>>76,78
>実際に読むという行為によって、これらの先人の判断を批判的に受け止める必要がある。
この辺の論が本末転倒。
まず、従来の確立した評価を確認し、批判はその後というのが筋である。
基本を疎かにして奇策を弄しているかのようで、到底首肯出来ない見解と言える。
また、ドストエフスキー作品におけるユーモアの要素を評価する見解だが、
読書における多角的な楽しみ方を提供するメリットは認めるが、
果してテーマ・主張の読解に、いかほどの影響があるのか疑問である。
>審判を下したのは「歴史」などという茫漠とした主体ではなく、その時代の時々に
>おける読者、批評家などの読み手によってである。
この部分も私の真意につき誤読している。
なぜなら歴史の担い手、主役は常に人間であるからである。
単に時が経過すれば古典文学足り得ると主張しているわけではない。
古典文学の権威に盲従するつもりはないという点は明確にしておきたい。
十分と思われる事前準備の繰り返しによる「読書」により、
この権威足り得た源の確認を行うべきなのである。
>思想教養にノイズとして入り込む部分がカットされてしまう。
>文学作品を読むことを何らかの目的のための行為にしている。
>教養を得るために作品をツール化している。
>ためにする読書、そのためにする学習、
上記引用部分で書かれた事柄につき、何が問題であり、不当だと言うのであろうか?
>噴飯ものである。
?
>おそらく、ここで批判されている内容がなぜ批判されているのか、
>作品の自立性を認めないであろう
>ミステリ板住人には奇妙に思われるかも知れないが、
>その部分がおそらく議論の成り立たない不結節点であるだろう。
作品の自立性を強調し、読解に支障を来たした反省の気運が、加藤先生を筆頭に盛り
上がって来ているのは、私より良く御存知なのではないか?