1 :
吾輩は名無しである:
わたしは高見順をさほど読んでいるわけではないが、
スレタイの二作はとても面白かった。
ほかの作品『いやな感じ』なども読んでいる識者よ、
感想を求む。
トレイシー
トレイシー
とうとう立ったか……
癌で死ぬ前の詩集(『死の淵より』)を読んだことがある。
読後、激しく鬱になった。
今日、高円寺の古本屋で『いやな感じ』を買ってきた。
「アイボリーバックス日本の文学」(中央公論社)のなかの一冊で
『如何なる星』とのカップリング。100円なり。
読み終えたら感想をUPします。
>>4 ?
>>5 それって講談社文芸文庫に入っていましたね。
そのうち読んでみます。
>>7 『死の淵より』からの詩篇かな。いずれにせよthanx。
『いやな感じ』少し読み進めました。
高見順のいつもながらの暗澹たる描写が作品に生命力を
与えている感じがします。こういう陰鬱な叙景は『故旧』
にも『如何なる星』にもところどころ見られるものですが、
高見順の面目躍如といったところですね。
まだでだしなのでこれからが楽しみです。
7のURLの詩篇は小説から陰鬱な澱を漉し取ったあとの澄明な
印象を受けます。
高見順の晩年の境地といった感じなのかな。
『いやな感じ』読了。
感想は後日。
後日はいつ?
>>10 今週末かな。平日はなかなか時間が取れなくて。
でも、簡単に書くと、圧倒的な読後感でした。
ちょっと通俗小説仕立てだけど、それが波乱万丈な
物語を産み出していると思います。
この小説はもっと読まれてもいいんじゃないかな。
話は変わるけど、講談社文芸文庫『草のいのちを
高見順短篇名作集』を購入しました。
1300円の文字に一瞬ひるんだけど、思い切って
買ってしまった。
『死の淵より』は見当たらず。
『いやな感じ』も文芸文庫から刊行されれば
よいのだけど。
『草のいのちを』は戦前の作品から4作品、
戦後から4作品、計8作品収録されています。
まだ、全然読んでないけど週末が楽しみ。
12 :
吾輩は名無しである:03/10/05 23:31
週末終了上げ
>>12 週末終了までにはまだ時間がわずかだが残されている。
ということだが、『いやな感じ』の感想がなかなか思いつかないんだよね。
一回読んだくらいじゃちょっと書けない。
物語はアナーキスト加柴四郎の精神的遍歴だろうけど、表面的に話を追うと
高見順版『東京流れ者』みたいだし。
タイトルの「いやな感じ」が終始加柴のこころに巣食っていて、そこの部分を
読み落とすとこの小説は単なる娯楽小説になってしまいそうだ。
しかしこの「俺」の一人称で語られる小説の人物造型はとても魅力的だと思う。
「俺」はもちろん、ひとくせもふたくせもある脇役が登場するあたりは高見順の
筆の確かさを物語っている。
主人公への共感と反感をばねとして読者は『いやな感じ』を傑作の名に値すると
感じるんじゃないかな。
以上、今回は簡単ながら感想でした。
あと『草のいのちを』所収の「私生児」を今日読んだのだが、これは
あまりに陰惨すぎて読後感を早く忘れたいと思わず思ってしまった。
高見順の小説には象徴的なモチーフとしてよく動物が出てくるのだが
(たとえば『いやな感じ』では犬が加柴の殺人衝動の代替物として、
また猫が加柴の不吉な行く末を暗示するものとして登場する)、
この小説ではなんとがまがえるですよ、わたしはこの短篇を読み終わった
後しばらく鬱だった。
age
変な時間に目覚めてしまった。
『草のいのちを』前半の戦前4篇を読了。
短篇には高見順の原形質のようなものが露出しているようで
興味深い。
