そろそろマルロー再評価でしょ。
遺跡盗掘の行動的ニヒリズムからスペイン人民戦線へ
20世紀初頭を駆け抜けた最後の英雄について
語りましょう!!!
2 :
吾輩は名無しである:02/12/05 20:49
nazenihonnokeijibandeyaruno?
>2
一応日本のマルローこと石原慎太郎もいることだし・・・
政治と文学って視点もいま再評価すべきじゃないの?
何だっけ、『王道』の中で、行動の動機が欠如している事実そのもの
こそが、今行動するための動機となっている、みたいな表現あったよね。
あれ、高校のときに読んで痺れたなぁ…でも、こないだ読み直したとき
にはそれほどでもなかった(成長したのか、すれただけなのか^^;)
5 :
吾輩は名無しである:02/12/05 22:01
>ixion
祖父も親父も自殺してるのかなマルローは
その辺が彼のニヒリズムの出発点の気がする。
近親者の自殺は影響が大きいから。
『希望』はどうよ。
マルローがまだ共産主義を信じていたころの話だからねえ。
ニヒリズムを基調とした連帯が描かれていて
乾いているけど心に深く突き刺さるよ。
ヘミングウェイも出てくるし。
4番の人、読書量と分析力、センスのみならず、機動力もすごいわw。
「へえ、こんな新スレが…」と思うスレには、すでに必ず来ていて
確実なレスをつけている。世の中には、こういう人がいるのだね。
ハンドル名がまた、いい。
『王道』は、冒険小説と言われながら、冒険が頓挫したのちの、若い男と
年老いた男の行動や思想をテンション高く描いていて、それがラストまで
持続し切っているのがいいなあと思った。しかし、「地獄の黙示録」の
原作であるコンラッド『闇の奥』と何か混ざり合ってしまっている。
『王道』の方がエロスの要素強く、エロス−タナトゥスへのカタルシスが
発散できたような覚えが。
7 :
吾輩は名無しである:02/12/05 22:32
日本人にとっては、モナ・リザを連れてきてくれた
文化相としての実績の方が、きっと大きい。
マルローは、革命を扱っていても自分の内面に入り込まざるを得ない作家で、
だからこそ対話(内面のものも含む)が非常に抽象化される。例えば
『人間の条件』(だったと思うけど、違ってたらごめん^^;)で、死は激しい
行動になりうる、みたいな「発見」をする場面があるけれども、こういう
抽象化された思想で死を捉えることと、(『王道』の最後の場面のような)
実際の死とは全く違う。
こないだマルローを読んでいて、どうも以前ほど馴染めないなぁ、と思った
のは、マルロー自身が、例えば日本の戦後派がそうであったように、現実を
抽象化することによって、逆に作品としては現実を捉えきれていないんじゃ
ないか、ってな疑問を持ったからなんだよね。マルローは、書くことと行動
することの「はざま」にあった人で、その両者を「合一」させた作家では
ないように思えた。
これは意見が異なると思うから、反論キボン。
確かに『闇の奥』とごっちゃになるね^^;<『王道』
10 :
征服者=3=5:02/12/06 02:45
>ixion
『王道』は確かに死に対して抽象的であるし
死に対してなかなかナルシスティックでるということで
単なる冒険小説とも読めなくともない。
でも『希望』まで行くと死を前提としたときの
行動倫理みたいな話が主題になってくると思うんだ。
大勢の反ファシスト闘士の死をモンタージュのように
対置させ行くとき『王道』にあった死へのナルシシズムが
みごとに昇華されて死が人間の尊厳を鍛えなおす可能性として見出されている。
マニャンの属する国際飛行義勇隊、がそこに属する人間たちよりも
気高いものになっていく過程は僕はリアルだと思った。
革命における死が人間性の変革をもたらす現実は、マルローが行動したから
得られたんじゃないかな。
決して観念に傾いているとは思えないけれど。
そもそも『希望』はルポタージュも大いに含んで創作されているのだから。
実は僕は『人間の条件』『征服者』読んでいないもんでちゃんと読んでから
掲示板に参加します。偉そうなこと言ってすんません。
>例えば日本の戦後派がそうであったように、現実を抽象化することに
>よって、逆に作品としては現実を捉えきれていないんじゃないか
「大胆」という一言も付け加えたくなるw。
戦後派ったって、大岡昇平や野間宏からアバン・ギャルドな安部公房、浪漫派・復古主義のミシマもいる。ひとっ括り? だが、抽象的である歯痒さを、
マルローと戦後派の共通点として捉えるのはわかるし、面白いなあと思う。
戦後派は、政治とコミットした「新日本文学」的姿勢と違って、人間を描く
こと、それも私小説と訣別してそれを行うことを意図したから、「反イデオ
ロギー」意識において観念的なところが出てこざるを得ない(これも大胆)。
だから、書くことへの内的衝動に突き動かされ、かろうじて、あるいは
軽やかな乗りでコントロールしながら作品に仕上げる――というスタイルの
作家たち(ixion氏の好み?)と異なる。
観念的であり読み手に圧をかけてくる点では、「新日本」の人たちと共通して
しまう気が私にはする。作家だけでなく、本多秋五、平野謙、福田恒存、
花田清輝など評論家陣も一枚岩の鉄壁だったのだろうし。
で、「反イデオロギー」となると、マルクス主義のように社会との相対で
人間を見つめるのを避けるので、おのずから「極限状況における人間のあり
方」のようなところで、孤独、苦悩、根源悪、神(お天道さまでもいい)との
問題など追究して、内面へどんどん入っていくわけか。
現実を捉えきれていないのではなく(私たちがそう思うのは当然だが)、
姿勢として現実を「しかと」していたんでしょ。それが幸いに、特殊時代的
文学でない分、時代を超えた普遍性という特徴につながっていった?
