点になるなどというのは、
まさに、日本の歴史的・政治的な特殊事情による、異常事態だってこと。


880吾輩は名無しである:03/12/13 02:24
>>874
>どんな文学をやろうと、そこに愛国心の支えがあれば、全然、違ってくるいうことや!
>日の丸も、悠久の大義も、それ自体には何の意味もない!
>だだそういうもんで意識を支えていくだけで、文学も何もかもが変わってくるんや!

ふうむ、信仰としての愛国心か。
方策としては面白いが、参加したくはないな。
信仰の熱狂よりも無信仰の退屈を私は選ぶよ。
881780:03/12/13 02:32
>>880

そういうことを言ってるじゃねーよ!
逆になあ、あらゆる無知蒙昧、あらゆる傲慢さから
覚醒するための手がかりが、愛国心てこと。
西洋渡りの変な観念に、ごまかされ熱狂しないこと、
それを受け入れても、冷静に自分のいる足場との釣り合いがとれること。
そういう意識を支えるのが、愛国心てこと。

882780:03/12/13 02:44
あと285はもう来ないのかな。
おれは285批判として、780以下を書いたんだが。
やっぱ書き方があれだからかなあ。
内容はまじめな批判のつもりだし、代案も出してるんだが…ふう。



883吾輩は名無しである:03/12/13 02:45
西洋的なものに対する違和感以上に強烈な、
>780に対する違和感は何なのだろう。
やはり文学と関係ない話が続いているからだろうか。
884吾輩は名無しである:03/12/13 02:51
>>883
今の話題が文学と関係ない!?
関係ないどころか、かなり根源的な話になっていてとても有意義に
思ってるんだが。
885吾輩は名無しである:03/12/13 02:55
>>883

やっぱ江戸っ子になったり、関西弁になったり、
敬語になったり、けんか口調になったり、
えらそうになったり、しみじみしたり、
文体がめまぐるしく変化するから。
886吾輩は名無しである:03/12/13 03:05
>>884
これが根源的な話なのか。
ううむ、判らん。
「文学」という語の指し示すものが異なっているのかもしれない。

>>885
文体演習か。
どちらかといえば、文章による演技のようにも思える。
887780:03/12/13 03:22
ちょっと相撲板に逝ってた。
……が何も進んでないな。

>>886
だったら、あなたが「根源的」と思う話を出して。
あとあたいは、「自然」を押し付けるって言われたけど、
文体の変化っていう、きわめて不自然な状態にも、ちゃんと耐えてるわ。
(もういいって?)
888吾輩は名無しである:03/12/13 11:54
285のファンにはたまらない285発言集1
>>285-286 >>317-318 >>388 >>391 >>394 >>406 >>422 >>427 >>434

889吾輩は名無しである:03/12/13 11:55
890吾輩は名無しである:03/12/13 12:15
285を批判するたびについてくるファンの方々(一部
>>310 >>330 >>428 >>700

批判するために集めたけど、集めただけで疲れた・・・。
要するに、285はスルーすべきじゃないかってことなんだが。
891吾輩は名無しである:03/12/13 15:37
>>877
>では何を「自然=自明」とみなすべきかという、意思の問題、覚悟の問題が出てくるんだよ。
>その意思と覚悟で引き受けるべきものは、この国の歴史と使命しかないって俺は言ってるわけ。
こんな風に非歴史的に思考停止してしまえばものを考えるのも楽でいいだろう。
ただし、自然は nature 、自明は self-evident。 勝手な論理飛躍でナショナリズムを
正当化されてもちっとも説得力がない。
892吾輩は名無しである:03/12/13 18:30
だれかまとめてくれ。頭が痛くなってきた。
893吾輩は名無しである
国を愛すると言う事は国(文化、習俗、その他)を客体として取り扱い、
これらの客体を選別できる自由な主体を想定する事でもある。
こういった主/客二文法はある政治的枠組内での選択、
例えばゼロサム理論による利害対立上の立場では有効だが、
特定の言説空間内で言説そのものを対象とする場合はどうだろうか?

確かにナショナルな言説が社会を遍く覆ってしまった場合、
それを所与のものとして引き受けるしかないのだが、
「愛する」といった主体の自由を保証するわけでは、ない。

また、「愛さない」という自由も同一の言説空間内で為される限りでは
「意味」の反語にすぎない「無意味」であり、
当該言説空間を強化するだけである。

では、単純に引き受ければ良いのかというと、
地域言語の国語化というプロセスを辿ったヨーロッパとは違い
過去の文学テクストを理念的に捉えて
地域言語の形容詞等を抹消する事によって成立した日本の場合は
かなり趣が違う。

また、言語の純化(論理というのは元々はそういうものです)
といった観点からも折衷的な文を採用している為に
それほどモダンな構築も期待出来ない。
明治以降の日本文学というのは借り物のイメージに
固有名詞や風俗を散りばめた物と
それらに対する違和感(漱石、鴎外はまさにそう)だけで成立していますね。