そういう意味ではやはり13でちょっと言及した「私生児」は
特筆すべきだろう。
この短篇は高見順についてよく言われる饒舌体で書かれているが
いつものように滑らかではない、ぎくしゃくした文体そのものが
異様さを醸し出している。
陰鬱さは最高度に達し、救いはまったくない。
ほかの3篇「嗚呼いやなことだ」「人間」「ノーカナのこと」には
絶望の中にも人間を信じたい気持ちが一縷の望みとなって、作品に
光明を添えているように思う。
さて、明日からは戦後の4篇だ。
>>1 なにげに、このスレ気になってる。
高見順は「今ひとたびの」しか読んだ事無いけど・・・
長寿スレ祈ってます。
>>16 ありがとう。
『草のいのちを』後半の戦後作品四篇を読了。
このなかで特筆すべきは「あるリベラリスト」だろう。
大正時代の文化雑誌で名を知られた奥村氏だが、戦後はC村に逼塞しながらも
しきりに若い友人の間を訪れては、ひとりで喋り通す。
語り手の秀島もそのひとりなのだが、三日に上げずやってくる奥村氏に閉口
しながらも、友人に話しては「ああいうのをリベラリストって言うんだろうね」
と評する。
しかし、そのリベラリストが次第に行き場を失っていく様子を高見順は描き
尽くして間然するところがない。
この圧倒的な作品を読むと、戦前の作品からやはり高見順は長篇作家だなと
思わせる見解を覆し、高見順の短篇における力量も証している。
表題作の短篇「草のいのちを」は戦争の終ったことをはなやかな雰囲気の中に
刻印している。
「誇りと冒涜」は高見順が戦後書いた中間小説風なものだが、軽妙な味は捨て
がたい。
巻軸の「尻の穴」は「過日、吉行淳之介君と、あるおかまバーへ行った。」と
いう軽い出だしから、中間小説風なものかという予想を裏切って、戦前の
満洲のハルビンの貧民窟に舞台は移る。
この作品は満洲の阿片中毒者の悲惨さを的確に描き出して、貧民窟を髣髴
せしめている。高見順ならではの作品だろう。
ちょうど、高見順のことを思い出して、検索をかけていたところです。
私は高校の教科書に抜粋が載っていた、『わが胸の底のここには』という
彼の文章がとても印象がつよくて、その続きを読んでみたいと思っていました。
ところが、実際にこの大部な自伝小説を読んだのは、それから約20年後の
つい2、3年前のことになってしまいました。この作品はすでに図書館で
しか手に入らないようになって久しいですし、私があまり図書館で本を借りて
読むという習慣がなかったせいかもしれません。書名を忘れていたということも
あったと思います。
しかし、20年ぶりに再会した『わが胸の底のここには』には、当時感銘を受けた
のと同じ感覚がそのまま生きていて、長い自伝ながらとても面白く読めました。
どうして、これを長年ほっておいたのかなぁと、自分でも不思議に思いました。
なぜ、図書館で調べて借りるという簡単なことをしなかったのか・・・
高見順は、生前もそれなりの人気作家でしたが、没後の評価では、
往時文学として発表していた諸作品より、むしろ自伝や日記文の名手として
名高いようです。上記の自伝の他には、『敗戦日記』全8巻や『昭和文学盛衰史』が
知られています。浅草物の小説は今日ではやや時代遅れの感があるかもしれません。
読みにくぃー もっと読みやすい文章で書いてくれんか
>>18-19 まつださん、懇切丁寧な書き込みありがとうございます。
このスレはいつも閑散としているので、また機会があったらお越しください。
まぁ書き込みのないのもそれだけ高見順が現在読まれていないということ
でしょうけど。
本も新刊ではほとんど手に入りませんしね。