で、肝心のマルロー。私もちゃんと読んでないが、彼の観念性は、フランス人
に普遍的な「義賊」とか「レジスタンス」とかのヒロイズムに支えられている
印象がある。どうなのでしょう? このヒロイズムが、征服者さんが言うナル
シシズムや尊厳の意識に結びつき、書くことと行動することの「はざま」に
揺れるマルロー像となる――これは、読んで確認するのにいいテーマかも。
>でも『希望』まで行くと死を前提としたときの
>行動倫理みたいな話が主題になってくると思うんだ。
>大勢の反ファシスト闘士の死をモンタージュのように
>対置させ行くとき『王道』にあった死へのナルシシズムが
>みごとに昇華されて死が人間の尊厳を鍛えなおす可能性として見出されている。
なるほど、そうかもしれないなぁ。「行動」によってでしか捉え返すことが
できない「死」のありかたか…。『人間の条件』の最後で「死」について
ずいぶん抽象化して語る場面があったから、そのイメージが強いのかもしれない。
死は単に変化ではなく、ひとつの変貌(メタモルフォーゼ)である、みたいな
ものとか、死ではなく生を、とか、そういう部分が抽象的であり、昔の俺が
「いいなぁ」と思った部分だったんだよね。全然違うかもしれないけど、その
時期に読んでいた椎名麟三とか野間宏などにも同じ「におい」を嗅ぎとってた
んだよね。『希望』を今読み返すと、多分違う見方ができるのかもしれない。
>実は僕は『人間の条件』『征服者』読んでいないもんでちゃんと読んでから
>掲示板に参加します。偉そうなこと言ってすんません。
いえいえ、もっといろいろ話し合いましょう。俺も具体的にもう少し作品
読み直してみます。
僕は戦後派の作家には疎いから読んだ限りの戦後派の
作家の作品を引き合いに出すしかないのだけれど、
戦後派は「転向」の問題を避けて通れないわけだと思うんです。
マルローの作品には僕の読んだ限りでは「転向」の問題がないから
戦後派のような現実の抽象化って言うのはないんじゃないかな。
現実が抽象化されていくのは革命に挫折したからだというのが
おおむね柄谷行人が埴谷雄高の『死霊』を批判するときの要諦だと思うんです。
永久革命を唱えて内面的になるということです。(別に柄谷信者ではないです。念のため)
とりあえず『王道』は舞台がカンボジアであるだけでも内面とは無縁かな。
冒険という行動が文学を内面からかなり救っている気がします。
でも、その辺はすぐに答えも出せないんですけど。
でも、椎名や埴谷などの戦後派がドストエフスキーにすぐに飛びつくのはなんででしょう。
マルローじゃあ近すぎるんでしょうか?
やっぱりドストエフスキーより彼らには難解なのかな。
それともうしろめたくなるのかな。きちんと戦えなかった自分たちに。
>征服者さん
1の軽いノリでは、まるでぴんとこなかったあなたの問題意識が、13のレスで
かなり輪郭が見えてきた気がして、非常に刺激されました。読みながら考えて
いく上で、さしつかなければ、あなたのスタンスを確認できればと思うのです
が…。よかったら教えてください。
「マルロー再評価」と述べる真意は、作家というものが、もっと思想的、
政治的に現実の社会で発言したり、行動すべきだという考えなのでしょうか。
それは、文学で社会をリードせよという意味ではなく、行動することで
文学に新たな実りを期待するために…という意味なのですが。
政治や思想というより、むしろ「歴史」へ関与しようというマルローの積極的
姿勢(私はこれをヒロイズムと表現したつもり)は、その過程を経て初めて、彼が第一義としなかったかもしれない文学に、行動しなかった作家によっては
もたらされなかった豊饒や、堂々たる自由の高揚感(それが本来の人間らしさかも)をもたらしたのかもしれない。その仮定に立って、年代を追って
彼の変化を確かめることは意義あることだと思えました。
マルローの歴史への関与と作品は、戦前の日本の共産党の文芸政策に代表され
る政治と文学の関係とは異なっているし、政治色を排することで観念的になら
ざるを得なかったと言える戦後派たちの不自然さとも異なる。つまり、その
双方に共通する政治と文学のあり方の不幸な結果でなく、政治と文学の幸せな
結婚だったのかもしれないというのが、あなたの推論でしょうか。[つづく]
確かに「転向」というのは、近代日本思想を論じる上で避けて通れない問題。
この特徴的主題にねばり強く取り組んで一つの思想体系を作り出したから、
埴谷雄高は近代日本の代表的思想家だと鶴見俊輔は述べていますね。
しかし、豊多摩刑務所における埴谷氏にとっての所謂「転向」は、単なる
イデオロギーの切替ではなく、政治から哲学へ、社会科学から文学への関心の
変化であったとも鶴見氏は説明しています。埴谷氏自身もまた「転向」とは
的を射た表現ではないとコメントしていたようです。
エリオットを読んだ埴谷氏が読書が人間の感性を変えることを認識し、人間の
