GARNET CROWという邦楽グループのキーボードと作詞を
担当しているのですが、詩が(・∀・)イイ!!
この板で反応があったら嬉しいです。
紹介は
>>2-
2 :
吾輩は名無しである:02/05/13 21:24
3 :
吾輩は名無しである:02/05/13 21:25
4 :
吾輩は名無しである:02/05/13 21:32
俺は好きですが?
ありきたりな歌詞が。
やっぱりありきたりですか。
自分自身七詞のどこがイイ!!って断言出来ないからなぁ。
初期の作品で人が沢山死ぬんですけど、J-POPの詞としては
珍しいと思われたんですが。他に何かないですか・・?
____
/∵∴∵∴\
/∵∴∵∴∵∴\
/∵∴∴,(・)(・)∴|
|∵∵/ ○ \|
|∵ / 三 | 三 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|∵ | __|__ | < うるせー馬鹿!
\| \_/ / \_____
\____/
___◎' ◎' ◎____
| 真世告別式 会場. |
| | サッサト逝け・・・
| うる馬鹿スレッド. .|
 ̄/7 ̄ ̄ ̄ ̄ キヘ ̄ ∧_∧
/7 キヘ (・∀・ )
/7 キヘ. |||◆|||||)
/7 キヘ |||i||||||
/7 キヘ (|||(|||||)
AZUKI七ゲット!
8 :
吾輩は名無しである:02/05/16 02:19
あげ
9 :
AZUKI七って…:02/05/16 07:38
…忍者ですか?
10 :
吾輩は名無しである:02/05/17 02:28
らげ=ixionという説があるぞ。
オレが考えたんだけどな。
つーかさ、らげ=ixionではないにしても、マジでこのスレ、
らげからガネクロのことを教えられたixionが立てたんじゃないか?
13 :
吾輩は名無しである:02/05/17 03:59
このスレで初めて見たけどかわいらしい人だね。
14 :
吾輩は名無しである:02/05/17 23:59
GARNET CROWってどんなバンドかと思い、
調べてみたらコナンのテーマ曲で何曲もタイアップしてるバンドかよ!?w
15 :
吾輩は名無しである:02/05/18 00:02
_
/ `ヽ、
/ ヽ
¶ i
|| ノ
|| /
お、馬鹿が || (
|| ヽ
釣れた♪ || \ ∧∧
|| \(,,;゚Д゚)
_______ _____||_ ⊂ つ
.∧_∧|| `・x、 (
>>1 (
( ´∀`||, `・x、 \)\)
( つ@ノ `・x、
| | || `・x、
(__)_||. `・x、
`・x、
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
|
\ |
\ |
\ |
\〜'`ー-〜ー〜'`ー-〜ー〜〜'`ー-〜ー〜〜'`ー-〜ー〜
\ 〜 〜 〜 〜
\ 〜 〜 〜 〜
\ 〜〜
\ 〜 〜
16 :
吾輩は名無しである:02/05/18 00:10
17 :
吾輩は名無しである:02/05/18 01:48
∧ ∧
ヽ( ´∀`)ノ AZUKI七タンもみもみ も〜みもみ ♪
へノ /
ε ノ
>
19 :
吾輩は名無しである:02/05/18 02:11
20 :
吾輩は名無しである :02/05/18 02:13
写真みたけど、顔は長いの?丸いの?
21 :
吾輩は名無しである:02/05/18 02:16
/\ /\ <
>>1 クソスレ
/ \ / \ | おめでとうございまーす♪
/ \_/ \ \_______
/ \
/ ヽ___ ___
/ / ヽ__/ \ / ゙Y" \
| │ / / \
| 丶/ / \
\ / ̄ ̄ ̄ ̄) * ( ̄ ̄ ̄ ̄)
ヽ_____| ─< |\ >─ (
| ) / (|ミ;\ ( )
ヽ  ̄ ̄) /(___人|,iミ'=;\ (  ̄ ̄ )
/" ̄ ̄ ̄ ̄ / 《v厂リiy\  ̄ ̄ ̄ ̄\
/ / ゙|,/'' v:,,、.¨)z,_ \
/ / ミ/ .-─ .゙》z、 \
/ / 〔」″ノ‐ 、u ¨\ )
( / ゙|, ..冫 .rー  ̄\_ |
| 〔 ミ./′ ..r-ー __,,ア┐ |
| | {. .,,,, .′ .´′ .¨\|
| | ∨ ノ冖′=vvvvvv¨\
| / ミ. ,i' .゙\_
| / .{. ノ ,r¬″ .¨\
| / @ ゙|, | ノ ー''''''''''' .ーミz
| | ミ. .,、 ._,,,、、r ,,,,_____ ゙┐
_/" | .ミ. ./′ ´′  ̄⌒'h..¥
(______) {. } ._,,,、 ,ノ冖''^¨ ″〕
゙|, .,| ./` ,r'′ vvvv、 |
.ミ、.` | 二、 〔 、 ,|
.〔 | .、 〔 rーー | |.,}
.ミ .′ .| 〕 .} ─-「 y-リ
.\ |, ´v,,,]、、、v- ..,/′
゙\ .\、 . _/
¨'ーvu,,____''工レ-
糞スレだけど、一応マジレス
>>20 ショートの方。
23 :
吾輩は名無しである:02/05/18 02:21
,. -─‐- .、
, ' ゙. - '''''''' - 、.ヽ、
, '゙,. ' ゙ 〆⌒\ `ゝ ヽ、
,:' ,:' .(o゜ 人゚3//ヽ.ヽ
,'",゙ |゜。゚:。// ゙, ゙,
.i ! |:。//!. i i
l l //:.。゚| l !
.゙,. ',. //・∀・゚) ,' .,'
ヾ. '、 // )
>>1゜(. ,.' ,.'
ヽ,'`゙, '゙ ( ∴Y∴) ,. '.,. ゙
` 、`' :、_ _,. '゙, '
` - 、..二二 ー '゙
見よ、このスレの伸び悩みを。
静寂を支配するAZUKI七の詞そのままではないか。
全てを通り過ぎた視点から眺めるAZUKIの視線は
スレを凍結させるに足る「死線」なのだ。
世界を凍りつかせるその視線=死線によって、
AZUKIは世界を全的に否定するが、そうすることで
AZUKIは自己の視点の超越性を証明するのではない。
AZUKIは世界を否定することで、自己の超越性を
証明しないどころか、逆に自己が世界に否定されてしまう
無力さを逆照射しているのだ。
無論ここに無力者のルサンチマンを見るべきでない。
ここに見るべきなのは無力さを抱え、世界に異和を抱きつつも
尚、「夢」という非意味(non-sense)を世界に反定立し、
意味世界にその変容を迫る詩人の他者性をこそ見るべきなのだ。
26 :
吾輩は名無しである:02/05/18 09:36
>>25 「らげ@」って、ガネクロのスレで「ユリニー」とか変なことを書いてるヤツだろ。
/\ /\ <
>>25>>26 クソスレ
/ \ / \ | おめでとうございまーす♪
/ \_/ \ \_______
/ \
/ ヽ___ ___
/ / ヽ__/ \ / ゙Y" \
| │ / / \
| 丶/ / \
\ / ̄ ̄ ̄ ̄) * ( ̄ ̄ ̄ ̄)
ヽ_____| ─< |\ >─ (
| ) / (|ミ;\ ( )
ヽ  ̄ ̄) /(___人|,iミ'=;\ (  ̄ ̄ )
/" ̄ ̄ ̄ ̄ / 《v厂リiy\  ̄ ̄ ̄ ̄\
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/ / ミ/ .-─ .゙》z、 \
/ / 〔」″ノ‐ 、u ¨\ )
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゙|, .,| ./` ,r'′ vvvv、 |
.ミ、.` | 二、 〔 、 ,|
.〔 | .、 〔 rーー | |.,}
.ミ .′ .| 〕 .} ─-「 y-リ
.\ |, ´v,,,]、、、v- ..,/′
゙\ .\、 . _/
¨'ーvu,,____''工レ-
28 :
吾輩は名無しである:02/05/18 16:22
29 :
吾輩は名無しである:02/05/19 00:14
30 :
吾輩は名無しである:02/05/19 01:21
つーか、いまどきドリキャスかよ!!!
31 :
吾輩は名無しである :02/05/19 01:26
32 :
吾輩は名無しである:02/05/19 03:28
【AZUKI七 中村を突き放す?!】
ミュージック・ステーション終了後のインタビューで、GCボーカル中村は涙ぐんでいた。
AZUKI七がGC就任以降、GCではボーカルを務めている中村。
「ミューステ前半は楽しかったよ。チャンスも作ることができたし、
でもAZUKIへの注目が多すぎる。AZUKIに1、中村に9くらいの割合にしなきゃいけなかったね」と、笑顔なしでテレビ朝日への弁。
ところがMS放送中の中村ハートは別のところで揺れっ放し。
「タモリが見るたびに、中村はベンチの方を振り返ってた。
きっとボーカルを交代させられるんじゃないかと、心配だったんでしょうね」とは、GIZAスタジオスタッフの談だ。
中村は数多くのライバルたちの中で、「真ん中(指令塔)でやりたい」という気持ちと
「代表に残るためなら左サイドもできるボーカルにならなきゃ」という気持ちの間で揺れ動いたという。
そして、中村イジメともいわれるAZUKI七の仕打ちは日に日に厳しいものに。
17日のライブでは「中盤の攻め手なら6人はいる。中村をライブに出すくらいなら、ボーカルを代えることもありうる。
GIZAスタジオのルールが変わればいいのだけれどね…」とまで突き放した
33 :
吾輩は名無しである:02/05/19 03:33
34 :
吾輩は名無しである:02/05/19 05:58
【AZUKI七 悩みは関西マスコミ】
AZUKI七と岡本は悩みを抱えていた。
AZUKIファンの多い土地で生まれ、敵とも言うべき場所に飛び込んだAZUKI。
その悩みとは、「いかに1日も早く関西のマスコミに慣れるか」だった。
「本当に関西のマスコミは違いますね。関東は少し調子が悪くても、結構優しい目で見てくれるところがあったけど、関西は厳しくて…」
GCが不振にあえいでいた最中、GCギターの岡本が思わず弱気な言葉を吐いたことがあった。
岡本の中では、「FAという自分で選択できる権利を使って、選んでGCに来たのだから、間違いはない」と信じてきた。
だが、GCは自分が思っていたのとは、かけ離れた環境だった。
テレビを見ても、GCのMTVニュースは見なくなっていた。
「ライブがないときなんか、衛星放送で日本ハムの試合の中継があるとつい見てしまう」。
不振のとき、つい、現実から“逃避”したことも多々あるそうだ。
関西マスコミの怖さを岡本以上に実感しているのはGC監督AZUKI七。
29日の古巣Being戦で、ミス撲滅のために、「わたしはジャケット写真を撮る時必要以上にマスク効果を活用させている」とまで言い切り、関西マスコミを持ち上げた。
また、「倉木麻衣が最近の典型です。
ジャケットとマスコミが撮る通常の写真や映像映りの違いがいい例ですよ。昔からBeing系のレーベルはそうなんです。」
とどまることを知らないGCの勢いは何処まで続くのか?
優良スレ 普通 クソスレ
┝━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━┥
88彡ミ8。 /)
8ノ/ノ^^ヾ8。( i )))
|(| ∩ ∩|| / / <ココ!
从ゝ__▽_.从 /
/||_、_|| /
/ (___)
\(ミl_,_(
/. _ \
/_ / \ _.〉
/ / / /
(二/ (二)
>>35 その娘。みたいのAZUKIタンに似てる。w
37 :
吾輩は名無しである:02/05/19 10:16
上原あずみの「青い青いこの地球に」は上原とAZUKI七の共同作詞
だけど、例の「いえいえいえい・・・」の部分はAZUKIが加えさせ
たらしいね。
独特のセンスをしているよ。ファンの間では賛否両論だったけど、あの
部分のインパクトは強かった。
30歳前後という年齢のわりにはかわいい顔だけど、2か月前にテレビ
初出演したときはカメラ目線がどうのと言われて、実況スレでかなり批
判されてたな。
小説家だったら素顔でもすごい美人作家と言われたところだろうけど、
まるでアイドルのような扱いでしかもCDやプロモーションビデオの写
真を修正しまくってたから実際にテレビに出た時のギャップが激しかっ
たんだろう。
禿しく板違い。とっとと芸能板かミーハー板へ逝ってよし!
test
AZUKI七 っていうか読めないネーミングは感性が最悪。
42 :
吾輩は名無しである:02/07/05 22:16
なんて読むのかサパーリ
43 :
吾輩は名無しである:02/07/10 08:52
こしあんセブン
暇だから詞をみてやったけどたいくつな詞だった。
せめて椎名林檎の「歌舞伎町の女王」とか「弁解ドビュシー」
なんかを見習って一から出直せ。
>>44 /\
/ ヽ\
/ ヽ \ / \
/ ヽ \__ / ヽ \
/ ‐_ ヽ ―――__/ ヽ \
/  ̄ / __ ヽ \
|  ̄ \
| |
| || |
| ゝ_ |||/ |
| ( ・ ブ ゝ__ ┃ ┃ |
|  ̄ ( ・ ̄ ̄ ブ ┛ ┗ |
| ゝ__ ノ ━┓ ┏ | ┃ ┃
| __  ̄ ┃ | ┃ ┃
| | ̄ ̄ーヽ | ┃ ┃
| | ヽ |
| | |ヽ | ━┓
\ _⊥_ | | ┃┛
\  ̄ ̄ヽ_⊥ |
\ | ┏━┓
\ / ┏┛
\ / ・
| |
| \
/ \
/ \
やはり曲に乗せて聞かないと詞の
よさもわからんと思うよ。
>>37 CDのジャケットの写真は修正してないと思うよ。
「call my name」のジャケットのAZUKIさんは
かなり不細工に写っているからね。実際はもっと
美人なわけで。
見る角度、写る角度によって
色々な相貌をみせてくれる。
それはまさに「kaleidoscope」のようなもの。
kaleidoscope=絶えず変化すること(=「諸行無常」)
とはAZUKIさんが詞で表現したいことでもあるそうな。
何か画像見ると、昔の高橋由美子や裕木奈江、本上まなみのようなオタ受け
する雰囲気があるな。
例えばこういうフレーズ。
「悲しい気持ちがいつか流れゆくものなら
喜びもただそこにあり
また去りしものへと変わるでしょう」
(「Last love song」)
流れ去るものは悲しみだけでいいのに、喜びもまた同じように
流れ去って行ってしまう。その諸行無常の抗い難き流れ
の前では、悲しみも喜びもいわば「等価」なものだ。
喜びの数珠繋ぎ的な永続をとかく求めがちな我々の偏った欲望に
内省を迫る示唆的なフレーズではないでしょうか?
あげ。
らげスレで十分に思われ。
54 :
GIZA幹部:02/07/15 05:08
何か書いて下さいよ。
「哀しみはどこから来るの
喜びはどこへ流れてゆくの」
こっちの方が格段に上。
50の詞はごちゃごちゃしていて言わんとすることが
うまく表現されていない。才能感じないね。
56 :
吾輩は名無しである:02/07/31 00:42
サイケな少女がおれに囁いた
「虚しくない?」
そう、この世界は時に虚しいけど
王女様がおれに囁いた
「惨めにならない?」
あなたから見ればおれは充分惨めだよ
もう一度瞳を
もう一度愛を
マスクを外しておれにすべてを
今日もまたかなしい夜
人を奴隷にして楽しかったかい
充分癒されたかい
退屈からまぬがれたかい
自分を変えることが出来たかい
解放に繋がったのかい
天国らしきものは見れたかい
話し相手に困らなかったかい
糞スレッド
らげスレ、削除されてしまいました(w
強制的にTHE ENDになってしまった....。
8/14に新曲が出るから、それまで引っ張ろう
と思っていたのになぁ(誠に遺憾である)。
>>58 おおっ! らげ君、ひさしぶりだな。
ixionを文学板に呼び戻してくれよ。
ところで、文学板に限らないがGIZAアーティストの中でやけに倉木麻衣
のスレって多いよな。
B’zの歌詞って評価できると思わないか?