『わが胸の底のここには』面白そうですね。古書で手に入りそうなので
そのうち読んでみます。
手元にある高見順の本を全て読んでしまったのだが、今月は懐がさみしく
あたらしく本を買う金がない。
なので『如何なる星の下に』を再読中。
高見順の浅草物はたしかに古びているいる部分もあるが、たとえば次の
ような一節を読むと主人公の鬱屈した気分が伝わってきて、いまだ読む
価値があると思わしめる。
『いやな感じ』は物語で読ませている部分が大きいが、『如何なる星』は
文章で読ませているところが大きいのではないか。
やがて波が退くようにして、――さよう、大森海岸あたりの、古下駄とか猫の死骸とかゴム製品とか、
そんなような汚いものを一面に浮べた真黒な波が退くような感じで、二階の一団は稽古をすませて
去って行った。部屋のなかには、ヘットの臭い蒸発体、ソースその他いろいろのものの焦げて気体化
したもの、煙草のけむり、雑多な肺から吐き出された炭酸ガス、一団の人々があらゆる身体の部分から
落せるだけ落して行ったおびただしい塵埃、それらがギッシリつまって、その凄い空気に私はすっかり
参ってしまって、胃袋は折から空っぽのはずなのに吐きそうな感じである。
22 :
吾輩は名無しである:03/10/14 19:38
『いやな感じ』はつまりいやな、いやな、いい感じって事だろ。
ぱくり感想だけどね。
死に際の『共産党員として死にたかった。』はいただけない。
23 :
吾輩は名無しである:03/10/14 21:47
高見ジン
>>22 高見順について語るとなるとおそかれはやかれこういう話題に直面せざるを得ない
とは思っていたわけだが、俺としてはそういう部分を論ずることをさけていた面は
あった。
高見順は左翼崩れの人間を繰り返し自らの小説のなかで描いてきたし、とくに出世
作の『故旧忘れ得べき』では避けて通れないテーマだ。
しかし右翼・左翼と言っても俺はもはやリアリティを感じ得ない世代に属している
と言っていい。
そういうわけで俺は『いやな感じ』のボル派とアナーキストの抗争についてや、
主人公の加柴四郎がテロリストであると同時にファシストとしての側面も持つよう
になるストーリーにも直接触れることなく通り過ぎてきた。
もっとも『いやな感じ』は普通に娯楽小説としても楽しめるし、日活映画の原作と
言われてもさほど驚かないだろう。
たしか金井美恵子が昔『いやな感じ』についてエッセーのなかで映画にすれば面白い
んじゃないかと書いていたが俺も全く同感だ。
俺は高見順は含羞の人ではないだろうかと思う。
『いやな感じ』の主人公が共産主義者ではなく、アナーキストに設定されている所
からもそれが窺える。
これは高見順の恥らいの発露のひとつなのだ。
高見順が死の際に「共産党員として死にたかった」と仮に言ったとしても、それが
はたから見てたしかに「いただけない」言葉だったとしても、高見順自身のうちでは
終始一貫した心情だったのではないだろうかと思う。
高見順を読み始めてまだ数冊に過ぎない俺としても、高見順の政治的姿勢については
今後もまた論ずる機会があるだろう。
25 :
吾輩は名無しである:03/10/15 04:06
まず、実際にそう言ったかどうかが不明だな。
昔、図書館で復刊シリーズの『故旧忘れ得べき』を借りた。
正直、細かいストーリーは全然覚えてないけど、
勢いのある文章でテンポもよく、すごく面白かった。
>>25 まぁ、たしかにそうだね。
だから「仮に言ったとしても」としたのだが。
ぼくの手許にも資料はほとんど無いんで。
>>22は何かソースを提示できるの?