あり方を底から変えるのは生活体験や政治的実践だけでないと悟った。
さらに刑務所では、ヘーゲル〜マルクス〜レーニンと連なる止揚の段階の
前にあったカントの哲学に目覚めたわけです。理性が解けない問題を次々に
理性がつくりだしてしまう先験的弁証法というやつです。で、この理性の
働きをライフ・ワークとして書こうと選んだのが、埴谷氏にとっての「転向」
の意味だというようなことを、鶴見氏は言っています。
そんな埴谷氏をはじめとして、戦後派の作家たちがマルローよりもドスに
惹かれたのは、やはりその作品の方がより観念的だったからという仮定が
できます。それは、「可能性の文学」でなく「不可能性の文学」だと埴谷が
言っている――と、これは身近な人間にさっき知恵をつけられたのですが、
確かにその言葉がありました。「きちんと戦えなかった」という非難も確かに
ある意味当たっているのかもしれない。
しかし、ここからはおそらく嗜好の問題。たとえが卑俗ですが、「今夜の
ごはんはカレーよ」と言われるのと、「今夜のごはんはチキンカレーで、
なすやトマトも入れたわ」と言われるのとどちらが好きか。「そこには木が
そびえ立っていた」と書かれるのと、「そこにはヒマラヤ杉が裾を広げて
そびえ立っていた」と書かれるのと、どちらが好きか。観念小説か、否か…の
選択です。想像力にどれだけ重きを置くか、どれだけかき立てるか、その
想像力と内面のリアリティをどう捉えどう表現するか。可能性ではなく、
不可能性を描くことへの挑戦。
行動がもたらす文学の豊饒と、思弁がもたらす文学の豊饒の両者を自由に
読んで論じる悦びが、私たちの前に広がります。むろん、読書によって
感性を変えられることを期待しながら。
もうひとつ、マルローからズレますが――
本多秋五の著書から荒正人の論文を孫引きすると――
ドストエフスキーはある事件に連座して死刑の宣告を受けながら、死刑執行の
寸前に死一等を減じられたという異常な体験があって、荒氏はそれに「絶望に
も似た羨望」を感じたそうです。彼の天才より、千万人にひとりもめぐり
あうことのない異常な人生体験に対する羨ましさ…を。
その告白をしたあとで、荒氏は、「わたしたちがこんどの敗戦で知った
ところのものは、かの偉大な19世紀ロシヤ作家のそれに比して、いささかたり
とも劣るものではなかった」
それを受けて、本多は「過去の一切のものが土崩瓦解した虚無の日でも
あったが、万物すべてがこれからつくられる創造の第一日でもあった」
と記しています。
虚無への共感がドストエフスキーに向かわせ、あらゆる社会にいる永久
革命者、つまり無階級社会のビジョンと現在の生活態度が一致している
はずのものへの道を選びとらせたのでしょうか。マルローのような
具体的事件としての革命の方へではなく…。
僕がマルローを読んだときに感じる高揚感を
ドストエフスキーは感じさせないんですね。
マルローとドストエフスキーの対立というよりは
『希望』と『悪霊』の対比になってしまうんですけれど。
なぜかというとマルローの作品の主人公たちが革命へと深く傾倒してゆくのに対し
『悪霊』が、その徹底的なポリフォニックな性格ゆえ
革命が主題としての求心力を持たないんですね。
『悪霊』の登場人物たちが「革命」をすでに相対化するために登場しています。
戦後派って言うのはもろ拡散していった人たちで、
マダムBさんもおっしゃる通り大岡、野間から三島、安倍、あるいは武田、埴谷と
拡散しまくっているわけです。現在にいたっては拡散から希薄といった具合です。
戦後文学の状況がまさにドストエフスキー作品のように
ポリフォニックであるために
ドストエフスキー信仰が戦後も根強いのではないかと思います。
僕は『死霊』を読んでいないので(不勉強ゆえご勘弁を・・・)
たとえば武田泰淳の『富士』をあげるしかないのですが、
あの本を読むのが辛いんです。高揚感がないのです。
求心力がないから、個々の登場人物の性格付けに意匠に凝らしても
作家が想像力に鞭打って呻吟しながら筆をとっているのが
なんとなくわかってしまうんです。
それがわかるだけでも、武田泰淳の偉大さなのでしょうが、
それで一抹の寂しさを禁じえないといったところです。
逆に大江のほうがうまく高揚感を作品に表せる作家だと思います。
別に僕は天皇を作品の主題にすることで活性化するとは、思っていないんですけれど、
何らかの政治的状況が絡まないといま、小説が書けないんじゃないかなと思います。
作家自身が高揚しないのにものが書けるわけないんじゃないかと
結構真剣に思ったりしているのです。
マルローを掲示板の主題にすることでその辺ことでもう少しいろいろな人の
意見を聞きたいなと思っています。
戦後派の問題、あるいは戦前の問題(小林、中野なんかの話)で寄り道しながら
勉強しながら細く長くレスしていきたいのでよろしくお手合わせ願います。
で、僕はマルローが国際飛行義勇隊を組織したことが彼の
行動としてもっとも政治的だと思うんです。
