Maurice Blanchot,L'ecriture du desastre

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501吾輩は名無しである
 わたしは物識りでもなく無知でもない。わたしはさまざまな歓びを知った。そ
れでは言い足りない。わたしは生きており、そしてこの生は、わたしになにより
も大きな喜びを与える。それでは、死はどうなのか? わたしが(おそらくは間
もなく)死ぬとき、わたしは測りしれぬ喜びを知るだろう。わたしがいうのは味
気なく、しばしば不快な死の前味のことではない。苦しむことは思考を鈍らせる。
しかしわたしが確信している著しい真実とは次のようなものだ、わたしは生きる
ことにかぎりない喜びを感じており、死ぬことにかぎりない満足を抱くであろう、
と。
502吾輩は名無しである:04/05/19 19:09
 わたしは彷徨った、あの場所この場所と渡りあるいた。居を定め、ただ一つの
部屋にすみついた。わたしは貧しかったが、やがてより豊かになり、やがてまた
多くの者よりも貧しくなった。子供のわたしはいくつもの大きな情熱をいだき、
そして望むものはのこらず手に入れていた。わたしの幼年期は消え去り、わたし
の青年期は旅の途次にある。そんなことはどうでもよい、在ったことがわたしに
は喜ばしく、在るものはわたしの気に入り、やって来るものはわたしにふさわし
い。
503吾輩は名無しである:04/05/19 19:10
 わたしの生存は、みんなのそれよりよいだろうか? そうかもしれない。わた
しには屋根があり、多くの人はそれをもたない。わたしは癩病やみではない、め
くらではない、わたしには世界が見える、なみはずれた幸福だ。わたしには見え
る、その圏外では世界が無にひとしいようなその白日が。だれがわたしからそれ
を奪えようか? そしてこの白日が消えるようならわたしもそれとともに消えるだろ
う。わたしを熱狂させる思考、確信だ。
504吾輩は名無しである:04/05/19 19:11
 わたしはさまざまの存在を愛し、それを失った。あの衝撃がわたしを襲った時、
わたしは狂人になった、なぜならそれは地獄だからだ。しかしわたしの狂気には
証人もないまま、わたしの惑いは顕われることなく、ただわたしの内奥のみが
狂気であった。時おりわたしは凶暴になった。ひとはわたしに言ったものだ、なぜ
あなたはそんなに落着いているのか? ところが、わたしは足から頭の先まで身
を灼いていた。夜には、わたしは街路を駆け、わたしは絶叫した。昼間は、わた
しは静かに仕事をした。
505吾輩は名無しである:04/05/19 19:12
 間もなく、世界の狂気が荒れすさんだ、他の多くの者と同様、わたしは処刑の
壁に立たされた。なんのために? なんのためでもない。銃は発射されなかった。
わたしは独語した。神よ、御身はなにをしているのか? わたしはそのとき無分
別であることをやめた。世界はためらい、次いでその均衡をとりもどした。
506吾輩は名無しである:04/05/19 19:13
 理性とともに、記憶がわたしに戻ってきた。そして最悪の日々に、わたしが完
全にあますところなく不幸だと信じている時でさえも、わたしはやはり、それも
ほとんどの時は、きわめて幸福であることがわかった。そのことがわたしに反省
するきっかけを与えた。その発見は愉快なものではなかった。わたしには自分が
多くのものを失ってゆくように思えた。わたしは問うた、わたしは悲しくはない
のか、わたしはわたしの生が裂けるのを感じたのではなかったか? そのとおり、
そういうことはあった。ところが、どんな時も、わたしが起きて街路を駆けてゆ
くときも、わたしが部屋の隅でじっと動かずにいるときも、夜のさわやかさ、地
面の落着きがわたしに息をつかせ、歓喜にいこわせるのだった。
507 :04/05/19 19:15
rom
508吾輩は名無しである:04/05/19 19:17
 人間たちは死を逃れたいと願う、奇妙な種属だ。そしてある者は生を逃れたい
がために、死ぬ、死ぬ、と声高に叫ぶ。「なんという生だ、わたしは自殺する、私は負
けた。」それはあわれむべき奇怪なことだ、それは誤りだ。
509吾輩は名無しである:04/05/19 19:18