>>26 近代文学館から復刻された物だね。
ぼくも同じやつで読みました。
いま『如何なる星』を再読中なんで、読み終わったら、『故旧』も
読み返す予定。
ぼくもストーリーはほとんど忘れている。
『如何なる星の下に』再読完了、といっても数日前だけど。
『如何なる星』についてはどう書けばいいか書きあぐねた。
再読のせいかちょっと印象が薄かった感もある。
この小説には浅草の風俗がこまごまと描かれているが、それ自体が目的ではないだろう。
もちろん小柳雅子への倉橋の想いが主題というわけでもない。
あえて言えば、手の届かないところにいる小柳雅子への想いと同様に、倉橋にとっては
浅草がそこを徘徊しつつも、徹底して手の届かないところにある街であるという点に
主題が埋め込まれているだろう。
浅草はそこにいくら憧憬をふくらませ、そこの水に慣れようとも、倉橋には近づき
がたい心の浅草なのである。
終末部から引用。
だが、私のうちの小柳雅子は、さよういつか私が見た遠くの空の雁のように、見るみるすげなく
遠ざかって行くのだった。消えうせていくのだった。でも私のうちの慕情はおかしなことに、これ
だけは、あたかも鳥の去ったあとの巣のように、消えやらず、残っていた。
小柳雅子に対して消え残った慕情と同じく、倉橋にとって浅草は、ほのかな慕情の
対象として終る。
倉橋は自らに幻滅しながらも、自らを肯定するのである。
話を少々変えると、
>>24などで高見順と左翼崩れの関係についてちょっと触れた
けれども、この小説でも但馬という左翼崩れの男が登場する。
いや、登場はしないのだった。人々の口の端には上りつつも、ついに物語に登場
することはない。
終結部、但馬が上京してきたことを倉橋は知らされるが、結局、但馬は登場しない。
但馬はこの物語の裏側をふちどって、常に倉橋の影のように存在しているのだが。
これは
>>24で触れた高見順が含羞の人ではないかという指摘とある程度シンクロ
するのではないかと思う。
ちょっと軽めの話題を。
『如何なる星の下に』には「惚太郎」というお好み焼き屋が登場するが、これが
実際に浅草に存在する「染太郎」というお好み焼き屋であるということは、言わず
とも知れた逸話のひとつ。
高見順や坂口安吾が常連だったらしい。
『如何なる星』には、惚太郎のお品書きを羅列している文章がある。
ちょっと引用。
やきそば。いかてん。えびてん。あんこてん。もちてん。あんこ巻。もやし。あんず巻。
よせなべ。牛てん。キャベツボール。シュウマイ。(以上いずれも、下に「五仙」と値段が
入っている。それからは値段が上る)。テキ、二十仙。おかやき、十五仙。三原やき、十五仙。
やきめし、十仙。カツ、十五仙。オムレツ、十五仙。新橋やき、十五仙。五もくやき、十仙。
玉子やき、時価。
お好み焼きをほとんど食べたことのない俺には想像にあまるメニューだが、実際の
染太郎ではあんこ巻きなんかが名物らしい。
甘いものはちょっとね(笑
ttp://gourmet.zubapita.com/item/100/i5913248/ 上のページをみると、雰囲気はなかなかいいらしいけど、味の方は普通という評価
が多いようだ。
このスレの読者で「染太郎」に行ったことのある方、感想、レポートなどあったら
どうぞ(笑
浅草染太郎公式サイト
ttp://www.yamani-shoji.co.jp/sometaro/page/sometaro%20official%20top.shtm
『現代の文学 高見順集』(河出書房)(生命の樹、激流、死の淵より、を収録)
『現代日本の文学 24 高見順集』(学研)(わが胸の底のここには、故旧忘れ得べき、狂気への誘い、他を収録)
『昭和文学盛衰史』(文春文庫)
以上三冊を発注。届くのが楽しみである。
『故旧忘れ得べき』を再読したいところだが、押し入れのどこかに紛れ込んでいて
ありかがわからない。週末に探すとするか。
ちょっとスレ違いだが、今、石川淳の『白頭吟』を高校生以来、再読している。
内容はほぼ完全に忘れていたが、この小説も、アナーキストやテロリストが出て
きて、高見順の『いやな感じ』を連想させる。ちょっと面白い。
小学校の時に、詩を覚えた記憶がある。
懐かしいなぁ。
なんていう詩だったか・・・。
32 :