所属することで見える様々な人間性、これが彼の作品を豊かにした
最高の源泉なのだと思います。
そういう源泉を与えてくれるのは政治しかないわけで、
作家の政治的発言が文学に資するとは思わないのです。
残念ながら石原慎太郎にはその視点がないから、政治的であっても
なかなか作品に反映されない。
彼のガンコさみたいのがなんだか作品の幅を狭めている気がします。
うーん、別に無理して日本にひきつけて語る必要はないと思うんだが、
どうでしょう?妙に観念的な論になってきてるし、マルローの実作から
離れてるような^^;
で、前出の「死と尊厳の捉え返し」って話ですが、『王道』では
《僕は、僕の死の瞬間に自分自身を賭けるような気がする》
という、サルトル風に言うと「頭を切り取られた」死への自らの投機と、
「死は彼を囲んで震える大気のように地平線まで広がっていた。彼の人生
に意味を与えるものは永久にないだろう、彼を太陽の餌食にするこの高揚
までも。地上には人間たちがあり、彼らは自己の情熱、苦痛、存在を信じて
いる ―― 葉陰の虫、死の丸天井の下にうじゃうじゃとうごめく虫だ。」
という、死に圧せられながらも敗北を認めないなまめかしい「生」という
人間のあり方を認めている。ここからさらにマルローの「行動」への傾向が
読み取れるわけで、死への投機という極限的な行動から、生を捉えなおす
「生・死・行動」に関する考えは、『人間の条件』やおそらく他の作品でも
意識表明のように現れている:
《みんな、ものを考えるから苦しくなるのだ。結局、人間の精神は、人間を
永遠の世界においてしか考えない。ところが、生の意識は、苦悩でしか
ありえない。精神でもって生を考えてはならぬ》
『征服者』のガリンや『王道』のベルケン、『人間の条件』の清などは、
こうした「生・死・行動」を体現しているように思えるからこそ、ある種
の「高揚感」を感じさせてくれるのでないか。たとえそれが「頭を切り取ら
れた」ものであったとしても。
観念から解き放たれた「行動の革命者像」を求めてマルローに当たる
ための確認のつもりだったが、確かに余分なことばかりいっぱい書き
すぎてしまい、反省。
でもきっと、いつものようにぼーっと弛緩して読み始めるより、
たまには何かを想定して読むのもいいかも…と、自分としては納得。
私が少しかすったエロスや死へのカタルシスが、おふたりの述べている
「高揚感」だったのだろうという感じもしてきたし…。観念の散歩は、
そう捨てたものでもない。
次元は違うけれど、私はよく蓮実重彦邸の前を過ぎてジョギングしたり、
テニスやサッカーをプレーして遊ぶ(村上龍じゃないが)ので、精神的な
ことでなく行為行動からもたらされるハイな状態というのは、よく分かる
つもりでいる。息をぜいぜいいわせていると、「死」を案外身近に感じ
られるときがある。
精神でだけ生を考えるのは危険かもしれない。苦しくなるのかもしれない。
だが、精神で生を考えることを避けるのもどうかと思う。行動だけでは
希薄ではないだろうか。観念で苦しむことに挑まずして、その先の行動に
ビジョンは持てないのでは?
マルローの意識表明が、観念を超克したところの行動重視であることを
期待する。
読んで書いて考える、そして行動する…のが基本ではないだろうか。
決してマルローのように政治的、歴史的な生でなくとも、倦怠し停滞した
社会に居合わせたこと、行動を求められない社会に居合わせたことも
受難ではあり、意識的に生きるか否かのテストであると言える。
まあ、偉そうに書いても、ボランティアするぐらいしかないんだけどね、
選択はw。それすら思い通りの身の投機はできない。
マルロー、埴谷、ドスにおける革命の意味を論評すると、論文がひとつ
書けるのではないだろうか。誰かやっているのかな?
なかなか面白いカキコが多いとはいえ、マルローの実作から離れてるという
のもあるが、戦後のマルローを無視しすぎてないか。マルローは工房以来あまり
好きでなかったので読み飛ばした程度なのだけれど、戦前の伝説的行動の作家と、
芸術論を展開する文化大臣との間には、実際には大きな乖離があるわけでは
ないように思える。死や世界を無意味から掬い上げるものとしての「人間の
条件」を考えていた、というスタンス(大雑把だな)。
にしてもマダムの書き込みは、どうもixion氏への私的な恋文に読めて
しまって、ちと気恥ずかしいのは自分だけかな。。。
とりあえず押入の奧からいろいろ引っ張り出してきたのでこれを機会に自分も
ちょっと読み直してみようっと。そういやアンチメモワールも読んでないし。
私的な恋文>
「ふふっ」とだけ書き込みして逃げてもいいけれど…。
一生相まみえることのない、ネット上の実体が欠落した知性・
感性に対して欲望を感じ、恋をする。観念的に?
面白いですね、そういうのも。誰か書けば、そういう小説。
しかし、どのカキコでそう取られたのだろう。6かな?