 とはいえわたしは、生にむかっては決して、黙れ、とはいわず、死にむかって
は決して、立去れ、とはいったことのない存在にも出遭った。ほとんどの場合は
女たち、美しい被造物であった。男たちはといえば、恐怖が彼らを囲繞し、夜が
彼らをつらぬく。彼らはおのれの企図がほろぼされ、自らの営みが塵に帰するの
をみる、世界をつくろうと望んだこんなにも重要な彼らは茫然としたまま、すべ
てが崩れおちるのだ。
510吾輩は名無しである:04/05/19 19:19
 わたしはわたしの試煉を叙述することができるだろうか? わたしは歩くこと
もできず、呼吸することも、自らを養うこともできなかった。わたしの息は石で
あり、わたしの身体は水であったが、それにもかかわらずわたしは渇きで死にそ
うだった。ある日、ひとはわたしを地中に埋め、医師たちはわたしを泥でおおっ
た。この地の底にはなんという業があることか。大地を冷たいなどというのはだ
れだろう? それは火だ、それは茨のしげみだ。わたしはすっかり無感覚になっ
て起きあがった。わたしの触覚は二メートル離れたところをさまよっていた。ひ
とがわたしの部屋に入るとわたしは叫んだが、しかしナイフは静かにわたしを切
り刻むのだった。そうだ、わたしは骸骨になった。わたしの痩身は、夜になると
わたしの前に立ちはだかってわたしを脅かした。それはわたしを罵り、行きも
どるごとにわたしを疲れさせた。ああ、わたしはすっかり疲れていた。
511吾輩は名無しである:04/05/19 19:20
 わたしはエゴイストなのか? わたしはいく人かの者に対してしか感情をもた
ず、だれに対しても憐れみを感じないし、気に入られたいと願うこともめったに
なく、ひとがわたしの気に入ることを願うのもめったにないことだ。そしてわた
しはわたし自身に対してほぼ無感覚であって、そうした人々の裡においてしか苦
しむことはなく、その結果彼らのいかに些細な困惑もわたしにはかぎりない痛み
となるのだが、しかしなお、必要とあればわたしはすすんで彼らを犠牲にし、彼
らからあらゆる幸福な感情を奪いとってしまう(時にはわたしは彼らを殺すこと
もある)。
512吾輩は名無しである:04/05/19 19:20
rom
513吾輩は名無しである:04/05/19 19:27
 泥濘の墓穴から、わたしは成熟のたくましさを身につけて脱けだした。それ以
前のわたしはいったいなにものだったのだろう? 袋づめの水であるわたしは、
死んだひろがり、ねむっている深さであった。(とはいえわたしがなにものであ
るかを知っていた、わたしは持続していた、虚無におちこみはしなかった。)ひ
とは遠くからわたしに会いにきた。子供たちはわたしのかたわらで遊んでいた。
女たちはわたしに手をさしのべるために地上に横たわった。わたしにも青春はあ
った。しかし空虚がわたしをすっかり失望させたのだ。
514吾輩は名無しである:04/05/19 19:27
 わたしは臆病ではない、わたしはさまざまな打撃をうけてきた。だれか(逆上
したひとりの男)がわたしの手をとらえ、そこにナイフをつきたてた。なんとい
う出血。そのあとで、彼はふるえていた。彼はわたしに手をさしだして、テーブ
ルか扉にそれを刺しとめてもらいたがった。わたしにその深手を負わせたことで、
その男は、ひとりの狂人だったが、わたしの友になったと信じていた。彼は自分
の妻をわたしの腕のなかに押しつけた。彼は街路でわたしの後を追ってこう叫ん
だ、「おれは地獄堕ちだ、おれは不道徳な錯乱にもてあそばれているのだ、告解
を、告解を。」おかしな狂人だ。その間にも、わたしの一着きりの背広の上に血
がしたたりおちていた。
515吾輩は名無しである:04/05/19 19:33
 わたしは主に都市で生きていた。しばらくの間わたしは公の人間だった。法が
わたしを惹きつけ、わたしは大勢でいることが好きだった。わたしは他者の裡に
あって目だたなかった。無価値でありながら、わたしは至高者だった。しかしあ
る日、わたしは自分が孤独な人間たちをうつ石であることが厭になった。それを
ためそうとして、わたしはそっと法に呼びかけた。「近づくがよい、差しむかい
でお前がみえるように。」(わたしは、しばらくの間、法を傍につれだしたかった)。
不用意な呼びかけだ、もし法が答えたらいったいわたしはどうしただろうか?
