あぼーん
あぼーん
バナナフィッシュにうってつけの日をうみだしたのは作家
と言ってみるtest
バナナフィッシュ日和を生み出したのは戦争体験ではなく、
ディスコミュニケーションである、
と言ってみるtest
あぼーん
251 :
吾輩は玉蜀黍:03/08/04 01:24
すいません、サリンジャーが村上春樹のことを酷評してるって
聞いたんですけど、本当ですか?
252 :
吾輩は名無しである:03/08/04 01:42
>>244 ふつう肺炎の治療でカウンセリングは受けないのではないか?
253 :
吾輩は名無しである:03/08/04 13:49
スレ違いでしたら申し訳ありません。
「ライ麦畑でつかまえて」を読んでみたいのですが翻訳者さんが色々ありますよね?
何処社の誰訳のライ麦〜が良いでしょうか?アドバイスいただけませんでしょうか。
254 :
吾輩は名無しである:03/08/05 03:13
>>253 「ライ麦畑でつかまえて」という邦訳は一つだけ。
訳者:野崎孝、白水社Uブックス\820。
「累計250万部の歴史的名訳」だそうです。
他の邦訳は
1952年『危険な年齢』(橋本福夫訳・ダヴィッド社)絶版
2003年 村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社\1600
>>253 >翻訳者さんが色々ありますよね?
・・・て、色々なかったのよ、野崎氏のが定番で、それだけだったの、
長い長い間日本の若者は野崎訳「ライ麦畑でつかまえて」で
育ってきたわけでつ。
で、やっと春樹が今回、新たに訳した、物議をかもしつつも・・・
さて読まれているのか、思惑通りに売れたか、白水社、どうだ?
苦戦中か?w
ではまずは「野崎孝」氏翻訳版から入るべきですね。早速買ってみます。ありがとうございました。
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
改めて「ド・ドーミエ〜」を読み返したけど、やっぱりボケっぱなしで、シリアスプロットと思えた部分はわずかに以下の3つのみ
これら以外は、全てボケか前フリのどちらかであるといっても、過言ではないのではないだろか?
・母を亡くして、とてもとてもひどい心理状態になった
・都会で非常に孤独を感じた
(以上の2つは含みをもってほのめかされるだけ)
・一人ごちていた自分に気が付いた(大人になった)
(メインプロット。「everybody is a nun.」のところ)
しかし、文章があまりにもくどくどしく、入り組んで複雑なので、容易にはそれとは理解出来ないかもしれないし、
しかも、野崎氏の翻訳は、直訳にこだわる余り、日本語の流れがぎこちなくなるので、いよいよわけがわからないかも
「ハッピーエンドの『ド・ドーミエ〜』とアンハッピーエンドの『テディ』
〜〜極端な対比を見せる『ナイン・ストーリーズ』」
それはさておき、今回注目したのは、この後の「テディ」へと続く流れ
年代順に最後の2編になってはいるけど、内容はまるで違うこの2編
「ド・ドーミエ〜」
・父との確執、和解や、挫折や失敗、失恋などを描いた、いわゆる青春コメディー
・サリンジャー作品の中でも、唯一と言っていいような、影の無い、能天気なハッピーエンド
(しかも最後は、バンビ・クレーマーのオチで、見事に閉める、コメディーの定石)
「テディ」
・仏教の形而上概念を議論する、天才少年の求道流転の物語
・家族、兄弟との不仲の末のアンハッピーエンド(しかも、尻切れトンボ・・・)
まるで毛色の違う小説を、無造作に並べただけに見えるけど、そこには実は、こんな狙いがあったのではないかな?
つづく
「サリンジャーが訴える哲学〜〜物事の差異を超越する仏教的概念」
「ド・ドーミエ〜」
・「全ての人間は尼僧である」
・(最終的に、シスターアーマとその他の生徒達も、誰も彼もが同等の存在となる)
「テディ」
・妹=神
・ミルク=神
・すなわち、妹=ミルク
・妹がミルクを飲む行為とは、神を神に注ぐこと
「ゾーイ」
・全ての人間=太っちょのおばさん
・太っちょのおばさん=キリスト
・すなわち、全ての人間=キリスト
・(キリストも我々と比べて、特別な存在ではない?)