むしろ14以下の取り憑かれぶりの方が、私信ぽくない?
6ぐらいは板の住人の総意なんだろうし、あなたのように「名無し」で
面白い挑発をしてくる人も各スレにちょろちょろいて、結構複数の人に
「観念的恋愛」をしているけれどな、私w。
まあ、ぜひとも大雑把なスタンスを詰めていって、いろいろ教えて
ください。お願いいたしします。
武官から文官への転身における行動の意味の統合というのも、
「転向」と違う位相で面白そうです。
ネット上恋愛――
メールを交換しているうちに会ってみたくなって、会ったら
やっぱり妖しげな雰囲気になった経験はある。
また、遠くに離れた友人と、ものすごい量の手紙を交換する
うち深い恋に落ちた経験もある。
言葉の限界を知りつつも、言葉の魔力を知る者をネットは
まんまと吸い上げているね。
スレ汚し、スマソ。
『マルローとの対話』って本がありますね。
日本人学者との対談本で面白いです。
川端と一緒に前田青邨を訪ねた写真が有名です。
川端の稟性に強く惹かれたと話しています。
物足りないのはマルロー自身が
日本の古美術には関心があるけれど古典にはあまり関心が
なさそうなところでしょう。
美術評論家としてのマルローと行動的な小説家としてのマルローは
分けられるようでいて分けられないんですよね。
『希望』にはアルベール、ロペーズ、スカリといった芸術家や美術家が
兵士として戦闘に参加していますし。
観念的な書き込みだというご指摘もあるようなので
『人間の条件』を読み始めました。
(新潮文庫の古本で150円にて落掌。すごく汚い。虫の屍骸がへばりついている・・・)
というわけで、今日は脈絡のない書き込みになってしまいました。
>>25 いや、別に非難しようってんじゃないんですよ、念のため。
ただ、貴女の正しい自己認識通り、14以降にゆんゆんな電波を感じたので、良スレ
ということもあり、もすこしマルローから拡大解釈する前にゆっくり行って欲しいな、
と思っただけっす。横槍でナマ言ってすみません。
>>26 日本といえば、彼は、たしか「日本には日本らしい悲劇の表現が必要だ」みたいな
ことも言ってましたね。だから、というわけではないですが、悲劇というのは、
かなりマルローにとって重要な軸のように感じてます。『条件』のキヨってのは、
マルロー的日本理解のあの時点での産物なんでしょうか。
それにしても、十代末、那智を訪れて、う〜む、これがマルロオが「アマテラス!!」
と叫んだあの滝か、と思った自分は、かなりアホや。。。
評論では、昨日引っ張り出した中にあった村松剛の『評伝アンドレ・マルロオ』
(新潮選書)はかなり面白かった記憶ありますが、これはどうですか。伝説的
エピソードが解体されてしまう側面もありますけど。
とりあえず『征服者』に先立ち、デビュー作と言われる『西欧の誘惑』を
読んでみました。奇しくも「私信」が話題となった日にw、中国を旅する
フランス人と、ヨーロッパを旅する中国人による書簡交換形式のエッセイ。
これ、すごいです。初めに、こんなものを書いていたかと驚いた。
マニフェストなんですよね。彼の思想、行動、芸術の価値の…。
「芸術家とは、創造する人間をいうのではありません。感じる人間です」
「それぞれの文明は、一つの感受性を形づくるものです。偉大な人間とは、
画家でも作家でもない。それは感受性を最高度にまでもっていくことの
できる人間のことです」とした上で展開される芸術論も含まれる。
「なぜ行動か」の説明過程には、タオイズムとギリシア人〜〜キリスト教が
対置され、両者の精神世界の差違が描かれる。前者が人間の意識について
「人間という抽象的な観念に先立つ」ものであり「ほとんど世界の一断片
である感覚」だというのに対し、後者は、「恵まれた土地に住む、総体的で
区別された、生きた存在である意識」だとする。タオイズムの宇宙感情、
リズム(律動)の理念に対し、多様な形象(感受性までもが秩序づけられる)
や自意識の限界が指摘される。
ギリシア人たちが人生に人間的な意義を与えようとぶつかった不安の上に、
神との契約でもたらされた感動と苦悩。その自意識ゆえ西欧が限界に達して
いるという分析。シュペングラーの『西欧の没落』につながっていくのかな?