516吾輩は名無しである:04/05/19 19:34
 告白しなければならないが、わたしは多くの本を読んだ。わたしが姿を消すと
き、いつの間にかこれらすべての書物は変わってしまい、余白はいっそう大きく
なり、思考はいっそう弛緩することだろう。そうだ、わたしはあまりにも多くの
人に話しかけてきたが、そのことが今日になってわたしを衝撃する。ひとりひと
りがわたしにとっては一つの民衆であった。この巨大な他者が、わたしがのぞん
だよりもはるかにわたしをわたし自身にしたのだ。今では、わたしの生存は驚く
ほどの堅固さをそなえている、死にいたる病でさえわたしを頑健そのものと見き
わめる。申訳ないことだが、しかしわたしはわたしより前に幾人かを埋葬しない
わけにはいかない。
517吾輩は名無しである:04/05/19 19:34
 わたしは悲惨におちいりはじめていた。悲惨はわたしの周囲にゆっくりといく
つもの輪をえがいてゆき、その第一の輪はわたしにすべてを残すように思われた
が、最後の輪はわたしにわたしだけしか残さぬはずだった。ある日、わたしは街
のなかに閉じこめられているのに気づいた。旅することはもはや夢物語にすぎな
かった。電話は答えるのをやめた。わたしの衣服はすりきれていた。わたしには
寒さがこたえた。春よ、早く。わたしは図書館にいった。わたしは一人の使用人
と親しくなり、彼がわたしを暖房のききすぎた地下室におろしてくれた。彼の役
にたとうと、わたしはちっぽけな足場の上を喜々として駆けまわっては彼に書物
を運んでゆき、次には彼がそれを陰気な読書の精神に渡すのだった。しかしその
精神はわたしに無愛想な言葉をなげつけた。彼のみている前でわたしはちいさく
なった、彼はあるがままのわたしの姿をみた、一匹の昆虫、悲惨の暗い領域から
きた大顎のついた虫として。わたしはなにものだったのか? その問に答えるこ
とはわたしを大きな屈託になげこんだことだろう。
518吾輩は名無しである:04/05/19 19:34
 外では、わたしは短い幻覚をみた。ほんの数歩先のところ、わたしが過ぎ去ろ
うとしている通りのちょうど角のところに、一台の乳母車とともに立止まっている
ひとりの女がいた。わたしは彼女があまりよくみえなかったが、彼女は門から中
に入れようとして車を操作していた。その時、わたしは近づいてくるのに気づか
なかったが、一人の男がその門から中に入った。彼はすでに閾をまたいでいたが、
その時後ずさる動作をしてまた外に出た。彼が門のわきに控えている間に、乳母
車は彼の前を通って、閾を越えるためにちょっと持ちあがり、次には若い女が、
頭をあげて彼をみたあとで、やはり姿を消した。
519吾輩は名無しである:04/05/19 19:35
 この短い後景が錯乱状態にまでわたしを興奮させた。なるほどわたしはそれを
完全には理解できなかったが、それでも確信していた。真の出来事につきあたっ
てしまったために、それからは白日がその終末にむかって急速に進んでゆく、そ
うした瞬間をわたしはとらえたのだ。さあやってくるぞ、とわたしは独語した、
終末がくるのだ、なにかが到来するのだ、終末がはじまるのだ。わたしは歓喜に
とらえられていた。
 わたしはその家にいったが、中には入らなかった。隙間から、中庭の暗いとっ
つきの部分がみえた。わたしは外の壁によりかかった、たしかにとても寒かった。
冷気が足から頭までわたしを包み、わたしはゆっくりと、わたしのとほうもない
身の丈がこの巨大な冷気の拡がりを帯びてゆくのを感じていた、わたしの身の丈
はその真の本性の権利のままに静かに立ちあがってゆき、わたしはこの幸福の歓