60 :
吾輩は名無しである:02/08/10 02:16
>>59 B'Zの歌詞か。
すまんが十分に聞いたことないので、なんとも言えない。
しかし、B'Zって人気衰えないな。
やっぱ、あのヴォーカルの力が魅力なんだろう。
倉木の魅力は、かすれるようなあの歌声かな。
あと、世間知らずそうな雰囲気とかがファンの心を
そそるのだろう。
ixionは.......まぁ、どっかにいるだろう。名無しでね。
>>60 ああ、夏休みだったね。今の季節。
そろそろ、お盆の季節なので、
「pray」なんかの味わいが増す頃だね。
>>63 そのスレは
>>60のスレよりまともっぽいけど、
乗っ取りは止めておこう。コテハンによるスレの
占有も削除理由になるみたいだからね。
しかし、らげスレが阿修羅スレより先に削除されるとはね。
阿修羅スレも削除依頼出されているみたいだから、時間の
問題だろうけど、削除するかどうかは中身をみてから判断
してほしい。スレタイにコテハン名があるから、機械的に
削除なのかよ.....。せっかく『千と千尋の神隠し』の感想文
とかも書いたのにねぇ。
それとなにより、もうすぐで1000だったのだから、それまで
見逃してくれてもよかったのではないかな。
65 :
吾輩は名無しである:02/08/10 23:57
>>64 ところで63のリンク先のスレにも書いてある「ロンチャーズ」について、
らげは哲学的にどう思うかね?
「ふたりと5人」に出てくる「哲学的先輩」のような風貌だと思われる
らげサンよ。
>>65 「ロンチャーズ」ね。
今、公式サイトをみてきたが、まぁ、普通の女の子たちが
アイドルになるまでの過程をフォローする企画みたいだな。
これを哲学的にいうと、「普通」とはオブジェクトレベル
に、「アイドル」とはメタレベルにそれぞれ対応するが、
この「ロンチャーズ」の女の子達は、そのアイドル(つまり超越的で
崇拝の対象となるもの)の定義には必ずしもあてはまらない人達
にみえた。彼女達はさほど美人ではないし、傑出したなにかがある
ようにはみえない。つまり彼女らは美や真のイデアから疎外されている。
しかし、にもかかわらず、彼女達はアイドルという超越的なステージ
にのしあがろうと夢中なのである。彼女達はアイドルになるには
あまりに普通すぎる。だけど、彼女達はアイドル(の卵)でもある。
このメタレベルとオブジェクトレベルの区別の失効が「ロンチャーズ」
のいわば特徴だと思うけど、この特徴はなにも「ロンチャーズ」に限ったことでは
なく、「モーニング娘」などにもいえることだね。
モー娘のメンバーはもとは普通の女の子だし、とてつもない美人の集まりではない。
だけど、にもかかわらず、彼女達はアイドル=超越的なのだから。
だから、こういうタイプのアイドルグループは、プラトン的なIdealismの
彼岸において出現するタイプのそれということになるだろうね。
むしろ傑出したものがない、つまり、普通っぽくて自分達と余り変わらない
ことが、かえってアイドルであることの条件であるような、いわば、
「自己否定的なアイドル」が「モー娘」であり「ロンチャーズ」なんでしょう。
あと、「ふたりと5人」にでてくる「哲学的先輩」ってなんだ?
おしえてくれ。
「モー娘」や「ロンチャーズ」のような「自己否定的なアイドル」の
プロトタイプといえば、いうまでもなく、「おニャン子クラブ」だね。
この「おニャン子クラブ」を仕掛けたのは、秋元康だけど、この人は
なかなか頭が切れる人だね、芸能界のなかでは。
石橋貴明を浅田彰に絡ませたのは、たぶん、この人なんでしょう。
68 :
吾輩は名無しである:02/08/12 09:21
hage
たぶん、このスレも削除依頼出されたら、
消えると思うよ。板違いだということで。
あと、妙に乱立している倉木麻衣のスレも。
しかし、文学板には自治厨がいなくていいねぇ。
哲学板の自治厨は法哲学とかやっている奴らなんだ
ろうな。
やけにルールとかにうるさいところをみると。
>>63のAZUKIスレで、AZUKIの経歴について
色々と書いてあったね。元モデルだとか、人妻だとか、
30才だとか。
これはこれで面白いけど、こんなことは、しかし
ある意味関係ない。
知っているかな、イエス・キリストは大工のせがれだし、
第一使徒ペテロは漁師のせがれなのだよ。
こいつらの経歴も相当いかがわしい。
しかしにもかかわらず、彼らは「聖人」なのだ。
だから、よく分からない経歴を持つ或る一人の女が、
何故かのようにattractiveな詞を書き得るのか?
これはひとつのパラドクスーーキルケゴールを悩ませた
所謂キリストのパラドクスと同様のーーなのである。
このスレは放置ですか?
>>71 いや、放置ではないよ。らげ君のカキコをちゃんと読んでるよ。
らげ君は何歳なのだ? 大学生ならどこの大学?
東京周辺に住んでるのか?
俺は実況スレでキタ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━ !!!! とか書いてる
のが楽しくて、文学板にはそれほど書き込まないが。
らげ君が童貞を捨てていたらかっこいいと思うのだが。
SEXもしていて、これだけ哲学的カキコもできるのだったらすごい。
>>72 とりあえずPoliceに通報しました。
(因みに、私は援助交際にお世話になっております....。)
顔が精神疾患になやまされているひとっぽい。
>>74 そうだね。
離人症の疑いがあると、俺は睨んでいる。
現に詞もそういう詞が多い。
だから、らげスレではAZUKIの詞に哲学的というより、
むしろ「精神分析」的にアプローチしたつもりだった。
そして、その症例への"処方せん"も出したつもりだけど。
77 :
吾輩は名無しである:02/08/14 03:47
らげって援交するんだ・・・
だから、AZUKIは所謂メンヘル女だといっていいが、
しかし、そのメンヘル性が一つの魅力にまで昇華
していることが、重要だと思う。
>>77 哲学板で援交といえば、俺のことを指す位なのだよ。
(ソープといえば、チンポ太郎だね)。
しかし、援交はなにぶん金がかかる。
なので、最近は「美竹涼子」にお世話になっているよ。
79 :
吾輩は名無しである:02/08/15 20:05
らげはこじき
>>79 俺のことはいいから、AZUKIの詞について
なんか書いてやれよ。
81 :
吾輩は名無しである:02/08/16 01:55
このスレは「らげスレ」に変わりました・・・
そのうちに「らげとixionのホモ行為を実況するスレ」に変わります・・・
俺はこれから『小林秀雄初期文芸論集』と
『花田清輝評論集』を粛々と読む。
(2・3日後にamazonから届く。)
柄谷・大澤路線から少しばかり逸脱したいのでね。
しかし柄谷行人の『日本精神分析』と大澤真幸の
『文明の内なる衝突』はもう読んだけど。
>>81 言っておくが、ixionのほうが俺より遥かに
頭はいいと思うぞ。
だから、俺とixionでは不釣り合いなのだよ。
俺は柄谷行人と大澤真幸と広松渉しか読んでないしね。
>>82>>83 小林秀雄って評論はすごいが、最初期にちょっと書いた小説を読んだら
ヘタで笑えた。
広松渉も早死にしてしまって惜しかったな。
花田清輝って吉本ジジイと大論争して負けたんだよね。吉本ジジイって
Azukiの歌詞についてらげと同じように大真面目で論じそうだ。
元詩人だし。いや、本人は今でも詩が本業で評論が副業だと思ってるかな。
こじきでホモで、ぶっといウンコをするらげ君よ。
ロンチャーズの宇田川はやめちゃったしな。らげ君のテレビはBS朝日は
見れるのかい?
>>84 ああ、確かに吉本隆明ならやっても違和感ないな。
『電波少年』に出るほどの猛者だからね、吉本は。
あれはすごかった。松本明子が「吉本隆明って誰?」
って聞いて、スタッフがカンペで「戦後最大の思想家」
と出して、スタジオ全体が一瞬引いたのを覚えている。
あれは面白すぎたな。まぁ、しかし、
新左翼の所謂「自己否定」ってやつを別の意味で
吉本なりに徹底させた結果だろうとは思うんだけど、あれは。
(『電波少年』には村上龍やアラファトとかも出たことある
から、ある意味すごい番組ではあるな。『電波少年』の
スタッフには崩れ左翼が数名いると思う。
テリー伊藤みたいな奴がね。でないと、ああいう番組作りは
できないよ。)
ちなみに、俺のテレビはBS朝日はみれないよ。
『朝まで生テレビ』でのテリー伊藤と西部邁の
絡みも面白かったけど、二人とも出なくなって
つまらなくなったね、あの番組は。
宮台真司と西部の喧嘩も最高に笑えたな。
『朝生』常連の辻元清は今や逮捕されて、犯罪者だよ。
.....田原総一郎よ、数々の思い出をありがとう(w
「スパイラル」は「Naked Story」や「スカイ・ブルー」
の系譜に連なる詞だね。
この系譜の詞はAZUKIの詞の持ち味である「諸行無常観」
が余り垣間見ることができないので、「AZUKIらしくない」
との印象をうけるのだが、しかし、この系譜の詞は
決して「AZUKIらしさ」を喪失はしていないということは、
既に哲学板のらげスレで書いた通りである。
要点だけいうと、この系譜の詞は、永遠の世界を求める
ことのほうに無常の虚しさをおぼえる時にあらわれる
ような詞だということだった。
焦眉の「スパイラル」においても「今いる場所」や
「存在する現実」が強く肯定されていて、
「永遠の世界(あの世)」ではなくその対項である「この世」
で生の充溢を得ようとする意志が描かれている。
ここにあるのは、永遠の世界を求める余りこの世を虚しいと
感じる態度ではなく、永遠を志向すること自体が虚しいと
感じる態度であって、その結果として、この世が肯定される
運びとなったのだ。
つまり、虚しさを感じる対象がこの世から永遠の世界に
転じる時、「スパイラル」のような詞が生まれるのである。
そして、その転回を可能にするのは我々の実存はこの世
でしか決して展開し得ないという「世界ー内ー存在」への
痛切なる覚識からなのであった。
>>87 しっちめんどーくせぇ言い方しなくとも、
俺らは皆、この世でたった一度限りの生を生きて死ぬ、と
誰もが痛感してっから、詩を書き詞を書き歌うし踊るし、創作をし、
遊びながら生きて死ぬんだよ。わかりきったことじゃねーか、フン。
>らげ
オマエの頭の程度は、とっくに露呈してる(w
哲学板へでも何処へでも逃げ帰って、おとなしく井戸の底で
独りごと言ってなさい。それが一番キミには似合っている。
ほんの、ほんのちょびっとでいいから「汝自身を知れ」だす罠。
ニーチェによれば「超人」とは単純に「子供」
のことであった。ところで、
「スパイラル」には「宇宙のchild」という言葉や
子供の頃の記憶(想起)が描かれている。
従ってこの「スパイラル」が一体どのようなフェーズに
位置しているかは、もはや多言を要しないだろう。
>>88>>89 「夕立の庭」については、諸君が語ってくれ。
猶予は一週間以内だ。たのんだぞ。
(藁)
よその板へ出張ってきて仕切るヤシ。二度と戻るな、逝ってよし!
>>90 哲板でよほどぶっ叩かれて、逃げてきたな、さては(w
文学板でも特異な閑古のこのスレに連書きして、
ようやく憂さ晴らしか? 単純な奴、哲板じゃ無理なんだろな(w
ほらほら、こうしている合間にも、タイムリミットは
刻一刻と迫ってくるのだぞ。
「夕立の庭」の歌詞は邦楽板のGARNET CROWスレ
に確かUPされていたから、それを参照してくれ。
まじで期待しているぞ。
しかし、諸君、「今いる場所」から始めることは
予想以上に困難なのだよ。
なぜなら、人の意識は、「今」に限らず「過去」「未来」
に自在に飛躍しうるからだ。意識が「過去」「未来」に
捕らわれている時、自明のはずの「今」は案外みえなく
なっているものだ。特にAZUKIは意識が「過去」「未来」
に飛びがちな人なので、AZUKIが「今」という時間性に
腰を据えるような言葉を綴ることは、この限りで新鮮な
響きをもっているのだった。
時間を「過去」「今」「未来」と捉えるのではなく、
「今」の連続として時間を捉える時、「スパイラル」系統の
詞が紡ぎ出されるということなのだろう。
ここには、時間感覚の一つの転回(ベルグソン的な転回)がある。
95 :
吾輩は名無しである:02/08/18 01:54
「ベルグソン的転回」!!!
AZUKIが演奏中にニヤニヤ笑いをしてるのも・・・ベルグソンの論じた
笑いの本質に無縁ではあるまい。
らげ君は野グソはするかね?
>>らげ
オマエのカキコは、文学板的に読むに耐えない糞カキコ。
つまり、まったく身についていない本からの受け売り語で
ゴタクを並べて独りでヨガっているだけの、内容なし、文体なし、
意味なし、スレ汚しカキコ。わかったら、さっさと
厨房板へ逝って修行しなおして来いや。どれほど連続カキコ続けようと
誰も読んどらせん、文学板の住民はクソを見分ける眼があるんや、
クソは放置なのよん♪(藁
>>95 この世に便所がなくなったら、
野糞をするほかあるまい。
>>96 繰り返しになるが、俺を叩くことは俺を喜ばせること
にしかならないぞ。
ラゲって何でイクシオンとセットに語られたりするの?
99 :
吾輩は名無しである:02/08/18 02:50
>>98 ixion・・・文学板のボス
らげ・・・哲学板の自称ボス
100 :
吾輩は名無しである:02/08/18 02:50
>>97 らげは100ゲットについてどう思うかね。
101 :
吾輩は名無しである:02/08/18 02:53
らげは援助交際をしてるそうだが、小学生とも援交してそうだな。
女子小学生とガンガンSEXしまくるらげは、「哲学者は性欲が無さそう」
という従来のイメージを変えた。
らげ君。小学生のマンコは、やっぱりキツいのかい?
102 :
吾輩は名無しである:02/08/18 02:56
三一書房の「哲学・論理用語辞典」のように、中学生でも理解できる言葉
で哲学を語ってくれよ、らげ君。
>>100 1000getよりは価値が低いが、
10getよりは価値が高い。
>>101 俺は女子小学生より、美男子のほうが好きだ。
>>102 俺のカキコは常に入門的なはずだが。
104 :
吾輩は名無しである:02/08/18 03:25
らげは援助交際だけでなく、素人の女を彼女にしてSEXしたことはあるかね。
Å
/ \
( )
ノ( * )=3
ノ ωヽボン
>>104 素人の男とならあるぞ。
「愛について語る男はジェンダー障害だ」(ロラン・バルト)
とはよくいったものだ。
107 :
吾輩は名無しである:02/08/18 03:44
ホモなのに、女子小学生と援交したり、AZUKIのファンになったりす
るんかい!
というか、バイなのか。
ジェンダー障害って・・・文学板なのだから芥川賞作家・藤野千夜について
語ってもらいたいものだ。
Å
/ \
( )
ノ( * )=3 >らげ
ノ ωヽボン
>>107 そうだね、基本的には男好き。
だから俺は「AZUKI萌え〜」とはまず言わない。
しかし、時々、ジェンダーが入れ替わるので、
その時は援交のお世話になったりしている。
まっ、俺が三つのペルソナをもつと言われるゆえんだね。
あと、藤野という奴はしらん。不細工ならなお却下。
それにしても、文学板の諸君は下ネタが
好きなようだね。
そんな諸君にオススメなのは、
大澤真幸の『性愛と資本主義』(青土社)だ。
しかし、残念だが同書には脱糞の理論的分析は
出てこない。
その点に関しては別の書をあたってくれ。
111 :
吾輩は名無しである:02/08/18 04:49
けきょくらげさんは名詞の人なのよね 利用の人なの。
Å
/ \
( )
ノ( * )=3 >らげ ←美香と同等の独りヨガりDQN
ノ ωヽボン
113 :
吾輩は名無しである:02/08/18 05:14
らげは哲学板ではボスだったかもしれんが文学板ではボスにはなれないな。
ここ数年の芥川賞受賞者でもかなり話題になった作家すら知らないんじゃ。
>>113 哲学板のボス? とんでもない!!!(w
哲学板でも嘲笑の的だったです<らげ
だもんで、逃げ出して文学板へ逃避して来たと思われ(w
あっちで安泰なら、こんなとこにミジメったらしく連書きする必要なんか
まったくな〜いじゃありませんか!(w
115 :
吾輩は名無しである:02/08/18 05:25
らげは、らげ自身がうんこをひり出すところとションベンをジョーと放出
するところをビデオに撮って、ビデオテープをGIZAのAZUKI宛に
送れ!!!
前の日にトウモロコシを食って、うんこにはトウモロコシが混ざるように
しろ。
ションベンをするシーンでは、ビデオの画面に「小便小僧のマネ」という
字幕を入れろ。
脱糞・放尿シーンをAZUKIに見てもらえるなんて嬉しいだろう。
送るときに同封する手紙には、「お返しとして、AZUKIさんの脱糞・
放尿シーンを撮影したビデオをください」と書くのを忘れるなよ。
116 :
吾輩は名無しである:02/08/18 05:27
>>116 ボスなんぞ 作るほど愚でなし 叡智板=哲学板 (w
118 :
吾輩は名無しである:02/08/18 05:34
『自称』哲学板ボス・らげ←ホモ・うんこ漏らし・キュウリが食えないバカ
>>118 それは…厨房板の煽り。文学板なら、もちっとマシな
文学的表現で煽りもやれ。そーでないと、馬鹿と同じだ。
120 :
吾輩は名無しである:02/08/18 05:38
らげは、キュウリだけでなく、ウリ類・・・スイカ、メロンなど、全て食えない。
メロンが食えないやつって初めて会ったよ。
らげはキャベツも食えない。とにかく生野菜は食えない。
25歳過ぎても童貞。しかもキスすらしたことがない完全童貞。
潔癖症の割りに、見た目が不潔っぽい。
身長175cmだということをしつこく自慢する。175なんてそんなに
すごく高いわけでもねえよ。
おまえら、
面白い。
すいません、すべて自作自演でした。
123 :
吾輩は名無しである:02/08/18 05:52
>>122 約2名しかレスしていなかったからといってウソつくな!
115に書いてあることはちゃんと実行しろよ!
ウンコをひり出せ!
文学板って良板ですね。
感心しました。
>>124 尻尾を巻いて、とっとと逝ってよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜し!
らげ+おまえら、
面白すぎ
127 :
吾輩は名無しである:02/08/18 18:34
らげは、ペニス・金玉のドアップ写真を撮って、大阪市西区北だか南だかの堀江
GIZAstudio内 AZUKI七 宛てに送れ!!!
かわりにAZUKI七のマンコドアップ写真を送らせて、このスレでアップしろ!
128 :
吾輩は名無しである:02/08/18 18:49
らげは6時まで起きてたせいか、ずっと寝てるんだな。
オレも起きてたけどちゃんと9時に起きたぞ!
今日も朝から夜まで丸一日2ちゃんねるだ。
らげも丸一日AZUKIでオナニーしまくるくらいのことはしろ!!!
129 :
吾輩は名無しである:02/08/18 19:00
5 :らげ@援助交際 :02/03/03 07:48
簡単に問題点を整理すると。。。。。
「静態的現象学」→所与は超越論的主観性によって「構成された」ものだということが
還元を経た「事後」に意識化される
・・・文学板・邦楽板で「AZUKIのオシッコ飲みた〜い」とか言っている
いつものらげとは、まるで別人だな。
>>127-129 「らげ」のジエンか? じゃないなら即やめれ。また馬鹿が
舞い戻ってくるだけだ。
131 :
吾輩は名無しである:02/08/18 19:11
>>130 ジエンに決ってる、ミエミエ(藁
「らげ」つーのは相当単純な低脳のようだな(呆れ
削除依頼出しといたぞ、おまえら。
133 :
吾輩は名無しである:02/08/18 23:25
>>132 削除なんかどうでもいいが、ウンコひり出し写真をちゃんとGIZAへ
送れよ!!!
134 :
吾輩は名無しである:02/08/18 23:27
自ら居場所を無くしてしまうらげってバカだな。
このスレなくなっても邦楽板のスレには書き込まないでくれ。
ほーら、舞い戻ってきた(w
哲学板を追い出されて、厨房板でも叩かれて、ヒッキー板では
苛められて・・逝くとこないってか? ミーハー板へどうぞ
136 :
邦楽板住人:02/08/18 23:44
>>135 哲学板でらげが何をやったか知らんが、らげは邦楽板のGARNET CROWのスレで
単なる荒らし以上にウザい書き込みをしまくってたんだよ。
らげは文学板に押し込めておくのが一番だ。
AZUKI七のスレだろ、ここ。
俺のことはいいからさ、
なんかAZUKIについて書いてくれよ。
そうしたら、以後俺は書き込まず、
ROM中心にしてやるからよ。
頼むぜ、マジで。
138 :
吾輩は名無しである:02/08/19 00:03
>>137 このスレだったらいくらでも書き込んでくれよ。
らげは哲学的文章じゃなければ意外と面白いことがわかったし。
らげが書き込まないとdat落ちだ。
オレは中村由利のファンだからAZUKIについてはあまり書きたくない。
100レス突破したから、もういいだろ。
あとは任せたぞ。
まぁ「夕立の庭」についてでも語っててくれ。
あと、邦楽板のGCスレには書き込まないから、
安心していいぞ。
邦楽板の小豆スレは書き込みが少なくらげの手も借りたい
邦楽板のAZUKIスレに一つ書き込みしといたぞ、
お前ら。しかしそのせいでレスが止まってしまった
じゃないか。責任はとらんぞ、俺は。
ところで「夕立の庭」については何かないのか?
お前ら。俺はお前らの要求には真摯に応えている
のに、お前らは俺の要求には何も応えないのか?
所謂「印象批評(良いか悪いかだけをいう批評)」
でいいから、何か言ったらどうなんだ、お前ら。
「分析」することだけが批評ではないのだぞ。
印象批評も「総合」的批評といって、立派な批評の方法
なんだよ、お前ら。むしろカント的には、分析より
総合のほうが高い判断力なんだから、俺のやっている
分析的批評などある意味低レベルなんだよ。
分かりきったことことをそのまま言うのが分析という操作
で、「赤いリンゴは赤い」というのが分析なんだよ。
くだらないだろ?なにせトートロジーなんだから。
144 :
吾輩は名無しである:02/08/21 00:59
らげは邦楽板で「文学板でもうんこネタは即刻中止せよ」とほざいていたが、
ならば、うんこネタではなくうんちネタをやるぞ。
排泄物はともかくとして、らげは、らげ自身の性器の写真をGIZAstudioに
送れといってるのに実行したという報告がない。
即刻撮影し郵送せよ! この俺様からの命令だぞ!!!
>>144 相当なチンポコンプレックスだな? 人の見て、安心したいってか、
…馬鹿なヤシ、うちのめされて死にたくなるかもしらんぞ、
らげみたいな阿呆は存外チンポだけはデカかったりする…(w
>>145 ゲゲッ! 鋭いな。
実は俺は勃起不全というか、急性インポテンツだ。
これが冗談ではなく、マジなのでシャレにならんな。
俺はらげに恥をかかせたいのではない。らげの馬ほどの大きさのチンポを
見たAZUKIがらげに会いたいと思うはずだと考えたのだ。
らげは哲学’風’の小難しい屁理屈をほざいているが、結局のところ「AZ
UKIと性的な交渉を行える身になりたい」と考えてるにすぎないのだ。なら
ば、らげの望みをかなえてあげましょうと、ヒントを与えたまでだ。
おまえら、いい加減にしろ!
さもないと竹原慎二と大和龍門と佐野実を
ここによんでくるぞ。
148 :
吾輩は名無しである:02/08/21 01:46
神輿藤井はもう時代遅れですか。。
149 :
吾輩は名無しである:02/08/21 01:50
>>147 三人とも電柱みたいな陰茎、サッカーボール程の大きさの睾丸なのか?
どんなに巨大であっても、らげの横浜マリンタワーみたいな陰茎、ガスタン
ク程の大きさの睾丸には勝てまい。
つーか、梅宮最強。
ホモにはね。
151 :
吾輩は名無しである:02/08/21 01:52
ビリー・睾丸
152 :
吾輩は名無しである:02/08/21 01:53
梅宮は漬物屋.
漬物屋最強.
あと、リチャードもなー
154 :
吾輩は名無しである:02/08/21 01:55
りちゃーどは草加煎餅.
時代は平成ですが何か?
勘違いするなよ、おまえら。
俺はAZUKI萌えではなく、梅宮萌えだからな。
よくおぼえておけよ、
コモンセンスだからな。
158 :
吾輩は名無しである:02/08/21 02:05
よくおぼえておこうと思うけど寝て起きたら忘れる罠.
おまーら、タマには竹内久美子でも読んでみやがれ。
逆立ちしたってな、種族的DNAの限界を突破できゃせんのよ。
チンポ比べだら、デカタマ比べだらやったら・・・
モンゴロイド<<<<<<<<<白人種<<<<<<<<<<アフリカ系
機会あったら並べてみれ、
そらもう父と子というか馬と鼠というか・・・話にも何にもならず
うなだれてチン黙しかスベがない。
DNAは哲学をはるかに凌駕して非情であるのだ。泣けっ!!
梅宮の住所ならまじで知りたい。
だれかおしえろ。
161 :
工藤伸一 ◆j1HkWi6c :02/08/21 02:18
ガーネット・クロウのキーボードの人って、芸歴の長い方だったんですね。
テレビ出演時の余裕のある微笑の理由がわかってすっきりしました。
「おまえら」とか、「おしえろ」とかいうの、やめたほうがいいよ<らげ
さぁて『資本論』でも読んで寝るかな。
>>164 黙って、消えて、寝ろ(w
どうしても「自分語り」をせずにおれないビョーキ<数人のDQNコテハン
厨房の証拠だわな(w
ションベンして寝ろ。>らげ
>>164 そういや、Rageは哲学板のマルクスレで
ほとんど書き込みしていないのにも拘わらず
嫌われていたんだな。さして不思議でもないが(w
(いつになったら、このスレはAZUKI七スレに
なるのだろう....)
らげ
170 :
吾輩は名無しである:02/08/21 22:11
梅宮って梅宮貴子か?
らげは文学板の石川誠壱になりつつあるな。
「キンタマのでかいらげです。AZUKI七のブリヌリウンコを食べたい。哲学を語るし。」
お前らよぉ、お前らの潜在的欲望を俺に投影するの
もう止めろよな。恥ずかしい位、見え透いているぞ。
本当は嬉しいくせに
三つのペルソナを持っているらげちゃんよ
つーか、不必要に俺の名を出すことは以後禁止。
そんなことより、事象そのものへ向かえ、お前ら。
つまりお遊びはもう終わりということだ。
というわけで
終了
以後はAZUKI七の話題でお楽しみ下さい。
ラ下の前にラ下はなし。裸下のあとに裸下はなし。
放置
ああ、汝、我に石を与えんとするか?
さすれば、我、汝に金を返さん。
世界の境界に起こりし、この転倒。
燃ゆるかに数は膨らみゆき、そして、
断罪の日、いつか来たらん。
すいません。謝ります。ごめんなさい。
180 :
吾輩は名無しである:02/08/22 17:26
らげはまず、アンテナを立ててBSを見れるようにしろ!
CSのアンテナも立ててスカパーの272も見れるようにしろ!
ロンチャーズも見ず、272も見ず、おそらくメッチャEやベストオブJグルーヴ
も見ていないんだろう。
印刷された戯曲を読むだけで実際に劇として上演されたのを一回も見たことがな
い演劇評論家はいないだろう。らげもAZUKI評論家なら、せめて30日に地上波
のテレビに出るときは見れ! どうせこの前のMステも見てないんだろうし。
>>180 いやいや、この前のMステはしかと見たぞ。
AZUKIのあの半笑いとカメラ目線は、AZUKIの
芸歴の長さからくるものだ、という工藤伸一の指摘
に納得だな。つまりあれはテクニカルなものだったんだよ。
先天的な白痴性からくるものではなくてね。
.....とまぁ、秘密が解ってしまえば、もうつまらないだろ?
だから、あんまり情報の暴露はしないほうがいいんだよ。
しかしコマーシャリズムとジャーナリズムがそれを
許さないのだがね。なんつーか、
AZUKIについての情報量が増えれば増えるほど、AZUKIへの
関心度は低下するんだよ。だから、AZUKIへの関心を持続
させるためには、AZUKIについての情報を増やしては
ならないんだ。
俺が基本的にAZUKIの「詞」しかみない理由なのね、これが。
俺がAZUKIについての情報量がゼロだった時、
GCの作品を一番純粋に享受していたと思う。
だけど、俺のレンズはもう汚れてしまった。
情報で汚れたレンズはもう光を反射することはない。
いまいちど、レンズをまっさらに磨く必要があるという
ことなのさ。つまり、
俺は今以上に「阿呆」になるつもりなのだ。
ほんとすいません。ごめんなさい。
邦楽板のAZUKIスレ削除以来出されたらしい
が、スレ内容によっては生き残ることも可能だ
そーいうことでGC以外のAZUKI詞についてらげるのだ
よろしく
おうよ、任しときなっ。
邦楽板のAZUKIスレを救済すべく、
カキコしてきてやったぞ。
>>90から一週間もうすぐたつぞ、お前ら?
やっぱ駄目なの?
この前のMステで中村が健康ヲタだというのを
はじめて知った。
ところで、健康とはなんでしょうね、諸君。
哲学的には、健康とは意識の同一性に身体を従わせること、
といえるだろう。
健康とは身体のためと思われているが、そうではない。
それは意識のためにこそある。身体は時間とともに老化
するが、意識は時間とともに老化はしない。
時間的存在たる我々の実存は、意識と身体の合成体として
あるが、そこには時間とともに変化するものと変化しないもの
との共存がある。しかし、この共存は同時に矛盾でもあろう。
変化するものと変化しないものとが単一の実存のなかに
同時に帰属しているからだ。
そして時にこの矛盾が心理的「不安」として暴れだす。
意識の不変性に身体の可変性を従わせよ、とその不安は
命じる。そうすることで、矛盾はなくなるからだ。
永遠に若い身体を意識の永遠の若さは恋焦がれるのだ。
無論、「スパイラル=DNA」が身体の死の宿命を予告している
のにも関わらずにである。
健康マニアの中村は、それ故、意識の命令に忠実なのだが、
老けることになんの抵抗を示さないAZUKIは、逆に、
意識の命令に忠実ではない。
というより、AZUKIには無意識しかない。
AZUKIの「老け」は身体の死という宿命を素直に受け止めた
結果なのである。
また例によって謝っておいてね(w
189 :
吾輩は名無しである:02/08/24 09:14
>>187 らげの文章にしてはひさびさにマトモだ。
ヤベエぞ、マジで「成長線スパイラル」って聞こえる。
つうか、それ以外に聞こえなくなった。鬱だ。
>>189 そうか。マルクスの文体模写をした甲斐があったな。
やはり日本文化を異文化として享受すること
には無理がある。
近すぎて、親密すぎて、距離を喪失してしまう。
そこには対象性(実的感覚)喪失の虚しさしかない。
それ故日本人(東洋人)には西洋文化が必要だ。
所謂「洋楽好き」とは単にかっこつけているのではない。
異文化であることから来る分かりにくさに、彼らは
魅了されているのだ。洋楽の分かりにくさは我々に
とって容易に消化しきれないものとして、それは確かな
対象性をもつ。その対象性の実感に彼らは手応えとともに
抑圧感に似た快楽を感じているのである。
異文化のもつ他者性と外部性。
鎖国にあった江戸に開国とともに押し寄せた西洋は、
抑圧者であるとともに感性の解放者であった。
メシア的なものの到来とは単に異質なものの到来を
意味しているに過ぎない。
それは自家中毒を治療に来た医者みたいなものにすぎない。
そのためには我々は国内で払わねばならないよりも
多少高い治療費を必要とするのみである。
つまり文化というのは輸出品なんだ。
「国内向けの文化」などは単に形容矛盾である。
だから西洋文化を輸入することは大いに結構なこと。
それに「毒される」なんてことはない。
本当に人心を毒すものは国内向け文化という
バッタもんのみなのだ。
うちの馬鹿息子がご迷惑をおかけしております。ほんとにすいません。
194 :
吾輩は名無しである:02/08/25 19:09
困るんだよね。お母さんのほうからもよく言っといてね。
195 :
吾輩は名無しである:02/08/25 19:15
らげは両親がいなくて孤児収容施設で育ったはずだぞ。
コインロッカーで産声をあげた。
はい。らげのほうにはよく言って聞かせますので。
ほんとにすいません。
>>195 オランダかドイツでは子を捨てることが
法的に許されているらしく、そのための
施設もあって、子を育てられない親が実際
子をその施設に捨てにくるらしい。
人間に限らず、動物の世界にも「子殺し」という
現象があって、例えば母猫がお産の苦痛を与えた
子猫に逆ギレして我が子を噛み殺すことがあるという。
母子の愛というやつも多分に偶然的ということだな。
芥川の『河童』にそれを皮肉るようなシーンがあるよね。
これから生まれてくる子にこそ、生まれてきたいかどうかの
選択権が河童の国にはある、と。
例えば世界の在り様とか両親の気質を子供が見極めた上で、
生まれてきていいかを子が選択する。
世界情勢や親がどうしようもなかったら、生まれて
こなくていい権利が子にあっていいのでは?という芥川の
痛烈なアイロニーがそこにはある。
もし芥川にもその権利があったら、芥川はこの世に生をうける
ことを間違いなく拒絶しただろうな。
それは芥川のエッセイやアフォリズムを読めば、わかることだ。
つまり実際は子は親を選べないということだ。
それは親子関係に限ったことではない。
職業や学校や性なども事実上選べないに等しい。
例えば小説家になりたくてもなれなかった人や、
東大に入りたくても入れなかった人や、女に生まれた
かったけど男に生まれた人などはこの世に沢山いる。
「選択の自由」など美しいフェイクに過ぎない。
芥川はこの選択の自由から疎外された人たちの
行き場のない憤りを掬いあげていて、そこに芥川の衰えぬ
人気の秘密があるといえる。実際芥川自身も狂人の母の
子として生まれたことにどうしよもうない先験的な暴力性を
感じていた。しかしその超越的な暴力への可能な限りに抵抗も
芥川はなしてもいる。それが彼の自殺だった。
この抵抗の様式はプロレタリア革命などよりも遥かに深刻で、
そして悲しい。選択の自由というブルジョワ的観念など
いかにこの世の結構から遊離した夢想に過ぎないか、という
ことを自らの死と引き替えに自証してみせたのだ。
.....という芥川龍之介論を小林秀雄は書かずして、
芥川を適当にあしらったのなら、小林は単に馬鹿だと
いうことである。
(ミヤケンなどは無論、論外だ。)
まぁ、しかし、小林的には、芥川は「選択できなかったこと
の選択」という「運命の受容」を生きることができなかった
弱者ということになるのだろうか。
運命愛の欠如としての芥川の生。
しかし、小林の運命は芥川が突き付けられた運命よりは
恵まれていたと言わなければならない。
200 :
吾輩は名無しである:02/08/26 02:22
>もし芥川にもその権利があったら、芥川はこの世に生をうける
>ことを間違いなく拒絶しただろうな。
>それは芥川のエッセイやアフォリズムを読めば、わかることだ。
らげよ、安易にわかるとか書くなよ。
>>200 そうか。しかし、芥川本人は
「人生の悲劇の第一幕は親子となったことに
はじまっている。」(『イ朱儒の言葉』)
といっていたりする。なので単なる独断ではない。
202 :
吾輩は名無しである:02/08/26 03:55
生まれた以上は親がいるのは当たり前。
実際のところ芥川が悲観していたかどうかはらげにはわからない。
芥川とらげとでは見てきたものと感じてきたものと感じ方が違う。
言葉はフィールを正確に表現出来ない。
正確に表現出来ると思ってるヤシは単なるアフォリズム。
独断じゃないかも知れんが、マンマ信じるなyo。
203 :
らげ@ ◆qoVUMoeA :02/08/26 04:22
ああ、そうだね。
疑おうと思えば、芥川の実在さえ疑える。
この目で実物を見たことないし、それ以前に
その目が錯覚をみていない証拠もどこにもない。
だけどこういう懐疑のための懐疑は単につまらない。
というより馬鹿げている。
仮定で議論していけない理由もまたどこにもない。
テクストしか存在しないなら、テクストを信頼するほかなし、
ということ。
俺は芥川のテクストの背後に「本当の芥川の意図」
など想定してはいない。しているのは、芥川の
意図など芥川以外の誰にも解らないといっている
人のほうである。しかし本人以外誰にも知りえないものを
想定するのはほとんど冗長である。
本人以外に知りえない「私的言語」などは存在しないに等しいことは
ウィットゲンシュタインの私的言語批判によって既に明らか
ではなかったか?
存在しないものについては沈黙するほかない。
だから、存在するテクストを仮定的に信頼し、テクスト
について語るのみ。
無論、仮定だという留保を常に念頭に置きつつにだ。
>「らげ@」君とやら
君は病的だな。嫌な性格だろ、自分でも。
ヒッキー生活が長いとそうなる。早く病院逝け。
ひきこもりがあまり長引くと、
そうやって様々な症状が現れて君が本来もっている様々な美質まで
捻じ曲げ、暗く陰鬱で陰気な粘着質に変えてしまう。
カキコも、牽強付会で、ただただ、君自身深く抱えこんでいる
心裡的病疾だけが無惨に露呈されている。芥川とは無関係の、
君自身を投影した個人的カキコで、
文学的には全く無意味な内容。芥川がいい迷惑だ。
スレに粘着し、
見知らぬ相手へ向かってミジメな自己主張するのをやめて、
少し、自分自身を見つめてみろ。・・怖いか?
それが怖いから、ネットに逃げている・・・か・・そうだろうな。
通りすがりだから、書き込んだままになってすまんが
悪いことは言わないから、専門家に会いたまえ、
道は開けるよ。
てすと
てすと
めでたく200レス突破したな。さあ俺を引き続き
どんどん叩け。さすれば300レスも夢ではないぞ。
理性の狡知に進んで弄ばれろ。
test
212 :
吾輩は名無しである:02/08/28 22:01
夕立の庭の夕立の意味は、涙の雨である。と同時夕暮れの後に来る夜=先のみえない暗闇への不安の謂いでもある。
213 :
吾輩は名無しである:02/08/28 22:12
>>210 おれは叩いてないぜ。応援してるぜ。
みんな「おさむ」を叩くのに行っちゃってるからな。
らげはこのすきにガン・ガン、カキコしろ。
自分が叩かれないためには、他人を叩いていれば
一番いいというやつだよね、全く。
まさに悪循環だ。
これをマジレスとマジレスとの応答による
好循環に変えれれば、いいのだが。
「他者叩き」について、ジジェクはこういっている。
たとえばネオナチの若者は外国人を叩く。
その理由を精神分析的にあるいは社会心理学的に
説明することはいくらでも可能である。
実際逮捕されたネオナチの奴はそう語るという。
彼らは逮捕された途端、したり顔の良識派にかわる。
そして「他者叩きは単に気分爽快!」という<イドー悪>の
真理はまたしても巧みに隠蔽されるのだ。
精神分析的説明は暴力への裁断には無力である。
精神分析ほど暴力が人にとっていかに根源的かを明かした
理論はないからである、と。
「攻撃は最大の防御なり」という格言がある。
他者を叩くということは紛れもない攻撃行為だが、
攻撃する主体はその時、逆に防御(守り、保守)の
立場にたっている。だから、攻撃ということは
安全性を撹乱するようにみえて、実は守りによる
安全性に最もとりつかれている。というより、
安全性という観念が過剰な暴力を生み出している
というべきである。
ところで、ナチスはその安全性という観念を大変
重視したといわれる。彼らの戦争の大義は、ゲルマン
民族の安全な生存圏の絶対の獲得にこそあったのだ。
つまりナチスは自分たちの絶対の安全を得るためにこそ
敵の完全な撲滅という戦争に訴えた。
「戦争(攻撃)」と「安全(守り)」という相互に矛盾し
あうものが、ここいおいてメビウスの帯のこどくリンクする。
この奇妙なリンクに切断をもたらす術は何なのか?
(ニーチェ的には攻撃という名の完全な守りを行ったナチス
こそ弱者といわれて然るべきである。だから、彼らが
ニーチェを崇拝することはほとんど喜劇であろう。)
>>214-215 まさにお笑い界ではロンドンブーツがこれに該当するといえよう
自分たちでは面白いことを言えないから他者を馬鹿にすることで笑いを取り自分たちの芸人(と呼ぶほど奴ら芸をもっとらんが)生命の安全を確保している
>>216 ロンドンブーツは他人を叩いて自己の安全を確保
すると同時に、先輩芸(能)人をヨイショすることで、
さらに自分たちの立場の保安に努めているって感じ
が恥ずかしい位見え透いている。
まさにこいつらは所謂「権威主義的パーソナリティ」に
すばらしく該当しているな。
一般に「体育会系」と呼ばれる連中は、みな権威主義的
パーソナリティの持ち主だけどね。
いうまでもないけど、スポーツマンが
「さわやか」なんてのは大嘘だね。
スポーツマンほど他人を"合法的に"蹴落とす
ことがうまい奴らはいないんだからね。
合法的に蹴落とすわけだから、彼らには罪の意識はなく
余計にタチが悪い。
戦争なんてのも同じことで、人(敵)殺しがかえって正価値を
帯びるようなルールを共有することで、戦争は成立している。
だから、戦争においては殺人はルール違反ではなく、
敵兵を多く殺したほうがかえって「英雄」になれる。
そしてナチスはスポーツも大変に重視した。
所謂「3S政策」というやつだね。
その3S政策というものを最も高濃度に
継承した国家がアメリカだということも明記に
値することだね。スポーツ、シネマ、セックス。
これらはまさにアメリカ的なるものの別名であろう。
ナチスの理念は死んでいないどころか、むしろ
世界中に形を変えて拡散している。無論、日本にも。
だから、ナチスを研究することとは世界を知ることだと
いってよい。
世界の真相を知りたければ、ナチスを知れ、と。
そしてナチス的なるものの向こう側へ行くためにも。
221 :
吾輩は名無しである:02/08/30 18:44
ラカンはある意味、文学者。
222 :
吾輩は名無しである:02/08/30 18:52
ラゲはどんな意味でも、馬鹿者。
223 :
吾輩は名無しである:02/08/30 19:05
ナチス的なものを継承しているのは、石原慎太郎。
そして石原の背後にはバタイユがいる。
つまり、その3Sをそつなくこなすことが、
現代社会(その実ナチス的象徴秩序)に参入する
ための条件でさえある。
ところでこの3Sを最も首尾よくこなしているのは、
誰だろうか?
それはほかならぬ「プロレタリアート」である。
プロレタリアートは(肉体)労働者なので、身体能力が
あり、それゆえスポーツ(特に野球とサッカー)を好む。
そしてプロレタリアートほど早くに結婚し、ディズニー映画と
ハリウッド映画を家族で楽しむのである。
このナチス的象徴秩序の3S・トライアングルは
きわめて強固である。そしてこの秩序に難なく適合
しているプロレタリアートこそ現代社会の勝利者だ。
ここにおいてマルキシズムはふたたび躓く。
ここで彼らは<The Real>へと「排除」されているのは、
プロレタリアートではなく、ほかならぬ自分たちだと
いうことを知るのだ。
今や「プロレタリアートは疎外されている」というテーゼ
に変わり、「共産主義者は疎外されている」という正則的な
テーゼがその場を占めるに至った。
まさに世界は幸福のうちに統治されるに至ったのだ!
以上、インテリゲンチア論でした。
従って、これは形を変えた芥川論でもあります。
ファシズム(ナチズム)と大衆文化が支配的になる時代の
前夜に芥川が死ぬほかなかったのは、そこに知識階級の
生存の基盤を無化せんとする対抗革命の波及があった
からです。彼はそのナチス革命に「敗北」したのです。
ナチスの「優生学」思想からすると、芥川は劣性遺伝子
の所持者ということで、断種されるべき存在となるの
ですからね。
(.....ということを書くとまた叩かれるかな?)
プレ・モダンの社会では「口承」がコミュニケーション
の中心だった。所謂「無文字社会」というやつで、
今流でいう「口コミ」で情報のやり取りが行われていた。
モダンな社会ではその口コミに変わり、「文字」による
コミュニケーションが中心となる。しかしそこには話し言葉
と書き言葉の差異がまだあり、口コミの余地というものがある。
そしてポスト・モダンな社会では、「文字による口コミ」
というものが現れた。携帯電話のメールやPC上のチャット
がその主な活動領域だ。そこでは文字を使いながら、
本来なら口でしゃべるべき内容、話し言葉がそのまま
書き言葉として流通することになる。このことの結論は、
対面的コミュニケーションの漸近的な消滅ということだ。
対面的コミュニケーションは話し言葉を偽装する
エクリチュールによって、不可能にされたのである。
ここにエクリチュールの罠を見ても差し支えあるまい。
口コミの破壊者としての文学(=文字学)という側面。
文学批判は抑圧された無文字社会の回帰にほかならない。
フロイトは電話をひどく嫌ったといわれる。
電話は遠く離れた人とあたかも近くにいるかの
ように会話することを可能にしたが、それは
同時に遠く離れたままで、近くに来る必要がない、
即ち、お互いに近くに来る必要性というものを廃棄
してしまった。電話とは他人との距離を縮めたようで、
実はその距離を温存してしまっている。
フロイトはそこに嫌悪を覚えた。どうせなら、
電話など介すことなく本当に近づくべきではないか?
電話の利便性がそれをかえって邪魔している、と。
電話は世界中でばらばらに生活しているユダヤ人の同胞
と気軽に会話することを可能にしたが、だからといって
ばらばらに生活しているという悲しい現実は何も変わって
いないどころか、電話の「超空間的総合力」がその妨げに
さえなっている。
つまりフロイトは他人の「顔」というものを重視したのだ。
一般的にいって電話などの「メディア=媒体」への
嫌悪が、「愛」ということである。
ルーマンは「愛」を「反ー媒体」と定義したことが
ここで想起されてよい。
死に別れた愛する人と「イタコ」などの媒介者を
介して交信しようとする生者の愛は、愛の定義には
該当しないが、しかしそこには定義を越えた激しい情念と
いうものがある。
断ち切れない愛の残余。それが時としてメディアという
ものを呼び寄せるのである。
メディアとはそれ故、ある悲劇とともに現れる。
メディアがあるうちは、人は依然、真の愛からは疎外
されているのだ。
マルクスの貨幣否定論というのも、この文脈から
理解すべきである。貨幣とは紛れもないメディア
だからだ。それ故、貨幣という媒体を否定せんとする
マルクスの激しい情熱は、愛への情熱というものを
その背面において抱えていたといってよい。
小林秀雄のマルクス論である「マルクスの悟達」には
無論そのような観点はない。遺憾である。
230 :
吾輩は名無しである:02/09/01 12:43
カント、へ−ゲル、マルクス、フロイト、ハイデガ−。
みな、ドイツ人だよね。
フランス現代思想家が引用するのは、この人たちばかり。
やはり、ドイツはすごい。
さすがにネタが切れた。なのでもう止めます。
スレジャックしたことをお詫びいたします。
最後に一言。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。
だけど我々の困難はその衣食さえ自由にならないと
いうことである。衣食を手に入れるためには、我々は
野蛮になり、生存競争に勝たねばならぬ。
そういう凶暴化の果てに「礼節」というものがどうして
可能であろう?
このパラドクスを真摯に引き受けることこそ芸術家の
使命である。
「芸術家は、彼の作品が永遠に残ることなぞを
目当てるべきでなく、彼の作品なぞを必要としない
ような美しい生活が人間の世界に来ることを、
そしてそのことのために彼の作品がその絶頂の力で
役立つことを願うべきであろう。」(中野重治)
232 :
吾輩は名無しである:02/09/02 01:35
らげ、ここに死す。
233 :
吾輩は名無しである:02/09/02 02:03
らげは、これだけ小難しいことを書けるのはすごいと思うが、ホモなのが
玉にキズだな。
らげが女子小学生と援助交際などせず、彼女とSEXしまくってたら、詳細
を聞きたかったのだが。
234 :
吾輩は名無しである:02/09/02 02:34
らげが消えたから、次はixionの番だな。
らげ以上の不可解かきこ、きぼん。
235 :
吾輩は名無しである:02/09/02 02:38
>>234 ixionは楽しい新婚生活を送ってるから、このスレ見ないんじゃないかな。
236 :
吾輩は名無しである:02/09/02 02:46
ixion、2ch辞めたのか。
なら、おさむでいいから、らげの代わりやれ。
237 :
吾輩は名無しである:02/09/02 03:15
>>233 買春=貨幣を媒介とした偽の愛。
それに耽溺するらげは所詮メディアを介した偽の愛
しかしらないという巧妙ならげ批判ですか?
238 :
吾輩は名無しである:02/09/02 16:27
誰か変わりやれ、という責任のたらい回し。
無責任の体系としてのにちゃんねる。
コテハンはにちゃんに不釣合なのか?
かくいう私も名無しだが。
239 :
哲学板住人:02/09/02 19:51
らげは小林よしのりの「おぼっちゃまくん」の愛読者で、
そこからマルキシズム哲学への関心を深めていったという極めて稀な人なんですよ。
240 :
吾輩は名無しである:02/09/03 01:19
奇特な人だな
おれは「真珠夫人」にかなりはまった。
ただそれだけ。
242 :
吾輩は名無しである:02/09/03 01:44
らげは完全に騙されてるな
え?
おれが何に騙されているの?
菊池寛にか?
>>239 俺は『おぼっちゃまくん』を愛読した覚えはない。
しかし小林よしのりも偉くなったな。
そのうち窪塚洋介を傘下に治めて、浅田彰の嫉妬を
買ったりして。
自分のことを「よしりん」と呼ぶ小林を、
大衆文化批判で有名な西部邁が評価するんだから、
世の中わからんねぇ。
まぁ、しかし、西部はビートたけしの本の
解説文を書いたりしてたから、嫌いじゃないんだろうな、
そういうベクトルが。
246 :
吾輩は名無しである:02/09/04 17:19
新・愛の嵐
247 :
吾輩は名無しである:02/09/06 00:40
AZUKI七たんとセックスしたいYO!
オナーにで我慢しとく・・・
248 :
吾輩は名無しである:02/09/21 02:09
保全あげ
249 :
吾輩は名無しである:02/09/25 01:42
詩は届かない言葉として、
逆説的に届く言葉である。
なぜかは分からない。
だけど人は誰もが一人であり、
その一人という牢獄のなかで
生きているという点では共通
しているということだけはいえるだろう。
そのたった一人であるという
普遍的現実が詩の運搬者
なのかもしれない。
80,0はらげに届いたのかね・・・
ハムスターは飼い主の顔を認識できないが、
飼い主はハムスターの顔を認識できる。
「神」にとって人間とはそのハムスター
みたいなものだ。つまり人間は神に対しては
ハムスターも同然である。
我々はなにより神の絶対知に比してはハムスター
程度の認識能力しかないことを自覚すべきであろう。
我々はハムスターなのだ。
ハムスターである我々がどうして神=飼い主を認識
できようか!
>>250 届いていない。
252 :
吾輩は名無しである:02/09/26 05:26
253 :
wagaHi:02/09/26 11:51
忍者みたいな名前に萌え〜;;(しつこい?)
『80,0』は届く気配がない・・・
自分の発したメッセージが相手に到達
しているかどうかはこちらからは解らないという
コミュニケーションの闇を今体感している。
果たして俺の送った郵便振替と現金は
ジェイロックマガジン社に本当に届いたのか?
・・・・不安だ。
まぁ他者とのコミュニケーションとはこのように不透明
なもので、「自分の声を自分で聞く」という自意識の
透明だが至極退屈なそれとは対極をなしているものだ。
この退屈さから逃れるためには、他者への言語が不可欠だが、
そうすることで退屈さから逃れられる代わりに、その時
我々は自意識の透明性を失い、不透明な他者との関係の闇に
迷い込むことになる。
刺激を求めて闇にさまようか、透明を求めて退屈に埋没するか。
我々はこの二者択一を常に要求されている。
>>252 ミニハムずとはなんだろう?
『80,0』は届く気配がない・・・
自分の発したメッセージが相手に到達
しているかどうかはこちらからは解らないという
コミュニケーションの闇を今体感している。
果たして俺の送った郵便振替と現金は
ジェイロックマガジン社に本当に届いたのか?
・・・・不安だ。
まぁ他者とのコミュニケーションとはこのように不透明
なもので、「自分の声を自分で聞く」という自意識の
透明だが至極退屈なそれとは対極をなしているものだ。
この退屈さから逃れるためには、他者への言語が不可欠だが、
そうすることで退屈さから逃れられる代わりに、その時
我々は自意識の透明性を失い、不透明な他者との関係の闇に
迷い込むことになる。
刺激を求めて闇にさまようか、透明を求めて退屈に埋没するか。
我々はこの二者択一を常に要求されている。
>>252 ミニハムずとはなんだろう?
二重かきこ、スマソ
刺激を求めてその対価を闇にさまようことで
支払うような生のモードを「(市場)社会的」といい、
透明さを求めてその対価を退屈に埋没することで
支払う生のモードを「共同体的」といいます。
つまり「(市場)社会的な生のモード」と「共同体的な
生のモード」の二つの区別があるんです、生のモードには。
この区別は大変重要なので、この際憶えましょう。
『80,0』今日届いた。
届く気配がないといった次の日にくるとはね・・。
で、ざっと読んだ。
恋愛の詩は少なかった。
むしろ独特の「ユーモア」が詩の多くを覆っている
のに気付く。そのユーモア=おかしさとは、
AZUKIのパーソナリティに由来するおかしさというより、
世界自体のおかしさである。世界のおかしさにAZUKIの
感性が機敏に感染しているのだ。
おかしいことは、正されねばならないのかもしれない。
しかしAZUKIの見ているおかしさとは、訂正不能なおかしさ
であり、それはユーモアとして「笑い飛ばす」しかないような
代物なのである。
おかしいから「正す」のではなく、おかしいから「笑う」のだ。
この詩集はそういうある種の「ユーモア」に満ちている。
.....というのが『80,0』への俺の感想。
AZUKIは何気に「面白い人」なんだなぁ、ということが
この詩集から解った気がする。
「泣き笑い」という言葉がある。
泣いているのだけど、笑っているという。
これは「泣く」と「笑う」という反対の心理が
同時におこるという奇妙な現象だが、この現象は
生理学的には、泣くことによって、ストレスを緩和
する脳内物質が分泌され、そのことによってある種
の快感がおこり、笑顔が涌いてくると説明される。
他方では、これは「おかしさ」のもつ二面性が、
人の心理にもたらした二重の反応とも解釈できる。
人は「おかしいこと」に直面すると憤り、怒り、
そして行き場のない怒りはやがて涙へと昇華する。
他面では人は「おかしいこと」に直面すると笑いも
するだろう。つまりこの「おかしいこと」とは、
人に涙と笑いという相反する情緒をもたらす二面性を
もっているのだ。
「これはおかしい!」という言葉は、不条理への憤りの
表明であると同時に、これは愉快だという歓喜の表明
としても用いられる、実に曖昧な言葉なのだが、
この曖昧さ自体がまた実に"オカシイ"のだ。
(この"オカシサ"こそがむしろ言葉の本源性であることを
見抜いたのが、かのフェルディナン・ド・ソシュール
であった。)
そしてこの言葉のもつ本源的な曖昧さ、おかしさを
「正そう」としたのが論理学者のフレーゲである。
彼の高名な「文脈原理」とはそのために持ち出された。
言葉の意味はそのままでは曖昧だが、文脈という因子を
導入することで、言葉の意味は曖昧さから救出され、
意味の一義性が確保される、と。しかし彼の文脈原理は
言葉のもつ曖昧さこそ浮き彫りにするのにかえって
役立ったともいえる。
「文脈というものがこの世になかったならば」という
可能世界を想定することで、言葉の曖昧さがより鮮明に
理解可能になってしまうからだ。
そして我々の不幸は往々にして文脈なるものが不可視で
あり、それはなかなか見えないものだということにこそある。
【高橋尚子のマラソンを見て想ったこと】
マラソン選手は何故走るのか。無論ゴールするためだ。
ではゴールの先になにがあるか。それは走らないことである。
ゴールした後になお走るマラソン選手はいないからだ。
してみれば、マラソン選手が走るのは何より「走らないため」
ではないのか?走らないためにこそ走る。彼らはゴール
とともに訪れる「もう走らなくていい」という安堵感のため
にこそ走っているように見えるのだ。
<走らなくて済むためにこそ走る>というこの倒錯した世界に
人が魅了されるのは、マラソンがしばしば人生の例えられる
からだろう。人生もまたマラソンのように倒錯している。
人生のゴールには死という生の否定しか待っていない。
それはあたかもマラソンのゴールには「走らない」という
マラソンの意義そのもの(つまり走るこそ)を否定する反対
のものが待っているのと類比的なのである。
マラソンは男子のそれより女子のそれのほうが人気がある。
何故だろうか。おそらくそれは女性の女性性が、マラソン
が表象−暗示している人生のパラドクスを可憐に隠蔽する
のに役立つからなのだろう。人がマラソンを観戦するのは、
そこに人生の縮図を見出すがためでもあるが、同時にそれを
忘却−隠蔽するためでもあるのだ。
上岡龍太郎は「マラソンには勝者も敗者もない、
なぜなら皆ゴールするからだ」といった。
この上岡テーゼは平行推論によって以下のように置換できる。
「人生に勝者も敗者もない、なぜなら皆死ぬからだ」
こうしてマラソンと人生の類似はより明白になる。つまり
マラソンにおける「ゴールの前の平等」は人生における
「死の前の平等」と実にパラレルな関係にあるのだ。
だから、マラソンでゴールすることとは、死を疑似的に
、先取り的に体験することに似て来る。
それ故、マラソンのゴールで安堵し、感激し、歓喜することは
生の創造者である者(神?)へのまたとないアイロニーなのだ。
....ゴールできて(=死ねて)嬉しいとは、なんということか!
『80,0』の5番目の詩に「遠くへ...」というのが
あるのだけど、これがなかなか面白い。
それは焚火(それは「じわじわと熱く熱を出すその空間」と
表現されている)に色々なものを投げ込んで、芋が焼けるまでの
暇潰しをするという詩。草花や枯木を焚火に放り投げたり
するのは解るけど、蟻や蝶などの昆虫もそこに投げ入れる。
だんごむしが焼けて灰色になるの様が楽しいというフレーズ
もあり、いささかサディスティックで、えっ、AZUKIって
こんな人だったの?という印象をうけるのだが、この詩には
最後にオチがある。
焚火をやっているのは郊外の自然の中であり、その"不埒な遊び"
を終えて夜に都心へ帰ることになる。で、車を飛ばして
都心へ向かう時、その夜の都会の風景があの焚火として表現
されることになる。そしてこの時、だんごむしの意味が
明らかになる。そう、
だんごむしとは都心(それは「炎のように見える明かりの群れ」
と表現されている)という焚火へと向かう自分の隠喩だった。
そして自分もまたあのだんごむしのように都会という名の炎に
焼かれて灰色になるだろう....。
だんごむしが焼かれて灰色になるのが楽しいとは、一種の
「自虐」だったわけだ。
都心に帰ればまた、だんごむしと同じ運命を辿ると解っている
のに、「時速100キロ」のハイスピードであたかも望むかの
ように都心へ帰るその様はまさに「飛んで火に入る夏の虫」
のようだ。
そして、夏の虫のようなその愚かさは自分をだんごむしと
等価に置くことで予了的に表現されていたといえよう。
『80,0』にはこのほかにも意味深な詩が多数あるので、
随時紹介して行くことにしよう。無論諸君らの手元に『80,0』
があることが何よりも望ましい。
(.....つまり『80,0』を買って下さいということです。)
ロラン・バルトは天皇のことを「空虚な中心」といった。
その空虚な中心が都心に鎮座ましましているのだけど、
天皇がいる、いないに無関係に、都会というのは空虚なものだ。
そこはまさに全てがあって、何もないところなのだ。
坂口安吾は東京大空襲の後の何もなくなった東京の焼け野原
に接してむしろ「なつかしさ」を感じたという。
.....何故「なつかしさ」なのだろうか?
おそらくそれはビルや明かりで演出され、そして隠蔽されて
来た東京の本来的な空虚さが空虚(=何もない焼け跡)のまま
そこに回帰してきたからだろう。
焼け跡における「何もなさ」こそが東京の本来の隠されざる
真実の姿なのであり、その「元の姿」が復元的に露呈したこと
に、安吾は無類の「なつかしさ」を覚えたのだ。
こういう観点からすると、ボードリヤールが9・11テロに
接して「WTCビルは倒れるべくして、倒れた」とコメント
した理由も明らかになるだろう。
WTCビルは確かに自爆テロによって跡形もなく消えたけど、
そこにはもともと大都市の空虚しかなかったのだから、
その隠されざる元の姿がただ露呈しただけであって、
WTCビルの倒壊は、むしろその結果にすぎないのだ、と。
本来的な無(空虚)がそこに露呈したから、ビルが倒壊した
のであって、ビルが倒壊したから、そこになにも
なくなったのではないのだ、とボードリヤールは言いたいのだ。
都心とは炎によって焼け野原になるのだけど、もともとそれは
炎のように全てを無に帰するものであり、それ自体が炎なのだ。
265 :
吾輩は名無しである:02/10/01 01:41
おわり。
『80,0』にはAZUKI自身が撮った写真が多数
掲載されている。
写真を撮るということは、過ぎてゆく出来事を
永遠のままに保存しようとすることである。
全ての出来事はやがて消え、忘れられる運命にある。
その運命に抗うテクネーとして写真はある。
写真に撮られたものは、自分がこの世界にしかと存在
していたということを強く主張する。
たとえ被写体自身がもはやこの世になかったとしてもだ。
写真とはそれ故、永遠を写すものなのだが、しかし
写真自体は永遠ではない。写真をなくしたり、火事で焼けて
消えてしまう恐れが常にあるからだ。
写真の喪失は、永遠の喪失として特別な意味をもつ。
やがて失われるものを失われるままにする悲しみから
離脱するために人は写真を撮り、そこに永遠を刻みつけよ
うとするのだが、その写真の喪失によって人は被写体との
「本当の別れ」を体験することになる。
写真の喪失が特別に悲しいのはそこに本当の別れ、二重の喪失
があるためなのだ。その時みたくなかった本当の別れが
倍加して露呈してくるのである。
写真には永遠を写すという機能のほかに、
自分がみている世界の風景を他人に伝え、
共有してもらえるという機能もある。
自分が撮った写真は、自分がどういうオブジェに
関心があり、自分がどういう角度・視点から
世界を観ているかということを記録し、他者に教える
機能をもっている。
自分が観ている世界が自分だけのものである時、人は
そこに無上の孤独を覚える。世界をこう観ているのは
ひょっとして自分だけなのではないか、という不安が
そこにはあるのだ。しかし自分の観て感じている世界の
有様を写真に撮ることで、それを他者の目にも明らかに
することが写真には出来るのだ。
つまり「自分の目」を他者にも共有してもらうことが
写真には出来、その共有された視点のなかで、人は孤独からの
出口を発見するのだ。
AZUKIは写真のもつ以上のような機能に魅了され、写真を
撮ることが好きになったのかもしれない。
>>267 神戸かよ、.....行けないな。
ボクシングなんかもテレビでみるのとリングサイドで
みるのとでは全然違うといわれているから、ライヴ会場で
本物のGCを一度はみてみたいねぇ。
☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 Λ_Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・) < らげまだ〜
\_/⊂ ⊂_ ) \_____________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
| .佐賀みかん. |
>>271 「ゆううつなとき」【06/80,0】
憂鬱とは「他者がそこにいないこと」である。
同じことだが、絶望とは「他者なしで自己自身たろう
とすることだ」とキルケゴールは言っている。
他者という"つっかえ棒"なしでは、人は立っていること
さえおそらく容易ではないということだろう。
「ゆううつなとき」と題されたこの詩には、自転車を
漕ぐ一人の人物が登場する。別にどこに行くというわけ
でもなく、その人は自転車を四車線全てが北行きの車道
に沿って漕ぎ、ただ「南」へ向かう。
車道を行く自動車は全て逆方向の「北」へ向かうわけだが、
その様をAZUKIは
「ずーっと向こうから車がいっぱい生まれている」
と表現する。そしてこう唐突に続ける。
「あー生き返る」と。
......何故、唐突に「生き返る」なのだろうか?
他者とは向こうからやって来て、自己と対面するもの
である。そう、ここでいう向こうから生まれてくる車とは、
その他者のメタファーなのである。
憂鬱とは「他者がいないこと」であってみれば、その他者との
対面が憂鬱を晴らし、「生き返る」という言葉を生んだのだ。
*【06/80,0】とは『80,0』の6番目の詩という意味の
記号。この表記法は当詩集に同じそれがあり、そこに
倣ったものである。
北へ行くものと南へ行くものとでは、行く方向が
当然違う。しかし行く方向が違うからこそ、両者
は対面し合えるのである。だが、その対面もほんの
一瞬で終わる。行く方向が違うために、その対面は
限りなく「すれ違い」に近いからだ。
だからといって、同じ方向に進むと一瞬の対面の機会
さえ失われてしまう。その時見えるのは他者の後ろ姿
だけであろう。
すれ違いを拒めば、後ろ姿しかなく、
対面を望めば、それは一瞬の出来事でしかない。
その夢ない一瞬の対面を尊重することを、古来より
「一期一会」と称してきたのだとすると、この
「ゆううつなとき」という詩は「一期一会」の詩
とも解釈できるだろう。
「常春」【01/80,0】
この詩は短い詩で、三行で構成されている。
短いのでそのまま全行ここに掲載しよう。
「春うらら
年中頭は
花咲き乱れ」
春に花が咲くのは自然なことである。しかし
人の頭の中では、花は春に限らず「年中」咲いて
しまっている。この不自然な過剰さが、人の
「心」というものなのであろう。
この「心」のもつ過剰性というものをAZUKIは、
「年中咲く花」という不自然さを表すメタファーで
表現したわけだ。
我々はしばしはこの「年中咲く花」の我侭ぶりに
翻弄される。年中咲きたいと欲するような花は
実に我侭なもので、それは常に何かを欲望して
止むことがないのだ。
........花は春にだけ咲いていればいいものを!
あれ、トリップが・・・・
そういや、トリップが10桁になったんだっけ。
しかも加わった文字が「Bz」かよ!
「花が年中咲くということはおよそ
不自然なことだが、」というセンテンスを、
>>274の「この不自然な過剰さが、人の「心」
というものなのであろう。」というセンテンス
の前に新たに入れたいと思います。
あと、「しばしは」は「しばしば」の誤りです。
らげのそのトリップには何か特別な意味が込められているのか?