で、「神は死んだ!」先に、神なき世界で人間の取るべき道は行動だ…
みたいな流れが出てくる。抜粋すると平板だけれど、密度濃いものでした。
最後がまた圧巻(というほどではないか)で、手紙が「西欧よ、死せる征服者
の眠る墓場よ」と詩的な散文になっていく。そこで襲ってきましたよ、例の
高揚感が…。
20代で人生の見取り図を描いて、それに基づき着実に行動していったのかも
しれない。ナルシシズムやヒロイズムといった興奮のなかに、チェスの駒を
進めるような冷静さを抱えながら。
>27
マルローの「アマテラスッ!!」には、なんだか彼の山師ぶりを
感じてしまいました。けっこうこの発言にはガッカリ。
マルローが神の啓示を受ける瞬間とかいって写真に解説が載っていたような気が・・・
その場に立ち合わせていないかぎり理解不可能な発言ですが。
過去スレにもマルローを山師という人がいて、
彼の行動が山師と紙一重であることは、
まあ、確かに否めないなと、なんだか納得してしまいました。
『映画史』にトリュフォーの写真と一緒にマルローの写真が出てきましたね。
文化大臣のときにアンリ・ラングロアをシネマテークの館長から追放して
ヌーヴェルバーグの監督たちにマルローは抗議を受けたのですよね。
村松剛の本は古本屋で探してみたいと思います。
『西欧の誘惑』は持っているんですけどまだ読んでません。急いで読みます。
評伝やらアンチメモワールはあとの楽しみ。とりあえず『征服者』――
色と物があふれるアジアの街に出合って感じるときめきや、人があちこちで
ネゴシエーションを重ね革命が盛り上がっていく気運の臨場感に感嘆し進み
進める。色、音、気配を体に刻みつつ、特定の時機と場所に向かって動いて
いく感じは、仕事やスポーツ、旅のさなかにある体感とかぶる。
これが行動派文学というものかと改めて認識する。
挫折の人レベッチの「いいか。よく聞けよ。人間に、たった一つの命しかない
ってことを、よく考えると、人間は社会状態なんてものを変えようとしなく
なるもんだ。ここで、むずかしいことは、人間がおのれの望むところを
知るってことさ」という言葉に共感。年を重ねた証拠のようで悲しいが。
しかし、ガリンにしても望む権力は、それに付随する金や名声、敬意でなく、
肉体的のもの――すなわち、一種の痙攣であり張りつめた力であり、待ち構え
る心だという。社会状態云々ではなく、内面の充実だという点に救われる。
というか、それが圧倒的な魅力である。
面白いのは「文学」が語られる件。ガリンの経歴で、彼が若いころの文学研究
で頭に残ったものは、偉大な人間的生涯からうけた啓示のみであり、想思録
(メモアール)以外に書いて価値のある書物はないと思っていた挿話がある。
また、ピエールという人物がロシア文学を語る。だしぬけに、彼が「後悔」に
ついて話す。それは「自己にさからう感情、ある時代の自己を責める感情」
で、重大な行為だけにしか生まれない。ロシア作家の書いたものに共通した
一つのきずがあり、それが「後悔」に近いと指摘する。
――彼らにはみな、いちどだってひとを殺したことがない。彼らの作品に出て
くる人物が、人殺しをやってから苦悩するのは、つまり、それらの人間に
とって世界がほとんど変わらなかったからだ。(中略)現実の場合、世界は
すっかり変わってしまうし、その展望も変わるし、《罪を犯した人間》の世界
ではなくなり、《ただひとを殺した人間》の世界になるだろう…
そして語り手である私が、病床にあって死に無頓着なガリンから聞く言葉――
「ああ、正体のつかみようのないこの全体的なもの! 人間の一生ってもの
が、なにかあるものによって支配されていることを、人間に感じさせるつかみ
ようのない勘といったもの」――これは不都合でないと言いつつ、ガリンは
「人間にとって希望っていうものは、人間が生きたり死んだりするもとをなす
んだからね…」と「希望」を語る。死の圧をはね返す「生への執着」に陶酔。
その状態に読み手をもっていったところで、手際よく結ぶ。
次の作品へのモチベーションが得られるように連なっていくのは偶然or必然?
しかし、かなり舞い上がっているので、少しクールダウンしてから次を
読むことにいたします。
はぁ?
今の日本で、マルロー的昂揚感のただなかにあるのは、やはり猪瀬直樹
だろうなと思う。
著作集が発売された記念の講演会に行ったとき、「行革」に対する熱意、
その歴史的・政治的意義を語っていた。聞く人を陶酔させる魅力がある
人だなという印象。
文壇3部作(『ピカレスク』は未読だが)はヤスケンが言うように、もっと
文学的に評価されていいと思う。彼は、「日本の近代」にターゲットを
絞り、文学と政治の両者を広く俯瞰できることのできるひとりではない
かな。石原慎太郎のように針先がブレていないし…。
何か、書き散らしてすみませんが。
34 :
吾輩は名無しである:02/12/23 20:40
マルロースレがこんなに下がってしまった・・・。
一時期は天下を取った作家だったのに・・・。
最も俺の高校時代には既に本の入手が難しかったぐらいだから、今の若い奴が知らない
のも無理はない。
それにしても20世紀前半の作家って、今ほんとに蔑ろにされてるよな。
そういう訳でがんがってくれ、マダムB!征服者!
俺は落ちる。
>>34 ありがと。マルローが人気ないのではなく、私の書き込みに問題があるという
自覚があるw。しかし、ことしの読書日記がわりに必要なこのスレは、私なり
にメインテナンスしておく。
ただし、空揚げはマルローに恐縮なので、ネタふたつ振り込んで。
その1.