びと完成のなかにとどまっていた、一瞬のあいだ頭は空の石と同じくらい高く、
足は砕石舗道の上において。
520吾輩は名無しである:04/05/19 19:38
 これはすべて実際にあったことだ、そこに注意していただきたい。
521吾輩は名無しである:04/05/19 19:42
 わたしには敵はいなかった。わたしはだれにも邪魔されなかった。時としてわ
たしの頭のなかに広大な孤独が創られ、世界がそっくりその中に消滅してしまう
のだったが、しかしかすり傷ひとつない無疵の姿でそこから出てきて、そこには
なにひとつ欠けていなかった。だれかがわたしの眼の上にガラスを押しつぶした
ので、わたしは危うく視力を失うところだった。この衝撃はわたしをぐらつかせ
た、それは認めよう。わたしは壁のなかに入りこみ、火打ち石のしげみの中をさ
まようような気がした。一番悪いことは、突然の、おぞましい、白日の苛酷さだ
った。わたしは見ることも見ないこともできなかった、見ることは恐怖であり見
るのをやめることは額から咽喉までわたしをひき裂いた。そのうえわたしはハイ
エナの叫びがきこえ、それがわたしを野獣の脅威のもとにおいた(その叫びは、
きっとわたしの叫びだったろうと思う)。
522吾輩は名無しである:04/05/19 19:43
 ガラスがとり除かれると、ひとは瞼の内側に一枚の薄膜を、瞼の上には綿の防
壁をすべりこませた。わたしは話をしてはいけなかった、というのは話すと包帯
の留金がひきつれるからだった。「あなたは眠っていましたよ。」と後になって医
師がいった。わたしが眠っていたと! わたしは七つの日の光に耐えなければな
らなかったのだ、みごとな灼熱の火! そうだ、ひとまとめになった七つの日、
ただ一瞬の強烈さとなった七つの大光明がわたしに決着をせまっていたのだ。だ
れがそんなことを想像しただろう? 時おりわたしは独語した、「これは死だ。
なにはともあれ、それだけの価値はある、鮮やかなものだ。」だがしばしばわたし
はなにも言わずに死にかけた。しまいにわたしは、白日の狂気を直視しているの
だと確信した。ありようはこうだった。光は狂ったようになり、明るさはいっさ
いの良識を失っていた、それは不条理に、規則もなく目的もなしにわたしを襲う
のだった。この発見はわたしの生を通じての噛み傷だった。
523吾輩は名無しである:04/05/19 19:44
 わたしは眠っていた! 目覚めた時、わたしはひとりの男がこうたずねるのを
聞かなくてはならなかった、「告訴なさいますか?」直接に白日とかかわりをもっ
たばかりの者に向けるにしては、奇妙な質問ではないか。
 回復してさえも、わたしは回復したことを疑っていた。わたしは読むことも書
くこともできなかった。わたしは霧ふかい北国にとりまかれていた。しかし奇妙
なのは次のことだった。おそろしい接触を思い出しながらもわたしはカーテンと
サングラスの背後で生きることに憔悴していたのだ。わたしはあますことのない
白日のもとになにかをみたかった、わたしは薄くらがりの快適さ安楽さにうんざ
りしていた、わたしは白日に対して水や空気を求めるような願望を抱いた。そし
てもし見ることが火であるとすれば、わたしは火の充溢をもとめ、もし見ること
が狂気の感染であるならばわたしは狂ったようにその狂気を希った。
524吾輩は名無しである:04/05/19 19:44
 施設のなかで、ひとはわたしにささやかな地位を与えた。わたしは電話に答え
るのだった。医者は分析検査室をもっており(彼は血液に関心をもっていた)、
人々は中に入っては薬品を飲み、小さなベッドに横たわって眠りこんだ。彼らの