吾輩は名無しである:03/10/24 19:47
たしか雅子の名前をお好み焼きで造るとこがあった
漏れも昔、真似てやってみたことあるけど
とてもじゃないが人の名前なんか書けるもんじゃない
高見順も考えただけで実際はやってないだろうとそのとき思った。
33 :
吾輩は名無しである:03/10/24 20:03
高見本人は好きな女ができるとあちこち喋りまわって
皆でワイワイ盛り上がるタイプだったらしい。
34 :
吾輩は名無しである:03/10/25 14:01
>31
われは草なりのびんとす というやつですね。
文芸文庫「草のいのちを」に入っています。
いいですね。
>>32 そういえばそんな場面がありましたね。
感想をUPしたときにはすっかり忘れていました。
>高見順も考えただけで実際はやってないだろうとそのとき思った。
でも、高見順も実際にやってみたけど、うまくいかなかった、ということも
考えられますね。
倉橋は最初小柳雅子の名前をローマ字で書くんですね。これならできるかも。
Kとまず書いた。なるほど難しい。最初にボタリとうどん粉を落した柱の頭に、大きな瘤ができて
しまった。つづいてo――つづいてy――Koyanagi Masako
見るに堪えない下手糞なできぐあいだった。はがしで、ごちゃごちゃとかためてしまった。
ローマ字でこれなんだから、たしかに漢字だとうまく書くのは至難の業かも。
でもこの場面は読み返してみると結構重要な場面ですね。
小柳雅子と「あんこてん」で書いたのを美佐子に見られるのも、物語の重要な
伏線になっていますし。
最後にちょっと引用。
小柳雅子。――ひどく横びろのブクブク肥った字ができ上った。すんなりした実物の小柳雅子の
感じとまるで違う、醜く肥った字で、その醜さがいやだったが、――じッと見ているうちに、その
いやな気持のなかに、それと違った、もっとはなはだしくいやな気持がムクムクと湧いてきた。
その字の形は、実物の小柳雅子とは似てもつかぬものだったとはいえ、その字そのものはまさに
小柳雅子の姓名に他ならない。それをば、無慙にも鉄板の上に乗せて焼いているのは、何か
丑三詣りに似た呪いの所業でも行なっているような気がし出したのだ。
>>30で触れた高見順の本三冊無事に届きました。
補足すると、河出書房新社の『高見順集』は「激流」が第一部のみ収録(泣
「死の淵より」も抄録(泣
やっぱり単行本で買わないとだめか。全集は高すぎるもんなぁ。
学研の『高見順集』のその他の収録作品は「呟く幽鬼」「軽い骨」「詩集(抄)」
『故旧忘れ得べき』の再読はとりあえず後回しにして、『昭和文学盛衰史』から
読み始めました。
文庫版だから、電車のなかでも読みやすいしね。
それではまた読み終えたら感想書きます。
しかし、相変わらず閑散としたスレだね(笑
『昭和文学盛衰史』実を言うといまだ読み終わっていないのだが、なかなか面白い。
いまや聞いたこともない作家や同人誌の名前が頻出するのには辟易するが、高見順
の筆遣いにはそれを補ってあまりあるほど読者を引きずり込む力がある。
いままで読んだところで興味深い点といえば、たとえば若き日の高見順が
「新感覚派的新鮮さの方に魅力を感じていた」ことである。
しかし、高見順はすぐに古びてしまう小説の意匠的な「新しいさ」と万古不易の
決して腐蝕しない「新しさ」を対比して述べている。
すなわち、新感覚派的なものは現在ではすっかり古びてしまったことを認め、
高見順が愛読していた新感覚派的な作家藤沢桓夫の小説の一節を引用する。
年少の私は、しかし「冬の都会は、午後二時の、暗闇だ。悶絶した隧道(すいどう)
だ。雪雪雪雪雪雪雪雪雪の交錯舞踏を縫い、自動車は、ドイツ産の闘犬を想いながら、
ひらすら、驀進(ばくしん)した」(『首』より)といった表現に拍手した。
たしかに現在から読むと噴飯物の文章だが、こういう文章が新感覚派としてもて
はやされたのだ。
この手の文章を読むとまるで辻仁成の小説にそっくりだと思ってしまうのだが、
新感覚派のもっとも正統な後継者を辻とすれば、辻の文学的古臭さも納得できる。
しかし、昭和初期の文学界では、「新しさ」を希求する熱気が芬芬としていたのだ
なぁと現在と比べて感慨深いものがある。
なんてこった。高見順のスレがあるとは!