「歴史へのかかわり」、その「昂揚感」ということから、やはりすぐ本邦で
思いつく作家は、石原慎太郎よりもミシマ。たぶん石原慎太郎がなろうとして
なれないミシマ。
暮れから年始のあいだ雪が降って、東京の街が昔のように寒くなり、塵あくた
が静かに白い綿に鎮められるのを見ると、確かに恋しい人を呼び出して馬車で
駆けたいような気分に私もなるw。で、『春の雪』を再読したが、問題意識を
抱えていると本の読みどころも変わってくる。甘やかな耽美の世界を楽しみ
つつ、目に留まったのは、前はあまり意識しなかった清顕と本多の歴史を
めぐる会話。――このエピソードは、例の雪の朝の接吻の翌日に当たる。
本多は、歴史というものは、通俗的一般的な信仰が、ある時代をあとから総括
的な真実として定義してしまうのだと嘆く。つまり、崇高でありたいと願う
自分たちの感情生活も、自分たちが軽蔑している者たちの感情生活もいっしょ
くたに扱われることを嘆く。自分たちが何を考え、何を願い、何を感じても
歴史はそれによって動かされないのだと嘆息。
「しかし、西洋人は、ナポレオンの意志が歴史を動かしたという風にすぐ考え
たがる」と指摘したあと、彼は「全くの無意志的な歴史関与を考えている」と
つづけ、人間の意志は本質的に「歴史に関わろうとする意志」だと論を発展
させていく。
――読書家のミシマだから、当然マルロー『西欧の誘惑』も読んでいた
だろう。レス28に書き出した、キリスト教的価値観と東洋思想の差違が、
歴史観に投影されて書かれていると見た。
「豊饒の海」とマルローをパラレルに読む試みが面白いかもしれない。
その2.
日本で作家の殿堂入りといば、日本芸術院入りとか文化勲章受賞なんて
ところが思い浮かぶが、ヨーロッパというのは面白いね。「墓廟」なのね。
ウィーンの墓地散歩を楽しんだことはあるが、このことは初めて知った。
日経新聞の海外新刊の記事で、デュマの遺骨が11月30日、式典の中パリの
パンテオン聖堂に移されたということを読んだ。「作家ではルソー、ユゴー、
最近のマルローに続いて6人目」という記事だが、あとは誰だろうと思って
いたら、さっき他スレに貼ってくれていたリンクのおかげで、ひとりは
ゾラだということがわかった。あとひとりは、バルザック?
とまれマルローはある意味、歴史にかかわろうとして歴史の一部となれた
作家なのだということが明確な形で証明されている。
(^^)
39 :
吾輩は名無しである:03/01/22 04:36
(^^)
『バンドオブブラザーズ』が『希望』に近いテイストを持っています。
42 :
吾輩は名無しである:03/02/11 13:07
マダムBは「〜的」ばっかり。
43 :
吾輩は名無しである:03/02/13 21:14
ニザンあげ
44 :
文学の立場 ◆vSpeJ6K3LA :03/02/14 08:17
新参者ですがよろしく。
>>35,36興味深く拝見しました。
ここで論じられている三島の態度は、歴史を「主体的に参加し得ぬもの」という形で捉え、
存在は「語られる/語られぬ」という形で選別されると考えている。
しかしどの様な形であれ歴史自体は語られており、「歴史を語ること自体の不可能性」
に直面していないと思われます。三島がある種の「偽史」を語り続けたのは、
たとえ偽史としても歴史は語りうるという意識があったからでしょうか。
対してマルローは歴史を「語り得ない感触」として捉えていたのではないかと思えます。
46 :
吾輩は名無しである:03/03/03 18:46
aminadabu
――「しかし、マルローは間違っている」とジャコメッティは
粘土を刻む手を休めずにぼくに向っていう。
「マルローは、芸術とは現実を把握するものではなく、現実以外の
ところに想像力によって美を見出すものだと考えているが、エジプトや
ギリシャの美術が見事なのは、彼等古代人が想像力をもっていたからでは
なくて、現実を把握する力をもっていたからだ。様式とは後代の人が
見出したものであって、古代人自身の意識にはなかったものだ。
私が求めているのは様式ではなく、眼に見えるものを見える通りに実現
することだ。(略)
私がはじめて細長い彫刻を発表したとき、人はこれを私の様式と呼んだ。
人々は誤解して、細長い形は形の面白さを目的にして発明されたものだと
思ったのだ。しかし私は自身の彫刻を細長くしようと思ったことは一度も
ない。私はただ現実の生きた人間に少しでも似ている彫像を得たいと
思ったに過ぎない。細長い様式はその結果であって決して原因ではない」
(矢内原伊作『芸術と芸術家』にはさんであった「矢内原伊作の本 月報
3号」辻まことによる書評より孫引き、原文は『芸術家との対話』にあり)
48 :
吾輩は名無しである:03/03/03 19:48
perukann age
49 :
吾輩は名無しである:03/03/05 19:05
皆で日仏の架け橋、マルローを語ろう!
マダムBじゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ひさし鰤!!!
51 :
吾輩は名無しである:03/03/18 00:19
死んだ・・・
パケット料金に
お久しぶりです。
実はカンボジアにいこうと思って初めての海外旅行に出かけたのですが、
結局、タイに行っただけでした。
タイ初日で怖気付きカンボジアなんてとても行けないと思ってしまったのです。
20日ほど行っていたのですがその間に『人間の条件』を読み終えました。
そんなこんなでまた少しずつ書き込みしたいと思います。
53 :
吾輩は名無しである:03/03/19 03:36
>>52 カンボジアに行ったらぺルカンの写真うpキボンメ!
