■■小説現代新人賞■■

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613田中慎弥「図書準備室」120枚
私は三十を過ぎても就業経験がまるでない男だ。
父を幼くして亡くし、母が働いてくれている。
祖父の法要で、親族からいい加減働けと言われた私は、なぜに私が高校を卒業して以来、一度も職に就かないのかを語った。
私が小学生の頃、初老の長身な男が近所に住んでいて、世捨て人だと呼ばれていたが、その男に私の無職の原因があるのだ。
その男は不気味な存在であったが、私が中学校に入学すると、男がその中学の国語教師で、吉岡という名前だとわかった。
吉岡には噂があり、それは戦争中、工場勤務に借り出されていた少年自体、体の弱い男をリンチしたというものだった。
マスコミに取り上げられそうにもなり、吉岡の職も危うくなったこともある。
中学の文化祭の後片付けで、私が書物を図書室へ運んでいくと、吉岡がいて、図書準備室へ書物を運ぶよう指示した。
各教科の準備室はその教科の最年長教師の個室のような意味が強く、普段は不気味な吉岡も少し打ち解けたかに見え、個室で二人きりになれたこともあり、私は例の噂を吉岡にぶつけてみた。
吉岡はその噂をはじめ否定したが、やがて実際に行ったことを告白した。相手の男の股間に鶏の餌をつけ、鶏を放して男の金玉やペニスを突かせ、血まみれにさせたそうだ。
その後、戦争も終わり、うやむやになったが、リンチを一緒に行ったものが、首謀者である吉岡をマスコミに売ったことで、またぶり返したそうだ。
それ以後、吉岡は通学路の階段で待っていて、私が登校すると必ず挨拶をするようになった。私はそれを毎朝無視していた。
そんなことがあって、私は高校を出てから無職を貫き通しているのだ。
私がそう説明し終わると、母はその話に半信半疑で、従兄弟の娘だけが、戦争に行かなければならなくなったら、どうするのかと尋ねてきて、私は逃げ続けるのだと答えた。(了)