さて、私が主張した教養主義の弊害とテクスト論と主題主義の関係などを
総合的に無視されてレスされているようだが、これ以上議論してもおそらく
強圧的な物言いによる自分が正当であることが前提であるところから出発した
発言だけが繰り返されることは明白なので、ミステリ板住人の倒錯的な思考回路
を多少指摘しておくことで私はこの泥沼から離脱したい。暇も尽きた。
>「歴史」という時の審判を経た「古典文学」は既にある種の権威として確立して
>いるのは否定出来ない事実であり、これを読み解くことが、自己の精神的鍛錬となり
>結果的に教養足り得るのを否定する理由は何ら存在しえないのである。
結果的に教養たり得ることを私が否定したことはない。
また、歴史という時の審判を経た「古典」はそれ故に教養たり得るという主張のようだが、
審判を下したのは「歴史」などという茫漠とした主体ではなく、その時代の時々に
おける読者、批評家などの読み手によってである。読まれること、評価されることを
欠如しては時を経て作品が読み継がれることはあり得ないだろうことは容易に理解される
ことだろう。
しかし、実際に読むという行為によって、これらの先人の判断を批判的に受け止める必要がある。
それが時代的、政治的に利用され、作品を囲い込むことがあるのはカフカ、ドストエフスキーが
実存主義の影響の元に深刻な文学として受け入れられ、その喜劇的側面が忘れられ等閑に付されて
来た。その後、作品が読み直されユーモアの側面が重要なものであるのだということが言われて来ている。
>>73 >そこまで言うんなら、作者がどういう文章・文体で物語を綴ったか、原書で読むべきだよね。
>事前に作者のことを知れ!時代背景も勉強しろ!でも原語を読む必要は全くない!
>なんつーのは変だよな(w
激しく同意。
>>75 はいはい。郵便ポストが赤いのも・・・
小学校の道徳の時間に、ワシントンが桜の木を切る話とか読まなかった?
見苦いね。
権威に盲従すること、作品外の価値判断に追従すること、それらが先の引用文に現われている。
その種々の実例はドストエフスキー関連の過去スレにでも豊富にある。
ここで重要なのは、読むことによって得た感動や教養にではなく、外部において発進されている評価
から出発して読む行為に至るという、倒錯的な思考回路である。
もちろん世評から作品を読むという行為はありうるが、ここで問題になっているのは、作品の
価値を専ら外部の権威によって位置づけている部分である。そのため、小説自体を読むことが
できない。思想から演繹させて読もうとする思想教養としての文学ということの弊害はここにある。
思想教養にノイズとして入り込む部分がカットされてしまう。
また、作品から正しくテーマを読み解くことにより何らかの益(教養?)を得ることに失敗する
読みは百害であるとする意見も倒錯的である。文学作品を読むことを何らかの目的のための行為にしている。
作家に遡行するツールとして作品を読むのと同じように、教養を得るために作品をツール化している。
ためにする読書、そのためにする学習、噴飯ものである。
おそらく、ここで批判されている内容がなぜ批判されているのか、作品の自立性を認めないであろう
ミステリ板住人には奇妙に思われるかも知れないが、その部分がおそらく議論の成り立たない不結節点
であるだろう。