「いやな感じ」は、相当凄い小説だと思うんだけど。
淋病治療の場面があったなー。読んでるだけで痛くて泣きそうだった。
悪趣味でセンチメンタルで、いろんな夾雑物がごちゃごちゃ混じった作家だけれど
そういうごちゃごちゃな作家であることに、誇りを持っていた人だね。
持続するパワーがあって、底に純情がある。
「いやな感じ」が、読むことすら難しい小説になってしまっているのは哀しいね。
>>38 まったく『いやな感じ』は傑作ですね。
ぼくは特に最後の場面が脳裏に焼きついて離れません。
淋病治療の陰惨さのようなところは高見順に任せたら独壇場って感じ
がしますね。
ほんと痛そうでした。
>悪趣味でセンチメンタルで、いろんな夾雑物がごちゃごちゃ混じった作家だけれど
>そういうごちゃごちゃな作家であることに、誇りを持っていた人だね。
>持続するパワーがあって、底に純情がある。
いいこと書きますね。まったく同意です。
『いやな感じ』また読み返したくなってきました。
ところで実を言うといまだ『昭和文学盛衰史』読み終わっていません。
つまらないわけではなく、むしろかなり興味津々で読んでいるのだけど、
ほとんど通勤電車のなかでしか読んでいないので、さっぱり読み進まない。
>>37で同人誌の誌名が頻出するのには閉口したと書いたんだけど、なぜ
そんなに同人誌のことが書かれるのか以下の部分を読んで腑に落ちた。
(前略)『改造』の当選作家で「まともに活躍している」のは全く芹沢光治良だけである。
総じて懸賞当選作家というものが育たないのは、どういうわけなのだろうか。懸賞で
当てようというような精神のなかには、「まともに」文学の育たないものが含まれている
のだろうか。しかしこれからは逆に、ひとつ当ててやろうというような精神こそが、作家
たるべきものの不可欠の要素になるかもしれない。文学の芸能化とともに、すでに今日
その兆は見えている。
なるほど、文壇へのデビューが懸賞小説一色になってしまった現在では想像が
及ばなかったのだけど、昔は同人誌にこつこつと小説を書いて、腕を磨いて
いくというのが文壇デビューのあり方だったんですね。
それにしても高見順の予想はずばり当たっている。
まさしく慧眼ですね。
>>29 染太郎は数回行ったことがあります。
味はまあまあだけど、雰囲気はノスタルジックな気分に浸れます。
店員の感じは良いとはいえないかな。
夏場は激烈に暑いです。
高見順や坂口安吾のサインを見てちょっと感激しました。
文学館で見ても感激しないけど、お好み焼きの店(しかも小汚い)に
あると、生々しくて。
42 :
吾輩は名無しである:03/12/17 01:28
おっ、このスレいまだ健在だったか。
スレ立てた本人が何言ってるのかという話もあるが、早速ですが、
>>41レスありがとうございます。
少しはこのスレの活性化に結びつけばよいのだけど。
染太郎、一度は行ってみたいですね。
ところで何故か突如『いやな感じ』再読開始。
この前読んだばかりだけど、面白い、面白い、やっぱりこの小説は最高です。
早くも『いやな感じ』再読完了。
前回と同じく充実した読後感だが、今回は特に北海道へ流れていく場面が
印象に残った。
蟹の缶詰工場もさびしいし、雪の中の馬もさびしい。
自伝の『わが胸の底のここには』を読み始めたんだけど、く、暗い。
いったい読み終えることはできるのだろうか?