黒沢清 文筆家としての特異な存在

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54吾輩は名無しである
北野武はいったい何を企てようとしたのか

『3-4X10月』がなかなかの手腕によって作られたと思われる最大の理由は、物語がよ
くわかるという点にある。ただの荒くれ者が無茶苦茶やっただけでは勿論ないし、一
芸に秀でた他分野の才人が感覚にまかせて撮ったところで、映画とは、こうはいかな
い代物だ。

まず物語がある。カメラで全てを撮るのは不可能なのだから、何を見せ、何は見せな
いでおくかという選択の作業が次にある。そうやって撮ったものを、さらにどういう
順番で何秒見せるかを決定していかねばならない。誰しも、映画というものがおおよ
そどういう形体に納まるべきなのかは漠然と知っているのだが、実際作業してみると、
それが本当にちゃんと納まっているのかどうか、ほとんど自分では判断できなくなっ
て、「ワケがわからなくても思い通りやったんだからいいや」と居直ったり、「やや、
これじゃさっぱりワケがわからないぞ」と青ざめ、慌ててただワケがわかるという一
点に目標を絞って全てをつなぎ直す。ま経験の少ない凡人は皆そんなふうだ。このご
におよんで、あのカットはああ撮っておけばよかったと悔やんでも、時すでに遅しで
ある。ちなみに、ここで言うワケとはつまり物語のことだ。
55吾輩は名無しである:03/05/29 14:23
さて、北野武の手腕は、こういった日本映画によくあるレベルをはるかに越えている。
まず物語があり、さまざまな選択を経て作品を仕上げるという過程はいっしょなのだ
が、彼の主眼は、あくまで“皆が漠然と知っているような形体におさめることを絶対
にしない”ことにある。これはおそらく彼の性格からくるものと思われるが、しかし、
性格には忠実だが愚だけはおかすまいとかたく決意した北野武は、無茶苦茶はしない、
きちっと納まりもしない、ワケはちゃんとわかる、そういう困難できわどい方向に
『3-4X10月』を位置づけた。これほど、自由奔放という言葉から遠い創造もまたとない。

この作業を完成させる為には、どういう被写体を、どのアングルから、何秒見せれば
よいのか、そしてそれは本当に観客にもそう見えるのか、そのへんのところを細心の
注意をもって周到に見極める必要がある。しかし、彼の性格から言うと、作品全体が
計算と教義にこりかたまったように見えては絶対にいけない。ムシロ、あらゆる自粛
や禁欲が、一見自由奔放のようにも見えなければならない。

大変なことだと思う。こんなことをして、北野武はいったい何を企てようとしたのか。
日本映画会を辛辣にあざむくことか。或いは異才タレントとしての自分の存在を固持
し続けることか。おそらくどちらも当たっているだろう。しかし、これらは全て北野
武の性格からくるものなのだ。そして、性格とはつまり才能のことでもある。
                                (宝島1991.4.24)