>>87 では、当方もあなたに対する最終レスにします。
>ドストエフスキーのユーモアが作品の読解にどれだけ影響があるか、軽視するようでは
>小説を読む資格はない。文章とは作家の認識の在り方であり、ユーモア、笑い、喜劇が
>抜きがたく胚胎しているドストエフスキーの文章とはつまり作家の世界認識の在り方が
>の一端をそのような形で示している。翻訳でいいとする文章への軽視はそういう問題を
>等閑視するものだ。
私のレスを熟読していないのがよくわかる的外れな指摘です。
私はドストエフスキー作品における主張・テーマを読み取る
(これを称して「読解」と言う)に際し、ユーモアと言う要素が
どの程度の重要性を有するかを問題にしているからです。
あなたは、この点について全く敷衍していません。
個々の作品の翻訳の巧拙も問題とせず、翻訳で読む=文章への軽視と
断定する様は、まさに文学部教育の犠牲者である翻訳フェチ丸出しです。
権威ある古典文学、その権威の検証作業、これには十分な事前準備が不可欠
でありますが、過去の評価に疑義があるとすれば、必ずやこの検証作業の段階で
平仄が合わない部分が表出するわけであります。
「読書」に事前準備など不要であると主張するのであれば、事前準備無くして、
「読解」が可能あることを、まず示すべきであります。