「大工よ〜」
(冒頭の中国の故事)
・毛色や雌雄の差異にとらわれない
他にも探せばあるかも知れないけど、サリンジャーは一貫して、物事の差異を超越する、仏教で言う「色即是空」的な概念を訴え続けているように思える
これに照らして考えれば、まるで系統の違う小説を並べてしまうのも、この差異を超越する概念の象徴であり、
献辞の隻手の公案も、同じ象徴として、書かれたと言えるかも
「片手の音も聞こえるはずだよ」
ってことかな
(しかし、自らそう言いながらも、私はあくまで、「献辞はお茶目なジョークである」と考える気持ちに変わりは無い・・・)
「サリンジャーは、本当に戦争について書いていないのか?」
春樹氏は対談の中で、サリンジャーは戦争について書くことを避けていると言ってるけど、僕にはそうは思えない
ブーブーも軍人なんだけど、ナインストーリーズにしても、9編中6編が何らかの形で大戦の影を映している
確かに、腸が飛び出したり、血まみれのちぎれた腕や足が飛んできたりという、映画の「プライベート・ライアン」にあるような、いかにも春樹が好みそうなグロイ描写はほとんど無いけど(「エズメ〜」にはある)、
D.B.の言葉を借りるまでも無く、そのような凄惨な戦場を描くことだけが、戦争小説では無いはず
サリンジャーが作家として特徴的なのは、一貫して(戦後)、軍を否定し、批判する文章を書いていること
「ライ麦〜」では、「アメリカ軍もナチと同じ」とまで、書いている
一度は身体検査で落とされながらも、わざわざコネを使ってまで大戦に参戦した人間の発言だとは、とても想像できない発言だと、僕には思える
日本人の感覚からすると、軍を批判するのはむしろ健全な行為だけど、銃に「PEACE MAKER」と名づけるようなアメリカ国内では、
健全どころか、むしろ非国民として後ろ指をさされかねない発言だと思う
このような、政治的な立場を考えた場合、
むしろ、大戦に対して、かなり積極的な発言をしていると言えるのではないだろか?
確かに参戦して、考えが180度変わるような苛烈な経験をしたはずで、僕はその中に、同国人によるユダヤ人差別もあったのではないかと思う
(他にも色々考えられるけど)
「サリンジャー作品における父と子の関係、宗教、民族差別〜〜作家の持つトラウマ、自己のアイデンティティーを確立する必要性」
サリンジャー作品で特徴的だと思えるのは父と子の関係
大体にして、両親とはうまくいってないのだけど、特に父親との関係があまりよくない
「ド・ドーミエ〜」
・「お先にどうぞアルフォンソ」的、よそよそしい関係
・(亡くなった母をめぐってライバル視)
「テディ」
・カバンの上にのる息子に対して、ひどい言葉でののしる父
「ライ麦〜」
・「母親と違って、椅子でぶっ叩いても目を覚まさないほど無神経」
・「父のような仕事には就きたくない」
「ゾーイ」
・家族の危機にあって、見てみぬふりを決め込む、役に立たない父
仮にこれらから、サリンジャーが父親とうまくいっていなかったと考えると、心理学的に言って、
1)父を肯定できず、したがって自分自身をも(少なくとも半分は)当然のようには肯定できなくなる
ような、自体が起こりうるのではないだろか
つづく
さらに、グラース家の両親がダンスも上手なエンターティナーであったことから考えて、
サリンジャーは父方のユダヤ人としてより、自分自身を、母方のアイリッシュとして見ていた面が強かったのではないかと僕は考えるんだけど、
逆に、そうだとしても、彼が民族差別に晒されるときは、先ほど書いたように、世間の趨勢として、アイリッシュとしてより、むしろユダヤ人として差別されることのほうが圧倒的に多かったのではないかと思う
2)自分のことをアイリッシュだと思っても、世間はユダヤ人として彼を見るし、ホロコーストの問題もあって(彼は志願して参戦しているので)、自身もそれを否定できない
しかも彼は、母親の、結婚のための改宗を経験している
3)母親の改宗を経験して、キリスト教など、信教行為への不信感が募り、無垢にキリスト教を受け入れることが難しくなったのではないか
以上3点から、彼は早くから、自身のアイデンティティが曖昧で確固として確立できない状態にあり、それが彼を、独自の価値観や宗教哲学を確立させる行為に向かわせることになったのではないかと僕は考えるけど、どうだろう
そして、このような自己同一性の危機に恒常的に晒されることが、逆にそれに対抗するために、彼のユーモアセンスを鍛えたのだ、とお笑いマニアの僕は考えてしまう
(多くの芸術と同じく、ユーモアも、苦悩や困難の中から生まれる・・・と言ってみるtest)
「最後にちょっと、野崎訳について」
>254にもあるけど、確かに「ライ麦〜」はなかなかの名訳だと思うけど、その他のものに関しては、野崎氏は直訳や逐語訳にこだわるので、
むしろ研究ではなく、普通に小説を鑑賞することを考えた場合は、決していい訳だとは言えないと思う
それでも僕が彼を好きなのは、学者として、自身の中に、作家が持つような「芸術的創造性」の可能性を、潔く否定して、
内容や意味を伝えるのではなく、あえてそれらを放棄し、学術的、論理科学的な逐語訳、直訳にこだわったところに、作家と対極にある「学者」という存在としての「学者魂」を感じるからです
(半端な小説家くずれでも、迷走する小説家でもないということ)
日々の努力のおかげで、以前よりも英語力が上達したので、今回、頭の中で翻訳をしながら「ド・ドーミエ〜」と「テディ」を読み返してみたのだけど、
内容をよりよく伝えようとすると、案の定、野崎氏とは比べ物にならない、原文の言葉遣いなど、想像も出来ないような、とんでもない「意訳」になってしまう
言語体系も違い、言葉や慣用句が、「一対一」対応するわけでもないので、やはり、大きな「翻訳の限界」の壁を痛感した
で、そんなことを言いつつ、今回、野崎氏の翻訳にちょっと疑問を感じる部分もあったので、次回にでも、それについて、ちょっと皆さんの意見を聞いてみることにします
((´-`).。oO・・・さすがにツカレタ)
264 :
吾輩は名無しである:03/08/17 21:05
>>258-263 長っ! いや乙彼
前半部分ほぼ同意です。
僕の考えでは、サリンジャーはストーリー・テラーであって
主眼はあくまでストーリーそのものに置いてる。
で、その中に普段思ってることを折り込んでるって感じ。
それが自己ID、エゴの離脱、ユーモアの重要性、戦争の愚かしさ、
アンチ精神分析、アンチ学校教育、禅思想、セックス問題etcで、
サリンジャーのどの小説にもそれらのどれかが含まれてると。
サリンジャー本人については、実際父親と上手くいってなかったみたい。
自分をアイリッシュ系とみたがっていたかはわかんないけど、どっちみち
アイリッシュもJFKが大統領になる前はアメリカじゃマイナリティだった?
翻訳については、自分のレベルじゃライ麦が精一杯。
Tryしたけどドーミエなんかフラ語もあるし言い回しも難しかった。
でもKykeとKyteをユダ公と凧に訳すなんて上手いと思った。
I'll Queen Mary youもそつなく訳してあると思う。
>>261 うん、そう。
サリンジャーの小説では母親に比べ父親があまり目だたないんだよね。
もっとも男の作家の書くものはたいていそういうものだという気もする。
>>264 kikeとkiteですね。
>>265 訂正thanx
もひとつ訂正 翻訳 → 原書 でした。
バナナフィッシュにうってつけの日の、シーモアが少女の土踏まずにキスするところと、
エレベーターで一緒になったおばさんに、僕の足を見てただろと言う場面何らかの関係あるのかな?
どちらの言動も全く理解できないんですが