(マルローが盗もうとした像でも可)
54 :
吾輩は名無しである:03/03/19 03:46
↑誤爆スマソ。
ペリカンと間違えた(ワラ その代わり、モイ族の集合写真キヴォン!
>征服者さん
ああ、いいなー。
そういう動機で旅行する人、好きです。
前にあなたが、26のレスで蚊の屍骸がはりついた
文庫本を読んでいる…と書いているのを見て、
その本、とあるビジネスマンが商用で出かけるとき、
さまざまなプレッシャーのなか支えにして読んだ
ものかも…などと想像してみたりした。
いや、友人でずっとボルネオとかジャカルタで
木材買いつけの仕事をしている男性がいて、
前によく真情を吐露するような手紙を寄越して
いたのですよ。奥さんもらう前に、ね。
「こんな場所で、こんなブロークン英語ばかり
使っていて、将来あるんかな」みたいな。
――で、ちょっと書いてみたくなった。
いろいろ書き込んでください。楽しみにしています。
56 :
吾輩は名無しである:03/04/04 16:56
征服者のレス希望
すみません。レスをつけたいのですが心身ともに疲れていることが多くて・・・
タイ各地のの安ホテルを転々としながら『人間の条件』を読んでいました。
マルローみたいな冒険に憧れるという今思うと、けつの青い旅行でしたが、
日本ではとても味わえないような様々な体験(ボッタくりとか売春の勧誘)
なんていう別に誰でも経験するようなことでもいちいちショックを受けて
とても『行動的ニヒリズム』なんていってられない自分のうぶさに恥じ入る
毎日でした。
私みたいな文学青年というのは単に現実に盲目なのだと痛感しました。
ああ、西欧人ってタフだな・・・。それが実感です。
都市部の人々は完全に資本主義で人間性を損なわれているというのが
強い印象として残っています。
でも一歩地方に出ると純朴なタイ人が沢山いました。
彼らがそのままの純粋さで生きていけるような社会であって欲しいと思うのですが
走ってる車は8割以上日本車なのにはうんざりしました。
日本の資本が彼らのこころに侵食してゆくみたいでせつなかったです。
なんだかんだでマルローの描く『革命』は資本主義に対する『革命』
なんじゃなくて、『人間の尊厳回復のための革命』なのかなと思いました。
理想の社会なんて彼は結局信じていないのでしょう。
なんで、私のマルローへ思いは複雑です。
>マダムBさん
将来を愁うるっていうのは案外贅沢な悩みなのかもしれません。
58 :
吾輩は名無しである:03/04/06 21:21
59 :
吾輩は名無しである:03/04/11 01:15
蒋介石の写真まーだー?
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
三島由紀夫Part4スレからコピー
187 :吾輩は名無しである :03/05/09 23:00
フランスのある程度の知識人なら、文化相を務め、遺骨がパンテオンに
祭られている
国家的作家アンドレ・マルローの「反回想録(アンチメモワール)」ぐらいは
読んでいるだろう。
その出版は一つの社会的事件でもあったからね。
三島の死に大きな衝撃を受けたマルローが、上記の書物に追補をした
のは有名な話だ。
モーリス・ベジャールはこう語っている。
「マルローと三島を近づけるものは何か。三島はマルローのような
生き方を望んでいたし、マルローは三島のような死に方を望んでいたと
いうことだ。」
やっぱり『豊饒の海』とパラレルに読む意味があるのか。
行頭がずれた。すみません。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
64 :
吾輩は名無しである:03/06/29 21:37
人間の条件のフェラルはいいなあ。
退廃的なブルジョワ知識人に正直あこがれます。
65 :
吾輩は名無しである:03/07/04 00:18
20世紀の『戦争と平和』は『人間の条件』という気がします。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
(^^)
68 :
吾輩は名無しである:03/08/02 18:02
age
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
あげちゃうもんねー
いま「人間の条件」読んでるけど、すっげー面白い!
上海の雰囲気がよく現れてるね。
マルロー、たしかにしびれるねー。
パンテオンにも祀られてるって、このスレ読んでてはじめて知りました。
ううっ、この前パンテオンに行った時は気付かなかった・・・。
保守。
★保守☆
マルローって最初は幻想的な短篇みたいなものを書いていたんだよね。
以前福武文庫で『三つの王国』とかいう翻訳があった。読んでないけど。
それが突然?行動の文学みたいなのに走ったのはどういう契機があったんだろう?
実を言うとマルローって一冊も読んでないんだよね。
最初に読むには何がいいかな?『人間の条件』読んでみたいね。
上海の気分を味わいたい。
『三つの王国』×
『風狂王国』○
76 :
吾輩は名無しである:03/11/21 01:00
あげえ
guu
希望は、煙草の煙の中で、とぐろを巻いていた。
(うる覚え)
なつかしいわ。
79 :
吾輩は名無しである:04/01/17 19:33
マダムBは柴田理恵にクリソツらしいよ
80 :
吾輩は名無しである:04/02/18 01:01
京王線で人間の条件おっぴろげて読んでいるのは俺だ。
ス・テ・キ!
82 :
吾輩は名無しである:04/03/22 15:35
いい英訳ない?
最初に何読んだらいい?
83 :
吾輩は名無しである:04/03/24 16:03
希望
84 :
吾輩は名無しである: