>オーウェルの政治的立場がいかに日和見的
前に引き合いに出した「文化と帝国主義」ではねレイモンド・ウィリアムズがオーウェルの社会的ヴィジョンを
厳しく批判した、とある。(p.315) そのウィリアムズのヴィジョンを、まだ批判的意識の浸透が不十分と
サイードが批判してる。サイード自身も「ウィリアムズに反論するのは危険なことである。」といったとおり
オースティンのテキストに対するウィリアムズの読解を批判した章は、英米の批評界から強烈な反発にあった
そうだ。俺もサイードの批評はかなりキツイ部分があるという感想をもったよ。
>ソヴィエト支持を打ち出していた、(“良心的”)知識人を批判し始めた、という先見の明にあるんでしょう?
ジードの「ソビエト旅行記」もそうだね。
>保守派のイデオロジーにも利用されるし、また一方でナチのような全体主義体制批判にも援用されている。
古典的自由主義者であるが、自由主義的資本主義経済は信用できない、という立場だろうな。
>今回のリスト提出問題は、また別の角度からの批判・点検が必要になってくる
俺も記事を読んで思いついたことを書いたに過ぎないから、新聞に書いてある愛が密告にいたった原因
ではないかという説も十分検討しなければならない。オーウェルの専門家が動機についての論証を
詳らかにしているというのなら、俺ごときの出る幕は既にないな。生涯の最後に愛によって自らを裏切った
というおはなしが、いささか出来すぎているかと邪推が働いたまでだ。
>>183の最後の一行の「動物農場を読めば一目瞭然。」これは繋がりが悪いから削る。
>>192の二行目 ではね → では
>>182 >
>>181 > そもそも「社会主義」「共産主義」「全体主義」という用語を、誰からも文句がこないように
> 定義するのは至難の業だからな。その部分で合意をえるための議論をはじめていたら、オーウェルに
> ついての議論にまで、とてもじゃないがいきつけないよ。
だれがそんなこと言ってるんでしょか。『誰からも文句がこないように定義しろ』なんて
言ってないだろ。もしそう読めるレスがあれば示してくらはい。
議論の当事者同士での認識の一致は必要ではない?
>辞典の定義のコピペを貼ってもしかたないしね。
アフォまるだしだな。あたりまえだろ。だから認識があってるかどうか確認しろって
言ってるんだけどな。
自分の世界から一歩も出ることができないと他人と議論はできないと思うよ。
195 :
吾輩は名無しである:03/06/28 14:04
君ら何をしたいの?ジョージについて話したいの?言葉の定義をしたいの?
単に喧嘩したいの?
すまんすまん。他人と議論したいんじゃなくてただ自分の持論を開陳したい
だけだったのだね。
いやーよくわかりましたよん。
ところで、
>>192の五行目、「オースティンのテキストに対する…」は「オーウェルの
テキストに対する…」の間違いじゃないんですか? 分かりやすく要約すれば、サイードが
「文化と帝国主義」の中でレイモンド・ウィリアムズがオーウェルの社会的ヴィジョンを
批判したテクストを、「意識が甘い!」ということで再批判した章を書いた、ということ
ですよね? もしよければサイードの批評のどういう部分が英米の批評界から反発を受けて、
あなた自身も「かなりキツイ」と感じたのか教えてほしいなあ…(いま手元にその本
ないんで。)しかし「ウィリアムズに反論するのは危険なことである。」
と、サイードが言ったのは、日和見的なオーウェルの立場を批判したテクストを
再批判することが危険きわまりない、ということなのかな…
いずれにしても、あなたの文章からはどういう批判だったのか見えてこない…
ま、ぼくは専門家ではないし、ここで専門家の議論を要求しても意味ないと
思う(というか、“オーウェル専門家”のような文学者がこのような問題を
解けるわけがないと思うんだけど。たとえばオーウェルの個人的な書簡や手記など、
資料を洗い出したところで、それを当時の政治情況と併せて、
その思想的価値や信条的意味を評定して忖度していく、というような作業は、
当時の国際政治や政治史に詳しくなければできることではないし、またその評定の
仕方も問題になってくると思う。たぶんその評定方法そのものが高度に政治的な課題に
なるだろうから。だからこの問題に一番相応しいのはまさにサイードのような人なのかもしれない!)
「生涯の最後に愛」なんたらには、回答は出てきそうにないですな…たとえ
オーウェルがシリア・カーワンという美貌の情報調査局情報要員と出会って恋におちても
密告という行為をする必然性が与えられるわけではないし、むしろもともと英情報調査局の
周辺にオーウェル自身がいたのかもしれない。それにそこにオーウェルがいたからといって
かれの政治信条を忖度するのは難しいですよ。ま、ぼくは東亜日報の記事が断定的では
なかったので(推定で終わっているので)とくに疑義は持ちませんでしたが。しかしそれが
なくてもオーウェルの行為は疑念を持たれて当然だと思う。
199 :
林彪 ◆0RbUzIT0To :03/06/28 14:07
>自分の世界から一歩も出ることができないと他人と議論はできないと思うよ。
相変わらず厨房丸出しの煽りだな。
もう痛いからやめとけって。このスレ見てる人全員がおまえはイタイって思ってるよw
ひきつって笑顔を保ちながら鼻息荒げてキーボード叩くなって。
粘着厨房は誇り高きオーウェリアンのスレッドから出ておいき。この引き篭もり。
>>194 ほいじゃ、とりあえず君と僕の間で認識があうかどうかチェックしてみようか。
>>182の三つの命題について、認められるかどうか、答えてみてくれない?
>>185 > 用語の定義を云々するのはあまり意味のないことだと思いますが…。
その通り。そんなことを言ってる人はいない。
>>197 http://home.att.ne.jp/sun/RUR55/home.html ここの「対立する視点」という
コメントを読めば、反発のありようがどんなものだったわかるよ。一部引用するな。
>僕のように文学を教える者たちは、これまで、政治や歴史にかかわる部分については考慮の対象外とすること
>をよしとしてきました。作品を芸術として扱うということです。芸術作品の価値を認めることについては僕は
>誰にもひけをとりませんし、自分が愛好し賞賛する作家の作品しか取り上げません。だけれど、読解において
>は、「これらは芸術作品である」と言うだけでは不十分だということも主張しているのです。
サイードの読みが政治的に偏向している、という批判がくわえられたのは想像にかたくないね。
この間、訳された英国の文化史(名前忘れた)では、ポスコロ批評に対する反批判も行われていた。
俺はそもそもオースティンの作品を芸術として十分に享受していないと自覚しているから
サイードの批評を読むのは、病気にもなっていないのに、強い薬を飲むようなものではないか、という
怖れがあるわけだ。
>>198の内容については、とくに異を唱えたい部分はないな。ほぼ同意。
ウィリアムズの批判についても未読で、こんなに偉そうにものいってるから
汗顔のいたりだ。
>>202 いやあ… ありがとう。正真正銘のオースティンね。
これってカルスタって言うのかなぁ…? 植民地主義以降の視点から文学を捉え直す、
みたいなことね。サイードに対するその批判も古典的なものじゃないかしら。いずれに
しろ方法論を一元化することは読みのファシズム(w)につながると思う。
こういう分野にはあまり強くないのでなにもコメントできそうもない。
よほど英文学に長年精通して、英国史・世界史とともに複数の視点を持っていることが必要なんでしょうね。
学者というのは往々にして、方法論的「勇み足」や自分のやってきたことを否定されるのを嫌うものだからねえ。
>>204 オーウェル自身、政治と文学の関わりかたについては、大いに悩んだらしいが
一九三六年以降のまともな作品は、全体主義を攻撃し、民主的社会主義と自分が
考えるものを擁護するためにものを書いている、と公言しているから、日和見主義という
評は厳しすぎる。「冷戦時代に態度が変貌した」と「文化と帝国主義」には書いてあるが
当時の政治情勢を考えれば、無理からぬものがあるな。
単なる読者としては、とても英国文化史全般に精通するなんて不可能だから、信頼
できる批評家をみつけて、そのひとに従って地図をみる、という方法をとる以外あるまいね。
>>205 後段、同意っすね。まあイギリスの田舎地所とカリブ海のプランテーション農業を
結び付けるような発想は、誰にでもできるものじゃないし、たとえそれを思いついた
としてもそれをもとに建設的なテキストの読みを提示するのはむずかしいと思う。
とりあえずまず、その「信頼できる批評家」を見つけだすことが難しいんでしょうなw。