66 :
吾輩は名無しである:
「過剰な主題主義」が作品の意味を限定してしまって、作品自体の書かれ方
を閑却し、その思想的意味のみを小説の意味として読みとろうという態度が
小説の「愉しみ」を著しく減じているだろうことは、ドストスレのミステリ板住人
の書き込みを見ればわかる。
ドストエフスキーやカフカが深刻な思想的意味を持った文学として受け止められていた
のは、何よりその時代的空気や、そのように流布させようとする供給側、批評の側の
意味づけのせいもある。
また、思想的な意味として読むと言うことは教養という側面からのみの読みを引き起こして
しまい、究極的に作家の思想を読むことへと繋がっていく。これには作品から作家へ
遡行するためのツールとしてのみ作品が読まれてしまうという弊害がある。
そのために、ミステリ板住人が言うような教養主義的な読みは、ある種の
権威の追従にしかならず、新たな側面を提示することができない。
その意味で、事前学習事前学習と繰り返すのはその作品の「価値」を、読むことで
得た感動にではなく、思想、教養としの「文学」という権威的な考えへの盲従
によって判断しているのだろう。言うまでもなくこれは倒錯的な思考回路である。
ミステリを一緒くたに読み捨てと呼ぶミステリ板住人の強圧的な物言いはその
権威への盲従に因っている。
67 :
吾輩は名無しである:03/03/23 13:26
まず、読むことから始めるべきであり、その後、作者を調べるなり当時の時代を
調べるなりは、それぞれの読者がやることであって、「事前学習」などという
ものを要求するのは理解できない。
何度も読み返しつつ、作品とつきあうことから始める方がいいと思うね。
ところでテクスト論的な読みというのを、作品にまつわることの調査なしにする
研究だとミステリ板住人は誤解しているかも知れないが、ある程度の読みを
するには、当然それらのことは調べるものだ。ある作家の作品について何事かを
言おうとするなら出来るだけ多くの作品を読むのは至極真っ当な手順であるように。
主題主義とテクスト論が異なるのは、小説を、作者に回収して意味づけるのか、
一端作者を切り離して作品だけから何が読みうるか、ということの違いではないか。
テクスト論における作者の死とは、神聖化された「作家」という記銘を一端除外して
作品を形づくる両端の内の一つ、読者の側からのテクストアプローチを行うという
ことだろう。書くのは作家だが、読むのは読者である、その両端を忘れた読書
行為など、片手落ちの所作に過ぎない。