609 :
ホワットマン ◆1fdQi8IAxE :03/08/19 01:42
コトバはコトの端ではないかと
コトのしっぽ、残像ではないかと
以上
小説をはじめとする「物語」はしょせん嘘にすぎない。
けれど綺麗な「嘘」が人を感動させたり、人を動かしたり
することだってある。
…といってみるテスト
611 :
吾輩は名無しである:03/09/03 20:29
良スレだったりして
612 :
吾輩は名無しである:03/09/03 20:30
んなこたーない。
613 :
吾輩は名無しである:03/09/03 20:58
美しい物語に触れたいです。
614 :
吾輩は名無しである:03/09/03 22:36
気をつけてくれ。
火傷したあとが…一生…うずく
616 :
吾輩は名無しである:03/09/03 23:03
うん、前向きにがんばる!
617 :
吾輩は名無しである:03/09/03 23:47
今夜はいい夢みてね☆
618 :
吾輩は名無しである:03/09/03 23:49
は−い、好き
>>607-609 「コトは語られて(=騙られて)モノになる」
「描かれた川は流れていない」
「描いている(=書いている)瞬間だけにコトがある」
としても
そのモノが読まれることによって再びコトにもなるのではないかと
書くコトが読むコトの中で命を与えられるのではないかと
言い換えると、読むコトは再び書くコト(リライト)という行為ではないかと
620 :
吾輩は名無しである:03/09/04 00:37
あのぅー、コトコトうるさいんですけど。
621 :
吾輩は名無しである:03/09/04 19:17
誰か教えてください。
622 :
吾輩は名無しである:03/09/04 20:09
あれだ、現実がつらいからだな。
623 :
吾輩は名無しである:03/09/04 20:12
物語でナイト語れない真実がアルの
624 :
吾輩は名無しである:03/09/05 05:44
俺くっさいこと書けなくなったなぁ・・・
昔はよく書いてたんだけど。
現実逃避もあるけど、やっぱり楽しいからだと思う。
&#9830
?
628 :
ホワットマン ◆1fdQi8IAxE :03/09/05 18:11
>>619 レスありがとでした。傾聴すべき内容でした。
エクリチュール(書くコト)とレクチュール(読むコト)
といいかえてもいいでしょうが、そのリライトとしての共通性については
ボルヘスかカルヴィーノかが語っていたでしょうか。
スレタイからは少し迂回しますが、
ま、大きなテーマなのでいいでしょうかね。
モノは名詞、コトは動詞だとして
物語が語られたモノという名詞ではなく
物あるいは事を語るコトという動詞になるのは
確かに書いている瞬間だけでなく、
読んでいる瞬間にもおこるのでしょう。
描かれた川は流れていないとしても
その絵を見ている者の視線によって
その川は流れ出すのかもしれません。
630 :
吾輩は名無しである:03/09/05 20:02
万物において想像的なカテゴリーに位置するとされるものは人間とは別個に
損律しうるという考えがソシュール言語学に代表される「恣意」の産物で
それぞれは、それぞれでない限りにおいてそれぞれでありえている、という
モチーフを参照していたことから構造という物自体の発生の根源とは乖離した
一個の固体であるという考えが生まれたのではある。しかし現象学的還元によって
これは人間の「想像性」、つまりたとえば人間の発する言葉によってはじめてそれは
「現象」として人間の脳裏に認知されうるという確認のもとで、言語一般から
派生する物語もまた、それは人間とは別個に存在するものとは見て取れず、
物語的意識という還元によって初めて、それは認知されうるのである。
「川の流れ」はそれを意識し、発音する人間の口元によって初めて「川の流れ」
を言い当てることができるということから、物語は人間の意識によって、それも
その還元によってしか現象し、派生することはないのである。だとすれば、
人はなぜ物語を必要とするのか?という問いの中にいる「人間」と「物語」は
互いに乖離しておらずその根源の主体である人間への問いかけとして「物語」
を説明的に上塗りしたという仮想的な主体をまた、自然の中に「創造物」として
植え込んでいるという重層的な視座に立っている自己を広く人間一般の普遍性