一人はみごとな策略を用いた、正式の品をのみこんだあとで、彼は毒をふくんで
昏睡におちいったのだ。医師はそれを卑劣な行為と呼んだ。医師は彼を蘇生させ、
この詐りの眠りを「告訴した」のだった! またか! この病人は、わたしは思
うのだが、もっとよい扱いをうける資格があった。
525吾輩は名無しである:04/05/19 19:48
 視力はわずかに減少したにすぎなかったが、わたしはしっかりと壁につかまっ
て蟹のように街路を歩いた、そして壁をはなすとたちまち、わたしの足どりのま
わりはめまいとなった。そうした壁に、わたしはしばしば同じポスターをみた。
控えめなポスターだが、かなり大きな文字で「きみもまた、それを望んでいる」
とあった。たしかにわたしはそれを望んでいた、そしてこれらの重大な語に出遭
うたびに、わたしはそれを望んだ。
526吾輩は名無しである:04/05/19 19:49
 しかしながら、わたしの裡のなにかが、かなり早く望むことをやめていった。
読むことはわたしには大きな疲労だった。読むことは話すことと同様にわたしを
疲れさせ、そしてわずかでも実際に話をすることはわたしに欠けているなんらか
の力を要求した。ひとはわたしに言った、あなたはあなたの障害に自己満足をま
じえていると。この言葉はわたしを驚かせた。二十歳で同じ条件にあったなら、
だれもわたしに注目しなかったことだろう。四十歳となると、いささか貧しいわ
たしは悲惨になるのだった。それにあの嘆かわしい外観はどこからやってきたの
か? わたしの意見では、わたしはそれを街なかで身につけたのだ。街路は本来
そうすべきであったようにわたしを豊かにしてはくれなかった。反対に、歩道を
たどり、地下鉄の明るさの中にもぐりこみ、都市が壮麗に煌いているみごとな大
通りを通るうちに、わたしは極度に生気なくつつましくくたびれてゆき、ひいて
は、無名の荒廃の配分をあまりにもたっぷりと集めながら、その配分がわたしに
みあったものでなく、それがわたしをいささか曖昧で不定形なものにしているだ
けに、いっそうわたしは人々の視線をひきつけるのだった。そのためにこの荒廃
がわざとらしいこれみよがしなものにみえるのだった。悲惨には、ひとにそれが
みえてしまい、それをみる者が、自分は責められている、いったいだれが自分を
攻撃しているのか? と考えてしまうという困った点がある。ところが、わたし
はわたしの衣服の上に正義をまとうなど毫も願っていなかったのだ。
527吾輩は名無しである:04/05/19 19:56
 ひとはわたしに言った(時には医師、時には看護婦たちが)、あなたは教養が
あり、あなたはさまざまな能力をもっている、それを欠いている十人のひとの間
で配分されるなら彼らが生きてゆくことも可能であるような才覚を使わずにおく
ことによって、あなたは彼らから彼らのもたぬものを奪いとっているのだし、避
けることもできるはずのあなたの窮乏は彼らの欲求に対する侮辱なのだ、と。わ
たしはたずねた、なぜそんな説教をするのか? わたしが盗んでいるのはわたし
の場所なのか? わたしからそれを取りもどすがよい。わたしは自分が不当な思
考と悪意ある論法にとりまかれているのをみた。それに、ひとはわたしに対して
だれを押したててきたのか? だれひとりとしてその証しをもたず、わたし自身
むなしく捜しているひとつの眼にみえない知を。わたしには教養があると! し
かしたぶんわたしはいつも教養があるわけではなかった。能力がある? いった
いどこにあるというのか、まるで法服をきて板の上に坐り昼も夜もわたしに罪の
宣告を下そうと身構えている裁判官のように、ひとが語らせるあの能力というの
は?
528吾輩は名無しである:04/05/19 19:58
 わたしは医師たちがわりあい好きだった、わたしは彼らの疑いによっておとし
められているとは感じなかった。困るのは、彼らの権威が刻一刻と増大していっ
たことだ。ひとは気づかないが、彼らは王なのだ。わたしの部屋をあけて、彼ら
は言うのだった、そこにあるものはすべてわれわれに属する、と。彼らはわたし
の思考の断片にとびかかった、これはわれわれのものだ。彼らはわたしの身の上
話を糾問した、話したまえ。するとわたしの話は彼らに奉仕しはじめるのだった。
大急ぎでわたしはわたし自身を脱ぎすてていった。わたしは彼らにわたしの血、
わたしの内奥をくばり、わたしは彼らに宇宙を借しあたえ、わたしは彼らに日を
与えた。なにごとにも驚かぬ彼らの眼の前で、わたしは一しずくの水、インクの
しみとなった。わたしは彼ら自身に還元され、彼らの視野のもとにそっくりさし
だされて、ついにはもう現存するのはわたしの完全な無の姿だけとなりもはやみ
るべきものもなにひとつなくなって、彼らがわたしを見ることさえやめてしまう
と、ひどく苛立って、彼らは立ちあがってはこう叫ぶのだった、さあ、きみはど
こにいるんだ? きみはどこに隠れているんだ? 隠れることは禁じられている、
それは過ちだ、云々。
529吾輩は名無しである:04/05/19 20:03
 彼らの背のむこうに、わたしは法のシルエットをみとめた。厳格で不愉快な、
ひとの知っている法ではなく、その法は別だった。その威嚇のもとに倒れ伏すど
ころか、どうやらわたしの方が法をおびやかしていた。法のいうところを信ずる
なら、わたしの視線は雷であり、わたしの両手はほろびる契機であった。そのう
え、彼女は滑稽にもあらゆる権力をわたしに帰属させ、たえず自分がわたしに服
従する立場にあると告げた。ところが、彼女はなにひとつとしてわたしにたずね
ることを許さなかったし、彼女がわたしにあらゆるところにゆく権利を認めた場
合、それはわたしがどこにも場所をもたないということを意味していた。彼女が
わたしをもろもろの権威より上におく時、それはこういう意味だった、あなたは
なにごとをする権利ももたないと。もし彼女がへりくだる場合は、あなたはわた
しを尊重しない、ということだった。
530吾輩は名無しである:04/05/19 20:03
 彼女の目的のひとつは、わたしに「正しく評価」をさせることだとわたしは知
っていた。彼女はわたしに言った、「今では、おまえは別格の存在だ、だれひと
りとしておまえに対してはなにもできない。おまえは話すことができる、おまえ
を拘束するものはなにもない、説教はもはやおまえを縛りはしない、おまえの行
為はどんな結果にもつながらない。おまえはわたしを足で踏みつけるがよい、ほ
ら、これでわたしは永久におまえの召使女ではないか。」召使女? わたしは絶
対にそんなものは欲しくなかった。
531吾輩は名無しである:04/05/19 20:05
 彼女はわたしに言った、「おまえは正義を愛する。――ええ、そう思われます。
――なぜおまえは、これほど際立ったおまえという人間の裡で正義を侵犯させて
おくのか? ――しかしわたしという人間はわたしにとって際立ったものではあ
りません。――もし正義がおまえの裡で弱まるならば、それは他人たちの中でも
弱くなって彼らはそれに苦しむことだろう。――だがこの件は正義には関わりの
ないことだ。――すべてが正義に関わりをもつのだ。しかしあなたも言った
ではないか、おまえは別格だと。――もしおまえが行為するなら別格だが、おま
えがもし他人たちが行為するのにまかせておくなら決してそうではない。」
532吾輩は名無しである:04/05/19 20:05
 彼女はとうとう愚劣な言葉を発するまでになった、「ありようは、わたしたち
はもはや別れることができないということだ。わたしはいたるところおまえを追
ってゆき、わたしはおまえの屋根の下で生きるだろう、わたしたちは同じ眠りを
もつだろう。」
533吾輩は名無しである:04/05/19 20:11
 わたしはおとなしく閉じこめられることを承知したのだった。しばらくの間、
とひとはわたしに言った。よりしい、しばらくの間なら。屋外の時間のあいだ、
もう一人の住人である白い鬚の老人がわたしの肩にとびのり、わたしの頭上で大
きな身振りをした。わたしは彼にいった、「きみはトルストイかね?」医師はそ
のためにわたしをすっかり狂人だとみなしていた。しまいにわたしは全員を背に
負ってつれあるいた、しっかりと絡みあった者たちのかたまり、支配しようとい
うむなしい願望によって、不幸な稚気によってそんな高みに惹きよせられた壮年
の男たちの集団を。そしてわたしが崩れおちると(なぜなら、なんといってもわ
たしは馬ではなかったから)、同じくころげ落ちたわたしの仲間たちの多数は、
わたしをさんざん打ちすえた。それは楽しい折々だった。
534吾輩は名無しである:04/05/19 20:14
 法はわたしの振舞いをきつく批判した 「むかしは、わたしはまったく異ったあ
なたを知っていたのに。――まったく異った? ――ひとはあなたを馬鹿にして
無事に済むことはなかった。あなたに会うのは生命に価することだった。あなた
を愛することは死を意味していた。人間たちは墓穴を掘っては、あなたの姿を逃
れようともぐりこんだ。彼らはたがいに言いあった、彼は通りすぎたか? われ
われを隠してくれる大地に祝福あれ、と。――ひとはそれほどわたしをおそれて
いたのか? ――おそれだけではあなたには足りなかった、心の底からの讃辞も、
まっとうな生も、塵埃の中でのへりくだりも。そしてとりわけ、わたしに問いか
けるな。だれがあえてわたしのことまで考えたりするのか?」
535吾輩は名無しである:04/05/19 20:14
 彼女は異様に激していた。彼女はわたしをほめあげたが、それはわたしに続い
て高みにのぼるためだった、「あなたは饑饉だ、葛藤だ、殺人だ、破壊だ。――な
ぜそのようなものなのか? ――わたしが葛藤と殺人と終末の天使だからだ。
――なるほど、とわたしは彼女にいった、わたしたちを二人とも閉じこめるのに、
充分以上、ありすぎるほどではないか。」ありようは、彼女がわたしの気にいっ
ていたということだ。彼女は男たちが密集しすぎたこの環境にあって、唯一の女
性的な要素だった。彼女は一度わたしに膝をさわらせたことがあった、奇妙な印
象だった。わたしは彼女にそう告げていた、わたしは膝だけで満足するような男
ではない、と。彼女の答えは、そんなことをしたら不愉快でしょう!
536吾輩は名無しである:04/05/19 20:16
 彼女のたわむれの一つは次のようなものだった。彼女は窓の上部と天井のあい
だの空間の一部分をわたしに示した、「あなたはそこにいる」と彼女はいった。
わたしはその点を凝っと見つめた。「あなたはそこにいますか?」わたしは力の
かぎりそこを見つめた。「さあ、どう?」わたしはわたしの視線の瘢痕がはじけ
るのを感じ、わたしの視力は創傷となり、わたしの頭は穴となって、腹をえぐら
れた牡牛さながらであった。だしぬけに、彼女は叫んだ、「ああ、白日がみえる、
ああ神よ」云々。わたしはこの遊びがとほうもなくわたしを疲れさせると抗議し
たが、しかし彼女はわたしの名誉を求めて飽くことがなかった。
537吾輩は名無しである:04/05/19 20:16
 あなたの顔にガラスを投げつけたのはだれなのか? この質問はあらゆる質問
のなかでたちもどってくるのだった。ひとはもはや直接にそれを問うことはなか
ったが、それはあらゆる道が通じている交差路であった。わたしの答えがなにひ
とつあばきだてはしないだろうとひとはわたしに指摘した、なぜならずっと以前
からあばかれているのだから。「ではなおさら話すまでもないでしょう。
――いいですか、あなたは教養がある、沈黙が注意を惹くことはあなたも知ると
おりだ。あなたの無言はこの上もない不合理な仕方であなたをあばき出すのだ。」
わたしは彼らに答えた、「だがわたしの沈黙は真実だ。もしそれをわたしが隠し
ても、あなた方はすこし先にまたそれを見出すだろう。もしそれがわたしを暴露
するなら、あなた方には幸いなこと、あなた方の役にたつのだし、あなた方が仕
えていると称しているわたしにとっても幸いなことだ。」そこで最後まで目的を
達するには、彼らにはあらゆる手段をつくすことが必要だった。
538吾輩は名無しである:04/05/19 20:19
 わたしは彼らの探求に興味をひかれていた。われわれのだれもがいわば仮面を
つけた狩猟者だった。だれが問われていたのか? だれが答えていたのか? 一
方が他方になりかわった。言葉がひとりでに語っていた。沈黙は恰好なかくれが
である言葉のなかに入っていった、というのはわたしのほかにだれもそのことに
気づいていなかった。
539吾輩は名無しである:04/05/19 20:31
 ひとはわたしにたずねていた、いったい「正確なところ」事はどんなふうにし
て起ったのかわれわれに話して下さい。――物語? わたしははじめた。わたし
は物識りでもなく、無知でもない。わたしはさまざまな歓びを知った。それでは
言い足りない。わたしは彼らに話をそっくり語り、彼らはそれを、どうやらわた
しの見るところ少くともはじめのうちは関心をもって聴いていた。しかし結末は
われわれにとって共通の驚きであった。「その発端のあとは」と彼らは言うのだ
った、「事実の方に話を進めてもらいたい。」なんということか? 物語は終って
いたのだ。
540吾輩は名無しである:04/05/19 20:33
 わたしはこうした出来事をもってひとつの物語をつくりあげる能力のないこと
を認めなければならなかった。わたしは話の首尾の感覚を失っており、それは多
くの病において起ることだ。だがその説明は彼らをいよいよ要求きびしくさせた
だけだった。わたしはその時はじめて気づいたのだが、彼らは二人であり、伝統
的方法に対するこの侵害は、一人の視力の技術者でもう一人が精神病の専門家で
あるという事実から説明がつくとはいうものの、われわれの会話に厳格な規則に
よって監視され統御された権威的な訊問の性格を常にあたえていた。なるほどふ
たりのどちらも警視ではなかった。しかし、二人である以上、そのことによって
彼らは三人であって、そしてこの三人目は、わたしは確信しているが、一人の作
家、明晰に語り推論する男とは、かならず記憶している事実を物語る能力をそな
えていると固く信じこんでいるのだった。
541吾輩は名無しである:04/05/19 20:35
 物語? いや、物語はなしだ、もう二度と決して。