と結び付けているという堂々巡りに衝突するのだ。
>>628 エクリチュール(書くこと)とレクチュール(読むこと)の一体性について
読むことが「リライト」という書くことでもあることについては
ボルヘスの短篇「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」がある。
そのバスティシュが文体模写スレにあったので下記に引用。
872 :ほるへ・るいす・ぼるへす練習 :03/08/11 01:03
「『変身』の著者、ピエール・メナール」(原註1)
私は以前にピエール・メナールの著書のほとんどを挙げたことがある(原註2)。ここでは以前に述べたことを繰り返して読者の顰蹙をかうような真似はするまい。
ただし、以下の一文――「ある特定の作家との〈完全な〉同一化のテーマについて書いたノヴァーリスの、あの文献学的断章」――を再度ここに披露することは、決して読者諸賢にとって無益なことではあるまい。
しかし、その後判明したことであるが、ピエール・メナールにはもうひとつの隠された著書が存在していたのである。私は『変身』という名のその本のことを最近知ったのだが、それは、あたかもフランツ・カフカの同名の作品と瓜二つである。
だが、メナールはカフカのそれを現在風にアレンジしたのでも2ちゃんねる風に焼きなおしたのでもない。別の『変身』を書くこと、これは誰にでもできる(このスレをご覧になればおわかりだろう)。
メナールの野心はもっとユニークなものである。彼が書いたのはカフカの作品と一言一句まったく同じページを生み出すことにあるのである。
その芸術的行為は一見どんなにそう見えようとも、書き写すこととは似て非なるものであることは確かだ。
メナールの『変身』とカフカのそれとを比較してみれば一目瞭然であるが、前者の文章には往時のプラハの陰鬱な雰囲気を伝えようとする洗練された技法が窺われる。
それに対し、後者の文章にはそうした努力が感じられず、当時の雰囲気をそのまま伝えるだけである。
*原註1
上記作品は書肆ミメシスより刊行予定の『不完全な真空』第8章の抄訳である。
掲載にあたり同社の好意ある了解を得たことをここに記し感謝の意を表する。
*原註2
『伝奇集』(岩波文庫)所収
633 :
吾輩は名無しである:03/09/06 09:37
ボルヘスの作品は、単にユーモアのある碩学的な遊びではなく、
エクリチュール(書くこと)とレクチュール(読むこと)の一体性
についての見事なメタファーになっている。
634 :
吾輩は名無しである:03/09/06 22:02
物語のストーリー化粧の時代は終わった。これからはイメージ図鑑としての短歌の時代
635 :
吾輩は名無しである:03/09/06 22:10
物語のストーリー化粧の時代は終わった。これからはイメージ図鑑としての短歌の時代
名前: E-mail:
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636 :
吾輩は名無しである:03/09/06 22:10
物語のストーリー化粧の時代は終わった。これからはイメージ図鑑としての短歌の時代
635 名前:吾輩は名無しである :03/09/06 22:10
物語のストーリー化粧の時代は終わった。これからはイメージ図鑑としての短歌の時代
637 :
吾輩は名無しである:03/09/06 22:17
ボルヘスの作品は、単にユーモアのある碩学的な遊びではなく、
エクリチュール(書くこと)とレクチュール(読むこと)の一体性
についての見事なメタファーになっている。
634 名前:吾輩は名無しである :03/09/06 22:02
物語のストーリー化粧の時代は終わった。これからはイメージ図鑑としての短歌の時代
635 名前:吾輩は名無しである :03/09/06 22:10
物語のストーリー化粧の時代は終わった。これからはイメージ図鑑としての短歌の時代
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636 名前:吾輩は名無しである :03/09/06 22:10
物語のストーリー化粧の時代は終わった。これからはイメージ図鑑としての短歌の時代
635 名前:吾輩は名無しである :03/09/06 22:10
物語のストーリー化粧の時代は終わった。これからはイメージ図鑑としての短歌の時代
名前: E-mail:
638 :
吾輩は名無しである:03/09/06 22:20
物語のストーリー化粧の時代は終わった。これからはイメージ図鑑としての短歌の時代
イメージが膨らむ
弾けては涙が流れ落ちる
640 :
吾輩は名無しである:03/09/24 00:16
641 :
吾輩は名無しである:03/09/24 00:45
>>638 おそらく時代は
「イメージ図鑑としての短歌の時代」でもあり
伝統的な物語が続いていく時代でもあり
そうした物語を壊し続ける時代でもあるのだろう。
>>639 イメージはどのような過程を経て涙にかわっていくのだろうね。
時代の流れは複数の支流を併せ持っているのだろう。
642 :
吾輩は名無しである:03/10/17 19:48
643 :
吾輩は名無しである:03/11/07 00:35
物語という日本語は「物語」を暗黙のうちにひとつのものに定義してしまうね。
だから外国語のように「物語s」という複数形で絶えず考える必要がある。
文学が衰退しているという人がいて、
普遍的に必要としているという意見もある。
面白い。
物語は道路である
道路に歩かせられる快楽である
物語公団元総裁の藤井です
649 :
吾輩は名無しである:03/12/20 01:41
>>645 2種類の多様性があるんだと感じている。
@視点の多様性=様々な文学観
おそらく文学が衰退しているかどうか、物語が必要かどうかは
それを見る人の、語る人の立ち位置によって違ってくるんだと思う。
A対象の多様性=様々な物語
文学や物語とひと口にいってもさまざまな文学がある。
だから実際に衰退している「ある文学」があり
まだまだ興隆している「ある文学」がある。
これから開花しようとしている「ある文学」もあるかもしれない。
で、スレタイへの「ひとつの」意見を述べてみれば
ヒトはやはり「物語」を必要としている、というか、
物語ろうとする欲望を持っているんじゃないかと思う。
それはなぜか?
それは、流れゆく時間に対する抵抗、あるいは同じことかもしれないけど
過ぎ去る出来事、失われてゆく記憶をつなぎとめようとするあがき、
そして言葉の遺伝子を後世に伝えようとする本能にも似たものなんじゃないか。
「物語る」という文学的な行為は「遺言」にも似て
何かを未来に託そうとすることなんじゃないか、そんな感じが、した。
2chビューワーは一冊の書物
653 :
吾輩は名無しである:03/12/22 20:12
私見では、言葉を使用する限り人間が逃れられない二項対立的思考からの、
想像力による脱却のために物語が必要かな・・
ヒリス・ミラーの『エディプス王』についての論文は、物語ることについて
とてもいい論考が書かれていると思います。
『現代批評理論 : 22の基本概念』 フランク・レントリッキア, トマス・マクローリン編
/大橋洋一[ほか]訳. 平凡社, 1994. の『物語』の項です。
>>650 非常に視野の広い意見で参考になります
>>653 ぜひ今度読んでみたいと思います
このスレは時々「はっ」とする言葉に出会うので時々ROMってます。
「物語」への欲望というものを「書くこと/読むこと」の欲望という次元でいえば
月並みかもしれないけれど、やっぱ「自分探し」ってことがある。
自分の確認であったり、未知なる自分の発見であったり。
あるいは、「自分」を「他者」として発見することでもあるかも。
656 :
吾輩は名無しである:04/01/03 22:28
「自分の確認」と「未知なる自分の発見」というのは相反すると思いますが、
それは物語によって異なってくるということでしょうか…。
657 :
吾輩は名無しである:04/01/13 23:55
>>656 物語によって、また時と場合によって、異なってくると思うけれど。
あるいは本を読む姿勢(どういうモチベーションで読むか)とか。
あるいはその2つが相反せずに同居することもあるのかもと思う。
658 :
吾輩は名無しである:
>>656 自己確認をする→未知なる自分を発見する(他者の発見)→他者を受け入れる
→自己確認をする・・・の繰り返しが、物語の中でされるのでは?
他者の発見による分裂から統合というモチーフは文学作品によく見られるものだと思います。
鏡像段階の理論が文学作品の読解に用いられるのはそんなところに理由があるように思います。