『80,0』なんだけど、これは天下のamazonでは
「在庫切れ」になっている。
なので、俺はジェイロックマガジン社に直接注文した
わけだが、yahoo!ブックスショッピング
では「在庫有り」になっていた。・・・不覚だ。
ジェイロックマガジン社から買うには代金前払いが
必要で何かと面倒だが、yahoo!ブックスショッピングから
だとカード払いや代金引き替えが利用できて便利。
GIZAのサイトからなら代引きかカードでも買えるけど、
送料が高い。
なので、yahoo!ブックスショッピングから買うのが
オススメかと。
ジェイロックマガジン社からだと届くのに時間が
かかって、かなりイラつくが、yahoo!ブックス
ショッピングからだと在庫有りの場合なら、即行
郵送してくれるから良心的なんだ。
それとジェイロックマガジン社はいい加減『80,0』を
amazonに卸したらどうなのかね。amazonに在庫を
卸さないということは相当損なことではないか。
本をネットで買おうとする時、amazonで最初に検索
するという人がきっと多いはずなわけだからね。
ジェイロックマガジン社は本を本当に売る気あるのか、
と問い詰めたくなる。
>>277 いや、別に意味はないよ。
#の後に適当な数字を入れたら、このトリップ
になっただけ。
「HAPPY BIRTHDAY」【04/80,0】
「誕生日」とは赤ん坊が生まれた日のことである。
シェイクスピアは赤ん坊が生まれる時、何故赤ん坊は「泣く」
のかについてこう言っている。それはまさにこの世に生まれた
ことを悲観して泣くのだ、と。
「HAPPY BIRTHDAY」と題されたこの詩は、タイトルから
すると誕生のことを詠った詩に見える。しかし話はそう簡単
ではない。
この詩には「あの人」と呼ばれる人物が登場するが、この詩
においてその「あの人」は逆に「死ぬ」のである。してみれば、
何故この詩のタイトルは「HAPPY BIRTHDAY」なのだろうか。
「あの人」はもう死んでしまったのだから。
「死」という出来事がその反対である「誕生」(生の始まり)
と関わりをもつことは果たして可能だろうか。
死が全ての終わりであると考える時、それは不可能にみえるし、
実際そうであろう。だが、死は全ての終わりではないと
考える死生観が存在する。
それが所謂「輪廻転生」の思想にほかならない。
(
>>282の続き)
そう、この詩においてAZUKIはその「輪廻転生」(生まれ変わり)
について詠っているのである。
7月に「あの人」は死んだ。我々にとってはその日は、その
あの人の「命日」ということになろう。だが、その命日は
同時にその人にとっての「HAPPY BIRTHDAY」でもあるのだ
、と。つまりその「あの人」は死んだその瞬間に「別の次元」
(我々のいる宇宙とは異なる別の宇宙)でもうすぐに
生まれ変わり(転生し)、産声をあげているというわけだ。
そしてその時、「命日」と「誕生日」という正反対のものが、
真夜中の12時が真昼の12時と一致するかのように、
一つに統一されることになる。7月にあの人が死んだ日は、
同時に「あの人が生まれた日」とその時なるのだ。
(
>>283の続き)
改めて問う。生まれた時、何故赤ん坊は泣くのだろうか。
無論赤ん坊自身に聞いても答えはない。
しかし本当に「輪廻転生」というものがあり、生まれたばかり
のその赤ん坊が、さっき往生を遂げたばかりの誰とは解らぬ
「あの人」の生まれ変わりだったとするならば、生まれたばかり
の赤ん坊が期せずして流すその涙は、一種、両義的な意味を
もつこととなろう。それは再度この世に生を受け、転生できた
ことを喜ぶ涙であると同時に、再びこの世のおかしさから
来る辛苦というものを嘗めねばならぬことを悲しむ涙でも
あるだろう。
赤ん坊がこの世に誕生して初めて行うことが「泣く」こと
である。シェイクスピアにはその赤ん坊の泣き顔につたう涙は、
悲しみの涙にしか見えなかったらしい。
しかし輪廻転生を信ずる者には、その涙は悲しみの涙であると
同時に喜びの涙にも見えるにちがいない。
それは輪廻転生=永劫回帰を自身の運命として引き受け、
肯定せんとする時に流れるような、運命愛に似た涙なのだ。
「動物園」【18/80,0】
動物園にいる一人の人物。自分は動物を見に来たはずなのに、
いつのもまか動物に見られている自分を発見する。
自分は動物を見ているのか、動物に見られているのか?
・・・・檻の中にいるのは果たしてどっちだろう?
動物たちを強固な檻で囲うことで、人は動物に対して自身
の優位を確信するが、動物たちの人とへ向けられる視線が
その立場を反転させてしまう。監視するもの(見るもの)が逆に
監視されて(見られて)しまっているからだ。そこで人は
負けじと動物たちを監視しかえすが、動物たちも監視の目を
緩めることはなく、かえってその監視の目は強くなるばかり。
してみれば、一方的な監視というものはおよそ不可能だろう。
監視すればするほど逆に監視されている自分の存在を強く
意識さぜるを得ないからだ。
見ることとは見られることである。このおかしな逆転劇を
AZUKIはこの「動物園」という詩で表現したのである。
サルトルは「見る−見られる」という関係を「地獄」とし、
「地獄とは他者(の視線)だ」と言ったが、この詩で言う「檻」
その「地獄」のメタファーであると言ってよいだろう。
>>285 「動物たちの人とへ向けられる」は、
「動物たちの人へと向けられる」の誤り。
それと最後のセンテンスの「この詩で言う『檻』」
の後に、「とは」を入れます。
抜けてしまいました。
287 :
吾輩は名無しである:02/10/08 06:02
落ち過ぎ。
あげ。
「さらさら」【10/80,0】
「砂」とは潤いがなく乾いていて、ざらざらと味気がなく、
形を持たないそれは風が吹けば、即座に何処かへと消えて
しまう虚ろなものである。AZUKIはこの「さらさら」という
詩で、そういう「砂」を「流行もの」や「たわいないお喋り」
のメタファーとして用いている。流行ものやお喋りもおよそ
実体というものがない砂のように軽く手応えのないもの
だからであり、形を持たず掴もうとすると手からさらさらと
消えゆくものとして、砂のメタファーは、流行ものやお喋り
の本質を表現するのに適している。
AZUKIはこの詩において一旦はこういう「砂に似たもの」に
違和感を示す。それは別に「なくても困らないもの」だからだ。
しかしそう言いつつ、一転してこう続ける。
でもそれは「まんざら悪くないみたい」だと。
「砂」とは確たる実体のない消えゆくもののメタファーで
あった。ところで、我々人間も、およそその砂のような
ものではないだろうか。確かに「命の価値」というものが、
人間に重厚な実体を与え、人間を命を持たない砂であること
から救い出しているように見える。しかし、命の否定である
「死」を前にしては、我々もまた砂も同然であり、風に吹かれる
砂のようにやがてはここではない別の場所へと消えゆく定めに
在るのだ。流行ものも砂のように消えるが、我々もまた、それ
と運命を同じくするかのように砂のように消えるのである。
(
>>288の続き)
AZUKIは開いた窓から入ってくるその「砂」を取り込むことを
選ぶ。一旦は違和感を示したものを何故、自分の一部として
取り込むことを選ぶのだろうか。....それはおそらく自分もまた
その砂のような存在だという想いがあるからなのだろう。
自分もやがては風に吹かれる砂のように何処かへといなくなる
のに、自身の命運を告知するかのように舞い込んで来るその砂
たちをどうして拒絶しなければならないのだろうか。
砂を胃に溜めてゆくうちに、やがて全てが砂に変わってゆく。
そして「幾度目かの風」が全てをさらさらと何処かへ静かに
とばしてゆく....。その砂とともにあるような運命は、砂が風の
流れに逆らうことがないように、自身も世の流れに逆らわず
それにただ従い、砂が形を残さないように、自身も何も残さず、
波風を立てずに砂のように消えたいという「静かな生き方」を
我々に啓示している。
『80,0』を持っている人は俺にobjectionは
ないのだろうか。
かなーり乱暴な解釈をしているんだけどね。
しかし『80,0』を妙に気合い入れて解釈している
例はあまりないだろうから、反論もしずらい
とは思う。準拠すべき反例がまだないからね。
俺が大学にいた頃、ほとんど無名の
ギリシャの哲学者を研究していた助教授がいた。
その助教授がいうには、例えばカントのようなビックネーム
なら、その研究者も山ほどいて大変だし、研究され尽くして
いるのでつまらないが、無名の哲学者ならそうはいかないから、
やりやすいし、風通しもいいと。その助教授は、ハイデガー
みたいな有名どころを学生に読ませるとしても、主著の
『存在と時間』は使わず、あまり知られていない講義録
なんかをテキストに使っていた。
俺はこの助教授にだけは敬意と好意を抱いていたな。
例えばカントにしても、カントそのものを研究すること
も確かに重要なのだけど、カントの理論を用いて色々な
事象を説明したり、解釈したりすることのほうが重要
ではないかと思う。方法論ばかりやってないで、その方法を
用いて事象そのものへ向かえ、ということなんだ。
刃物はものを切るためにあるものであって、刃物論が展開
されるためにあるのではない。カント哲学なんかは、まさに
大変よく切れる刃物のことなのだね。
さて、本日記念すべき初ライヴがあったということで、
この詩を紹介しておこう。
「日常に似ている」【12/80,0】
「パーティーは嫌い
お祭り騒ぎは嫌い
なんだか不機嫌でいちゃいけない気がして
何処にいていいのかわかんなくって
そもそもいていいのかどうかも疑問になったり
途中で愛想笑いするスタミナが切れちゃうし
そのくせハマッちゃったらあっという間」
パーティーという非日常の場でも、日常と同じように
どこにいたらいいのかわからない、とAZUKIは言う。
日常において「存在の限りなき不安」があるなら、非日常で
なら、その逆が得られそうだが、案外そうではないらしい。
人は自分の居場所を求めて非日常の祝祭の場に赴くが、AZUKI
はそこにも日常を発見してしまう。そして「存在の不安」は、
宿題としてまたしても家へと持ち帰ることになる。
AZUKIは果たしてライヴという非日常のお祭り騒ぎの場で、
謂う所の「ハマる」ことができたのだろうか。それともそこに
相も変わらぬあの「日常」をまたしても発見してしまった
のだろうか。
ライヴは本日ではなく先日だな、正確に言うと。
まぁ、とにもかくにも、AZUKIは
「お祭り騒ぎは嫌い」と言っております。
本当にお祭り騒ぎが嫌いかどうかは知らないが、
ライヴではほとんど喋らず、無表情だったそうな。
(邦楽板のAZUKIスレの情報によると)
俺が思うに、AZUKIは日常的であることを意識的に
「選んでいる」のだと思う。日常とは退屈であり、そして
不安なものだ。非日常的な祭の高揚感によって、そういう日常性
を一時は忘れることが確かに出来るのだけど、祭はやがては
必ず終わる。そして人は再び日常に帰ることになるが、祭の
高揚感の後では、その日常の日常性が以前よりキツイものとして
跳ね返ってくるものだ。その「ギャップ」に苦しむくらい
なら、ずっと日常のなかでいたほうがまだマシだ、とAZUKIは
想っているのではなかろうか。祭さえも日常と似ているとする
その視点はそういう想いから生まれてきたのではないかと思う。
祭ではしゃぎすぎると、普通の快楽では満足できなく
なって、何もかも楽しくなくなって鬱になることが
あるらしい。スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクは
本来、快楽の追求に一定の歯止めをかける役割を担って
いるはずの「超自我」が、その役割を放棄しているところ
に近代人の精神構造の特色がある、とみている。
ジジェクによれば、事態はそれに留まらず、超自我は享楽する
ことを禁止しないどころか、かえって「享楽せよ」と我々に
命令しているのだ、という。
つまり、近代的な超自我は、享楽の禁止をさらに禁止すること
をその固有の機能としているのである。
「あなたはどうしてそんな浮かない顔をしているの?
人生、楽しまないとダメじゃない!」
これこそ近代的な超自我の「命令」なのである。我々は楽しむ
ことを義務付けられているのだ。ところで、「罪の意識」とは
超自我の命令を履行できなかったときに起こる感情である。
してみれば、近代においては、何より、楽しまないことが罪
なのである。我々は「楽しめ」と強迫されているに等しいのだ。
因みに、このジジェクという人はやたら映画が好きで、
彼の著作にはうんざりするほど映画の話で満ちている。
で、ジジェクはあの9・11テロをこの前フジTVで放送された
映画『マトリックス』を引用して論じたりしたわけだが、
この映画はジジェクも見ていたということで、俺なんかも
興味をもって、この前の放送で初めてこの映画を観た。
ジジェクが9・11テロを論じるためにこの映画を引用
していなかったなら、多分俺はこの映画を観なかったと思う。
なぜなら、俺は映画はほとんど観ない方だから。
しかしジジェクが観ていたから、普段は映画を観ない自分も
観たいと思うようになる。
こういう現象を「欲望の転移」というんだよね。
それは他人の欲しがっているものを自分も欲しいと思う
現象で、自分の内なる欲と思われていたものが、実は他者の
欲を自身の欲として模倣−反復していた結果だったという
ことを転移という現象は教えてくれる。
親がジャイアンツのファンなら、その息子もジャイアンツ
のファンであることが多いが、これも欲望の転移なわけだ。
息子は親の欲を単に模倣−反復しているのだね。
商品の流通なんかもこの転移を利用して行われることが多い。
ある一つの商品が多くの人の支持を集めるためには、
その商品に異常なまでに執着する他者が一人必ず必要であり、
その他者のその商品への欲望を他の人たちが模倣−反復すること
で、その商品への支持が広まるという仕組みがそこにはある。
296 :
吾輩は名無しである:02/10/13 17:39
宣伝あげ
297 :
吾輩は名無しである:02/10/13 18:47
そのうち、らげが住んでるアパートに突然AZUKIが訪れて、性交を迫るだろう。
その『マトリックス』なんだけど、これはコンピューター
が人を身体のレベルから精神のレベルに至るまで一元的に
管理している「逆ユートピア社会」に対して、その支配に
気づいたモーフィアス率いるレジスタンスが立ち上がり、
その支配に抵抗してゆく様を描いたSF映画なわけだよね。
観た人は解ると思うが、その逆ユートピア社会というのは、
実に「グロテスク」に描かれている。モーフィアスが、
「現実の世界(現実界の砂漠)へようこそ。」
とネロに紹介するその「本当の世界」は単にグロテスク
なんだ。だからモーフィアスが起こしたレジスタンスは、
単にそのグロテスクさに対する一種の審美的な嫌悪感を
その決起の理由にしている、というか、それしか理由に出来て
いないように思った。つまり、コンピューターの支配に
対する明確な対抗の根拠がそこには実はない。現に、
コンピューター(マトリックス)の支配下にいたほうがまだマシ
としてモーフィアスを裏切るものまで出てくる。
マトリックスの支配下では誰も苦しまないような巧妙な管理が
なされている。にもかかわらず、モーフィアス達はその支配に
抵抗する。あたかも支配自体が絶対的な悪であるかのように。
まっ、このように『マトリックス』には腑に落ちない所も
多々あるのだが、映像の迫力がそれを中和してしまう。
来年、この作品の続編が公開されるらしい。
その名は『マトリックス・リローテッド』。
映像美の凄さは保証済みだろう。これだけでも
一見の価値はあると思う。マトリックスの支配に抵抗する愚
を最後に見せてくれるなら、陳腐さを乗り越え、物語りと
しても成功していると思うが、何分ハリウッド映画なので、
そういうシニカルなラストはきっと用意していないだろう。
(それがハリウッド映画の良さでもあるけどね。何も考えさせ
ないという意味で。映画を観て思索に耽るなんて野暮なのだ。)
余裕で300get!
301 :
吾輩は名無しである:02/10/14 03:23
いちどらげに抱かれたい・・・
前スレではお世話になりました、ほんとうにありがとう
『マトリックス』の主人公の名は「ネロ」ではなく
「ネオ」でした。スマソ。
スレのレス数を横領した者です、たしかそれは七月のはじめに
ごめんなさい 七夕を幾日かすぎたころの誤りでした。失礼します、お邪魔しました・・・
>>306-307 なるほど、思い出しました。
七夕の夜に流れ星を見て、浮遊感に襲われた、
というカキコをしてくれた方ですね。
お邪魔ではないので、このスレのレス数も横領
してやってくださいな。
ときどきあの日のことを想いだすのですが、既視感のようなものへと
駆られていたと思うのです。なんと云いますか。真夏の夜闇の中では
ありましたが、輪郭から何からが途方もなく際立ってしまって。
漠然と聾唖の世界ってのはこんなもんなのかなと感じたことを覚えています。
ちょっと気に掛かっていたもので、ついでまでに書き込んでおきますね。
あなたのカキコはどこかたいせつな切手を思わせます。静かな宝物です。
たまに顔を見せにきますので、そのときは適当にあしらってやってください。
で、いつか抱いてくださいね(w
310 :
吾輩は名無しである:02/10/14 06:13
なんだよ。ここは、らげスレかよ!
ていうか、らげ、難読症治ったの?
311 :
吾輩は名無しである:02/10/14 23:20
らげはAZUKIとSEXしたくてたまらないんだな。
>>309 聾唖の世界ですか。何か全てが停止したような、
永遠に似た世界を想起させますよね、それって。
>>310 難読症は・・・・出来れば治したい。
>>311 ひょっとして、お前、小宮山か?
もしそうなら、【名探偵AZUKI】の連載、ここで
やればいいんじゃないの?
【名探偵AZUKI】の連載が始まるかどうかは知らないが、
引き続き、俺の難読症の"リハビリ"も同時平行で続行させて
もらいます。
「荷」【38/80,0】
「何処からヒビ割れてゆくのかな
手ぶらで生まれて来たくせに
どうして何かを失うのが恐くなってしまうのかな」
何も持っていないから、何かを持ちたいと思うのだが、
何かを持ってしまうと、何かを失うことが恐くなる。
無論、何も失うことがなければ、恐れなどを抱かずに済む。
しかしAZUKIはここでその失うことの「必然性」を強く
感じているのである。なぜなら「形あるものいつかは壊れる」
という「無常の定め」が世の中にはあるからだ。
その「失うこと(喪失)の定め」の前で、人は何を為し得るのか?
その答えは極めて否定的である。我々はおそらく何も為し得ない
。出来ることがあるとすれば、それは何も持っていないという
生まれたままの姿に還ることのみ。しかし何も持たずに生まれて
来ることが、生の始まりの隠されざる真実なのなら、失うこと
をどうして恐れる必要があるのだろう?
それ故、「ヒビ割れ」(亀裂)とはむしろ我々の「故郷」に
似ている。
音楽と私
"至福"ってのは、とっても×2 私的でそれぞれな
モノだと思う。
以前あるアメリカの心理学者がとった
「人はどんな時に一番幸せを感じるか?」
というアンケート調査で<SEXしている時>と
<音楽を聴いている時>の二つの事由が最も多かった。
という記事を目にした。
それまで私自身にとって、創作活動は日常の中で
何事にも変え難い楽しみであり喜びだけれど、
正直<音楽>を通じてという事に、窮屈さや、
色んな意味で煩わしさを感じていた時期で、
その記事中<SEX>と<音楽>が並んでダントツに
多いことに軽い衝撃を受けた。
いや・・・非常に動揺した。
他の追随を許さず、私的で深いエリアをくすぐるモノ・・・・・・!?
単純にも、その瞬間迷いがなくなりました。
誰かの私的な至福の時をつくることに少しでも
関われるかもしれないなんて・・・・・・素晴らしい・・・・・・!!
まぁ そんな大袈裟じゃないにしても、なんかね、
幸福度UPしました。
末永くお付き合い願いたいなぁ・・・・・・。
おしまい。
>>314 邦楽板からの転載ですか。ライヴのパンフレットに
載っているAZUKIの言葉。
この言葉は、つまり、詩を書くこと自体には無類の喜び
を感じてはいるが、曲のための作詞にはどこか窮屈さや
煩わしさを感じてしまっていたAZUKIが、音楽が他の追随を
許さず、私的で深いエリアをくすぐるものの一つであることを
知り、音楽を通じての創作に新たな意味を再発見した、
ということ言いたいんだろうね。
『80,0』を読んでいると、こっちのほうのAZUKIのほうが、
何かのびのびと作詩に励んでいるというか、AZUKIの感覚や
想いがそこに率直に吐露されているのが解る。対して、
曲のための作詞となると、どうしても表現方法や詞のテーマ
に制約が生まれてしまうことになる。AZUKIはその制約に
窮屈さや煩わしさを感じていたのだろう。
しかし、音楽が多くの人の内面に迫る普遍的な力があることを
心理学者のリサーチから知り、音楽を通じて表現すれば、それ
だけより多くの人に自分の創作に接してもらえることになるし、
そのことを通じて、また多くの人を喜ばせることも出来る。
音楽の持つそういう普遍的な力に、改めて可能性を感じた、と
いうことではないでしょうか。
自分はと言えば....
「或る作家の作品について批評を書くこととは、その作家への
Love Letterを書いているに等しい」という言葉をどこか
で目にした時、軽い衝撃を受けた。いや....非常に動揺した。
自分は「批評文=Love Letter」という象徴等式の、
この「=」記号の部分にひどく動揺したのだ、というか、
今もしている....。
作家にとって、最も辛い瞬間は、きっと「書けなくなる時」
だろう。ところで、人は何故書くのだろうか。そして、何故
書くことが喜びたり得るのだろうか。
自分は別に作家ではないが、自分のここでの体験からすると、
自分はここで「妄想」を色々と書いている。で、その妄想を
書いている自分は果たして狂気に駆られているかと言えば、
ある意味そうかもしれないが、ある意味そうでもない。
自分は案外、Coolなのだ。では、何故Coolでいられるか
と言えば、おそらくそれは言葉が狂気を引き取ってくれている
からだと思う。言葉が自分の代わりに狂気を演じてくれて
いるのであり、狂気は言葉の上でのみ踊ってくれているのだ。
ラカンは「無意識は言語の様に構造化されている」と言った。
してみれば、言葉ほど無意識(それはほとんど狂気の異名である
)を引き取ってくれるのに適したものはないであろう。
無意識がそこで構造化されたような言葉は、まさに狂気の言葉
であろうが、しかし、そういう言葉を書けば書くほど、書く主体
は、それに反比例するかのように、かえって狂気から自由
になれる。このことが書くことに「喜び」を与えるのである。
作家が書けなくなるのは、書かれたもの(作品)が社会的に
認知され、評価されて満足したからではおそらくない。
そうではなく、書くという行為自体が、作家に書くことを
断念させるのだ。書かれたもの(エクリチュール)は、書く主体の
代わりに狂気を語る。書く主体は、そのエクリチュールの脇で
こそ、沈黙することができ、その沈黙可能性が、書かないことを
やがて可能にするのである。
それ故、エクリチュールとは、葬式における「泣き女」に
どこか似ている。
318 :
吾輩は名無しである:02/10/17 02:49
晒しあげ
>>318 晒しあげにしても、反応はないと思うけど。
「鏡 miroir」に映った自分(鏡像)は、確かに自分なのだけど、
自分ではなくどこか他者のようにも見える。実際、鏡像は、
内部から知覚された自己の身体の像よりも、他者の身体の像に
遥かに近似しているからだ。
それと同様に、自分の書いた言葉は、自分の言葉というよりも、
他者が書いた言葉に似ているということだ。無論、その他者とは
鏡の自己のことだし、従って、確かにそれは自己そのものなの
だけど、鏡の自己が、他者にこそ近似していることに変わりは
ない。そして我々が知り得る自己とは、つまるところ、その
鏡の自己でしかないだろう。
我々は鏡を使わずして、直接自分の姿(特に「顔 visage」)を
知ることは大変困難だからだ。しかし、その唯一知り得る自己の
像(鏡の中の自己)が、むしろ他者にこそ近似しているとしたら、
「本当の自己」とはどこに在るというのだろうか?
それ故に、「私は一人の他者である」と、ここでランボーと共に
言うことが許されるだろう。けだし、自分の書いた言葉とは、
むしろ他者が書いた言葉に似ている、と言ってよい所以である。
さて、
>>320の話を踏まえて、「完成度」という詩を
読んでみたいと思います。
「完成度」【77/80,0】
「自分を偽ったまま
消えてゆけたら
かなり幸せかもしれない
何か一つの作品を完成した様な
満足感の中
最初から存在しなかったであろう
本当の自分って奴が
どこかで満足気に笑うだろう」
世界を「劇場」に例えるとすると、我々は、そこに登場する
「役者」である。役者は一定の「役回り」を与えられ、その役を
演じる。その役とは正義の見方役かもしれないし、悪役かもし
れない。ともあれ、世界が劇場ならば、我々は何かを演じている
「道化」と鋭く隣接することになろう。道化という役があるの
ではなく、役を演じている様自体が、一つの道化なのだ。
AZUKIはこの詩において、自己存在のそういう「道化性」という
ものを強く意識しているように見える。自分を偽り、何かを演じ
ている道化のような自分。そういう自分の身振りというのは、
何か一つの劇のような「作品」を仕上げているかのようである。
かのように演じることでしか生きられない自分というのは、所謂
「悲しきピエロ」かといえば、そうではない、とAZUKIは言う。
むしろ「かなり幸せかもしれない」、と。
不幸がどこかにあるあるとすれば、それは役すら与えられず、
「遊んでいる歯車」でいることのほうではないのか。
(
>>321の続き)
ところで、謂う所の「本当の自分」とは何であろうか。
それは自分を偽らず、従って、一切の役回りから解放された
果てに見い出される何者か、である。しかし一切の役回り
から解放されたような自己というのは、先程述べた、役すら
与えられていない、不幸な「遊んでいる歯車」とどこか違う
というのだろうか。
遊んでいる歯車とはいわば、「存在の零度」である。どの歯車
とも噛み合わず、空回りし続けるそれは、その存在感の乏しさ
においてこそ特徴付けられるからだ。問題の「本当の自分」
なるものは、実はそういう遊んでいる歯車にこそ似ているとする
なら、それはまさに「最初から存在しなかった」と形容されて
も不思議はないであろう。
この詩の最後の仕掛けは、存在しないその「本当の自分」という
ものが、存在してはいるが、道化でしかない「偽りの自分」を
「笑う」というものである。AZUKIは、この最後の「嘲笑」に
よって、本当の自分を偽りの自分に対して逆に優位に立たせた
ように見える。この詩の意図するところは、ある意味そういう
ところにあるのかもしれない。しかしここで改めて、
「かなり幸せかもしれない」
という文の意味を考えたらよい。たとえ偽りであったとしても、
存在する現実に繋がっていたほうが、本当だけど、在りもしない
ものに拘るより、遥かに「幸せ」なのだ。
この時、在りもしない本当の自分が最後にあげる崇高な「笑い」は、一切の充溢を剥奪された、何の内実もない、全き空虚な笑い
へと転落しているのである。
【表現するということについて】
詩人というか、一般に、表現をなそうとする者にとっての苦悩
は、おそらく、イメージの発生に対して、言語が常に遅れて
付いてくるということだと思う。何か良いイメージが浮かんで、
「よし!」と思い、それを言語的に表現しようとしても、その
イメージのスピードに言葉が付いていけないということがある
わけだ。「あれ、何て書こうとしたのだろう?」とその時なって
しまう。そこで失われたイメージを手繰り寄せつつ、なんとか
言葉にしてみるのだけど、言葉にした途端に「これではない」と
失望し、失われたイメージが二度とは帰ってこないという
もどかしい現実に頭をぶつけたりする。
一般に、コミュニケーションというのは、自分の内部イメージ
を言葉にすることで行われる。しかし、先述したように、表現
されるべき内部イメージは、表現する言葉に対して常に先行
していて、まさに先行しているが故に、言葉はそれに追い付け
ない。イメージ(表現されるもの)と言葉(表現するもの)の関係は、あたかも、亀に追い付けないアキレスのようである。
それ故、言葉はしばしば、イメージに追い付けずにそれを
取り逃がしてしまう。
ここから、"コミュニケーションの一般的不可能性"なんていう
極端な仮説さえ浮かぶ。アキレスとしての言葉は、亀としての
イメージに到達することが出来ず、結果、表現したいことが、
ついには表現されずに、ただ「沈黙」だけがそこに残るからだ。
(
>>323の続き)
思うに、詩集というのは、その亀に追いつけないアキレスの
憂鬱の記録みたいなものではないだろうか。
そして、その詩集の言葉が、自身の内部イメージの純粋な
表現であろうとすればするほど、アキレスの憂鬱は深まる
ことになり、その言葉(表現)は、むしろ表現することの失錯の
記録となる。
それ故、内部イメージを受胎しそこなった言葉の戯れこそが、
詩的言語の本質をなすこととなるが、しかしその新奇な言葉
の戯れに目を奪われることなく、それを表現することの失錯
の記録として読む時、悲しくも流産してしまった内部イメージ
へのレクイエムがきっと奏でられるように思う。
私的なことで申し訳ないが、amazonに俺の書いた『80,0』
のカスタマーズ・レビューが掲載されました。
カスターマーズ・レビューがゼロだったので、何か寂しいなぁ、
と思い僭越ながら書いてしまいました。
相変わらず、硬い文章でレビューを書いたわけであるが、
そのことが逆に『80,0』の価値を落としてしまっているようで、何とも心苦しい。書かなければよかったかな、と今少し後悔
している。
それと、「何の障害もなくすらすら読める」みたいなことを
書いたわけだが、これは場合によっては馬鹿にしていると
とられる恐れがあるんだよね。難解な詩ほど価値があるといい
固定観念があるし、わかりやすい=レベルが低い、下らない、
という固定観念もあるからね。
だけど、「何の障害もなくすらすら読める」というのは、自分
にとっては全くの貴い価値なんだよ。
それは言葉の「透明さ」をこそ意味し、その透明さが今の自分に
とっては有り難く、そして、何より美しい。哲学みたいな不透明
な言語の群れに埋没して、そこで腐って来た自分にとっては、
透明な言葉は実にすがすがしくて、清らかだ。
.....『80,0』、amazonでは相変わらず在庫切れ。
>私的なことで申し訳ないが、amazonに俺の書いた『80,0』
>のカスタマーズ・レビューが掲載されました。
読んでみたけどなかなかいいじゃん♪
>>314のAZUKIの言葉は、以下の三段論法と一つの結論に
よって支えられていると改めて思ったので、書いておきます。
(1)音楽は人に幸福感を与える。
(2)私は音楽活動をしている。
(3)ゆえに、音楽活動をしている私は
人に幸福感を与えている。
(結論)音楽を通じて人に幸福感を与えている(かもしれない)
自分は、それ故、幸福である。なぜなら、他者に幸福感
を与えられるということは、その他者にとって自分が
必要とされているということと同じことだからであり、
人は他者に必要とされることで、自分のこの世における
存在の確かさを確認できるからだ。そして、自分の存在
の確かさを感じる時、人は幸福のなかにいる。
前スレで、「AZUKIは理知的な人だ」という一つの評価が
あったわけだが、
>>328の言語分析から、
>>314のAZUKIの
言葉が確かな論理(三段論法)に支えられて構成されていた
ことが、解ったわけであるが、心理学者の統計データを根拠
にして様々な判断が下されている辺りは、文章の構成が実に
演繹的であり、そういう演繹的思考を好む人のことを「理知的
な人」というのである。
しかし「理知的な人」は、確実な根拠への志向が強い余り、
反面として、探し求めていた確実な根拠がなかったと判明
した時、強い喪失感と挫折感を味わう場合がある。
AZUKIの詩の根本テーマの一つである「喪失と挫折」は、
この線に沿って理解することも或いは可能かもしれない。
330 :
吾輩は名無しである:02/10/21 05:37
らげは小樽市民なんだ。
>>330 まあ、そうなんですけどね。
田舎者でどうもすいません(w
別に自分語りではないが、俺の行っていた高校の遠い先輩に、
文学者の伊藤整がいる。それを記念して、小樽市では
「伊藤整文学賞」が制定されていて、古くは大江健三郎、最近
では中沢新一や高橋源一郎などが、その賞を授賞している。
伊藤整の小樽高商時代には、プロレタリア作家の小林多喜二が
同期として居て、二人は互いにライバル視していた、と高校の
現代文の先生が自慢気に話していたのを、今でも覚えている。
この「伊藤整VS小林多喜二」という対立は、「浪漫主義VS
マルクス主義」という昭和初期の思想上の対立を予感させるもの
があって、面白いと思う。小林は小樽高商卒業後、今は無き
拓殖銀行小樽支店に就職し、仕事の傍らプロレタリア文学作品
を書き、そのことが原因で銀行を解雇され、その後は、
........言わずもがな、である。
対して、伊藤整はその後様々な作品や翻訳を手がけつつ、
一橋大学の教授になる。その時の学生に、神戸生まれの小樽育ち
である、現東京都知事の石原慎太郎がいた。慎太郎は学内の文芸
雑誌に作品を投稿し、それが伊藤整の目に止まり、慎太郎に文壇デビューへの道が開けたと言われている。慎太郎本人が、
そう述懐している。「同じ小樽であることが、云々....」と。
(
>>331の続き)
その後、石原慎太郎は、『太陽の季節』で芥川賞を授賞し、
同作品は映画化され、そこで弟の石原裕次郎が映画デビューを
果たすことになる(確かね)。
つまり、裕次郎の映画デビューの遠因には、伊藤整がいたのだ。
伊藤が慎太郎に文壇デビューへの道を開示しなければ、慎太郎
の文壇デビューは遠のいただろうし、『太陽の季節』がなければ
、裕次郎の映画デビューも或いは無かったかもしれないからだ。
しかも、そこには「小樽」という一つの共通項がある。
そう、「伊藤整−石原慎太郎−石原裕次郎」というラインには、
「小樽育ちであること」という共通せる一つの太い伏線が、
敷かれてあったのだ。
これは、地脈というか、縁起というか、何かそういう力の存在
を感じさせる事件であろう。
自分は自分の生まれ育った小さな港町に、かくも甚大な地脈が
かつてあったとは、今まで想像だに出来なかった。
しかし、それは同時に毎年小樽に来る900万人もの観光客の
群れが、無意識の内に、その黄金の地脈に引き寄せられて来て
いるのではないか、と思う瞬間でもあったのだ。
あと、柄谷行人が小樽について言及している文を
発見したとき、少し感動した。都市論の文脈か何かで、
「その意味で、小樽はもはやcityではなくtownである」
みたいなことを言っていたように記憶している。
この「city/town」という二分法は、cityが現在なお生成
変化を続けている都市のことを指し、townはその生成変化が
治まり、停滞してしまった都市を指す。つまりtownとは、
没落してしまった都市のことであり、かつて北の商都と称された
小樽が、今やその繁栄を失ったことで、まさにcityからtown
への移行を果たしてしまった、と柄谷は言いたいわけだ。
与太話はこのくらいにして、本題へと還ろう。
「3mの遠距離恋愛」【61/80,0】
「トイレの扉が
パタリ 閉じる」
一つの部屋にいる二人の男女。男はトイレに行くと言い、
部屋を後にする。ひとり部屋に取り残されるは、女。
今までの楽しい会話が嘘のように消え、ただ静寂だけが
部屋を覆っている。
男はたかだか3mしか離れた所にしかいないのだが、その3m
というほとんど近さしか意味しないその距離でも、恋人
同士の間の距離ならば、それはこの世とあの世との距離に
似ている。一時も離れたくないという強い気持ちが、3mを
無限の遠さへと変えるのだ。その時、近さと遠さは、区別を
失い、遠い3mという矛盾した距離が生まれ、女は3m先の男を
あたかも遠くに旅立つ旅人を求めるかのように、恋い焦がれ
るのである。
3mのドラマがそこにはあるのだ。
>>334 「3mしか離れた所」の「しか」は要らないよね(w
スマソ。
・・・トイレに行きたかったのに、先に誰かに入られた!
早く出てくれ!と心から願っている。(トイレに遠距離恋愛をしている)
って詞だと解釈してましたがなにか?
【自殺について】
立川談志の言葉に「自殺出来ないから、生きているだけ」
というのがある。しかし、首を吊れば、或いは、ビルから
飛び降りれば、自殺は容易であろう。だが、談志は
「自殺出来ない」と言う。痛いからか?苦しいからか?
おそらく、そうではない。
では何故「自殺出来ない」のか?それは文字通り「死ねない」
からだ。.....死ねない?人は誰でも死ぬではないか?
無論、そうである。人は皆死ぬ。だけど、「死後の生」がある
としたら、人は「死ねない」のではないか。なぜなら、死後の生
があるのなら、死んだと思いきや、また即座に生き返ってしまう
からだ。でも「死後の生」の存在は証明されていないでは
ないか?無論、そうである。
ここで人が何故自殺したくなるかの理由を考えるべきである。
その理由とは、何より「生への絶望」であろう。人は生に絶望
するからこそ、自殺したくなるのだ。しかし談志が言うように、
人は自殺したくても、自殺出来ない壁のようなものにしばしば
ブチ当たる。生に絶望したのなら、さっさと自殺してしまえば
いいのだが、それが実に容易ではないのだ。
(
>>338の続き)
ここには一つのパラドクスがある。普通、人に自殺を思いとど
まらせるものは、「死への恐怖」だとされている。しかし、
「生への絶望」を滅ぼすためにこそ自殺をするのなら、自殺
による死はむしろ喜びでなければならないはずである。なぜなら
死こそが絶望的な生の有様に止めを刺してくれる"メシア"だ
からだ。従って、死への恐怖が自殺の阻止役だとは言えない。
であるとするならば、人に自殺を思いとどまらせるものは何か?
それが「死への恐怖」でないとするなら、何なのか?
「生への執着・未練」なのか?しかし、自殺志願者は生にそも
そも絶望しているのだから、生への未練はないはずであろう。
にもかかわらず、自殺志願者は自殺することをしばしば思い
とどまり、生へと帰還してくるのだ。
人はしばしば自殺を思いとどまる。その阻止役が「死への恐怖」や「生への未練」でないとするなら、その思いとどまりは、
実に不可解なことであろう。およそそこには明確な根拠が見出せ
ないように思われる。つまり、自殺の阻止原因はおよそ、
経験論的な目に見えたり、感じられたりする類のものではない
ということだ。
(
>>339の続き)
自殺の阻止原因が経験論的なものでないとするなら、それは
その原因を形而上学的なところに求めなくてはならないように
思う。そこで出てくるのが、まさに「死後の生」なのだ。
例えば、自殺をすると、死後の生においてさらに悲惨な目に遭う
という説明がある。その説明からすると、人が自殺を思いとど
まるのは、自殺をすると今の生以上の絶望を死後の生において
体験しなくてはならない危惧があり、それに遭遇しないため
にこそ、自殺を止めるということになろう。これはある意味、
説得的な説明の仕方であるし、この論理はしばしば宗教の教義
なかにも見出されるものである。
しかし、思うに、事態はより単純ではないか。なぜなら、もし、
死後の生があるのならば、単純に言って「死ねない」からで
あり、生は数珠のように連鎖し続け、そこでは死は永遠ではなく
一瞬の断絶に過ぎないからである。....生の後にはまた生。
この「生の数珠繋ぎ的連鎖」の前では、自殺など全く
虚しい抵抗なのであり、その無益性が人に自殺を思いとどまら
せるのではないだろうか。
それ故、自殺とは仏陀の手の中で暴れる孫悟空の抵抗
にどこか似ている。だが、その孫悟空の抵抗を忘却しては、
おそらく人は「人間」にはなれないだろう。「人間」とは
"不可能な死"を不可能のまま追い続ける限りにおいて「人間」
だからだ。死の想念を持たずして、「人間」たろうとする
ならば、その「人間」とは「クローン」か或いは「幽霊」の
別名に過ぎないだろう。「クローン」も「幽霊」も死の想念を
剥奪された、化け物的な"生そのもの"だからだ。
このように「死ねない」と悟る時、多分<勇気>が
涌いてくるように思う。死という「出口(逃げ口)」を
常にどこかに想定しておくと、大抵何事に対しても
逃げ腰になるし、ましてその出口たるや、なかなか到達
できぬ代物であるのなら、余計に気持ちは宙に浮き、
なにがなんだか解らなくなると思う。
しかし死という出口がそもそもありえないとするなら、
気持ちは統一される。つまり出口がないなら、当たって
砕けろという、野蛮な<勇気>がその統一された気持ちから、
涌いてくるように思うのだ。逃げ場や出口を塞がれた閉塞
空間だからこそ、エントロピー(無秩序)の増大を防げて、
そこから熱エネルギー=勇気を拡散させずに高濃度のまま
取り出すこともできるというわけだ。
穴から熱がどんどん逃げていくのを見逃す手はない、と単純に
思う。穴を塞ぐ"努力"くらいすべきであるし、多分、誰の
手によっても、その穴は塞げるものだ、と思うからだ。
あっ間違えた。エントロピーは出口のない閉域でこそ
増大するんだった。....この例えはなしということで(w
要するに、出口なんてそもそもなく、ないものに期待
してもしょうがなく、そんな状態では気持ちは宙吊りで、
そんな宙吊りでは不安定だから、出口=死なんてない、と
割り切ったほうが、たぶん肝がすわってくるんじゃないか。
ということなんです。
(1)人間は必ず死ぬ。
(2)私は人間だ。
(3)故に私は必ず死ぬ。
この三段論法は、論理形式としても完璧だし、内容の面
でも、未だ死ななかった人はいないので、反証はされておらず
それ故に、科学的にも今のところは真理なんだよね。
だけど、この強固な三段論法こそが、ニヒリズムの源泉でも
ある。どうせ皆死ぬんだ、と思っていては、どこにも価値
なんて発見できなくなるからね。だから、この三段論法は
論理学的にも科学的にも真であるが、むしろそれ故にこそ、
そこに哲学的に抵抗すべきではないか、と思う。
カントが「魂の不死」を唱え、ボーヴォワールが「人類の不死」
を唱えたとき、その「不死」の概念はなにより、「人は皆死ぬ」
というニヒリズムの源泉への対抗として提起されていたことが
ここで想起されていい、と思う。個々人は確かに死ぬが、
魂や人類総体は死ぬことはない、とカントやボーヴォワール
は考えた。
だから、彼らは、「魂への態度」や「人類総体への参加」をなす
ことで、ニヒリズムを越えられると考えたのだ。
確かに、これらのことは、科学的にはナンセンスであろう。
しかしだからこそ、これらは哲学固有の対象として残るのだ。
多分、ニヒリズムと科学至上主義は、共犯関係にあるのだが、
しかし、魂の不死や人類の不死といった「不死」の概念が、
科学至上主義のなかにこっそり紛れ込む時、「クローン」が
誕生するということに注意すべきだろう。これは絶望的な仕方
での"科学的な"ニヒリズムの超克様式なのだ。このグロテスク
を批判するためにも、やはり哲学が必要だろう。
....1000レスまでの道はまだ遠いな。
スレ逸脱の与太話で繋いでいくのにも、
さすがに限界を感じてきたよ。
ここらで誰か「相棒」がほしいところだね。
ところで、テレビ朝日系でやっている『相棒』って
刑事もののテレビドラマ、面白いね。
主役を演じる水谷豊っていう俳優がいいし、その役柄も
いい。極めて論理的に犯人を絞り、理知的に追い詰め行く
刑事役なんだけど、最後に抑えて来た内なる情念を爆発させる
ところが、なんともいいんだ。
論理的であることと情念的であることとを、共に兼ね備えた
魅力的なキャラに仕上がっていて、実にいい。
.......また与太話をしてしまったな(w
とりあえず、今日、ジュリア・クリステヴァの
『はじめに愛があった』が届く予定。これを読んで、
枯渇した脳にネタを仕入れて、批評の新たな地平を
開拓しようかな、と....。
因みに、このクリステヴァという人は女流の精神分析家
なんだが、彼女の若い頃の写真を見ると、かなり美人なんだね。
だから、彼女の本を買ったわけではないけどね(w
(いまはもう、すっかりバアさんだし。)
ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』は
残念だけど、イマイチだった。
346 :
吾輩は名無しである:02/10/27 21:32
おちるぞ、保全あげ。
【告知です】
突然ですが、ここでの"連載"はこれで打ち切りにします。
なぜなら、ここでの続きは自分のHPを作ってやろうと
思っているからです。ここでのカキコでは、自分の書いた
文を書き直したりできず不便ですし、いつかはこのスレにも
限界が来ますから、それではつまらないからですね。
そこで自分のHPを作ろうと思った次第であります。
この公共のスレを自分のノート(或いは日記)代わりしたことを
深くお詫びします。続きは文字通り、自分のHPの上のノート
でやりますので(w
みなさん(特に前スレのみなさん)からは沢山の示唆を
頂きましたし、これからも頂くでしょう。毎度のことながら
感謝しております。
それでは、ごきげんよう。
*HPの内容は無論『80,0』とGARNET CROWの詞を中心と
するものになるでしょう。このスレでやったような哲学的
与太話はなるべく排して、ストイックな純然たる文芸批評
的なものにする予定です。
.....という自分語り的与太話をして、これにて終わります(w
(・∀・)ヤッテクレル!!
らげ、、 またね。
らげ・・・HP出来たらアドレス教えてね
らげ、また来いよぉ〜う
352 :
吾輩は名無しである:02/10/29 09:41
むしゃくしゃしてきた。あげてやる!
353 :
吾輩は名無しである:02/11/01 23:06
Willkommen bei Amazon.de!
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いやはや、声援ありがとうございます、みなさん。
HPが完成したら、このスレにURLを公開します。
HP完成までに、このスレが残っていることを
切に願っています。なんとか年内までには完成させたい
ですね。
HPのタイトルはもう決めました。
『AZUKI七の詩の余白』
これがそのタイトルです。このタイトルは変えることはなので、
このタイトルで検索してもヒットするかもしれませんね。
かくして「それでは、ごきげんよう」といいながら、また
登場してしまいました(w
HP作りは予想以上に面倒なんですね。HTMLタグとか色々
ありますからね。なので、いつHPが完成するか自分にも
解らないので、せめてHPのタイトルだけでも報告したいと思い、登場しました。このスレもいつなくなるか解りませんからね。
ここは詩・ポエム板ではありませんから。
前スレでの苦い経験もありますしね(w
>>354 「このタイトルは変えることはなので、」
↓
「このタイトルは変えることはないので、」
保守しとくよ、ホムペが完成しちゃってもね。
保守します
保守します
sageでも保守は出来るから、空ageはやめとき。
ホムペ、まだぁー?
捕手
投手
さっそく開いて見たらあまり簡素だったのでアセった。
niftyのテンプレか、家族での写真を紹介する趣旨でのテンプレ、だったっけ。
現行のダサさはともかく、更新を楽しみにしているよ。
こちらの勘違いでなければ、たしか以前文学板に
>煙草を吸わなければ読書もできないようなヤツは(以下略
みたいなことを以前書き込んでいなかったかな?
2ちゃんねるでのハッタリ加減とHPでのリラックス加減との対照にワロタ。
365 :
吾輩は名無しである:02/11/11 00:50
二塁手
366 :
吾輩は名無しである:02/11/11 23:01
>>363 文字サイズによっては見にくいよ”
行替えやめるか、文字サイズ指定すべし。
あとBBSつけようよ。
らげさんはもう来ないのか?質問。AZUKIは以前「今までは中村の声のことだけを考えて詞を書いてきた」と言っていたがどういう意味だ?やっぱ同じグループ内でも作詞提供という感じか?
この板で初めて読んだスレがここ。
おもろい・・・(w
>>364 文学板でタバコの話はしたのは、多分別人(w
それとHPのデザインを変えてみたので、どうぞ見にきて
下さい。前よりはましになっているはずですから。
>>366 行替えを止めたので、前より見やすくなったと思いますが、
どうでしょう?掲示板もつけましたよ。
掲示板のURLは以下の通りです。
http://www2.realint.com/cgi-bin/sbbs.cgi?tsposition >>367 中村の声は基本的に沈静とした深い声なので、その声に
ふさわしい叙情的で切ない詞を提供するようつとめてきた
ということではないかな?
(「幸福なペット」のような例外も確かにあるけど。)
また自分への質問があったら、今度はHPの掲示板のほうで
お願いします。質問、歓迎します。
370 :
吾輩は名無しである:02/11/18 20:27
落ち過ぎ
おちまさと
372 :
吾輩は名無しである:02/11/24 05:01
あげ
373 :
吾輩は名無しである:02/11/24 23:31
らげが来ないから『大好き、AZUKI七!』が落ちちゃったよ〜(ノ_・。)グスン。。。
一日書き込みなかっただけで落ちるとは…
油断してた
保守
376 :
吾輩は名無しである:02/12/02 12:30
あれは確かに前情報なしに聴くと
交通事故だよな。一瞬の間にもう離ればなれ・・・。
この歌詞って、砂漠に浮いている魚のポスターから来てるんだよね。
それにしても、七さんはこの歌のことを
「御葬式の歌です。」って言ってたのには笑ったよ。
保守
378 :
吾輩は名無しである:02/12/10 17:10
新曲発売age
379 :
吾輩は名無しである:02/12/12 15:27
らげちゃんが来ないから今後このスレは『大好き、AZUKI七 part.2』としていい
ですか?ここなら落ちる心配もないし、マターリできるし。。。
なな〜の事なら何でもありって事で。。。。
380 :
吾輩は名無しである:02/12/22 01:28
らげ come back
381 :
吾輩は名無しである:02/12/22 01:36
r age
382 :
吾輩は名無しである:02/12/22 01:59
邦楽板のAZUKI七スレはなくなったの?
>>382 スレストかけられて、dat落ち。
個別メンバーのスレは×ということらしい。
>>380 五月雨の 伏せし瞼に しなだれる
捨つるJewelに 君の面影
385 :
吾輩は名無しである:02/12/22 21:06
「@」要らんことね?
年末の祭りは「イノキボンバイエ」に決まりだな。
388 :
吾輩は名無しである:02/12/22 21:14
わかった、なるほどねらげタソ
「ideology」は「固定観念」って訳すと思う。
哲学者の三木清はideologyを「観念形態」と訳した。
しかしこの場合は、固定観念と訳すのがいいような。
「空理空論」という訳も捨てがたいが。
因みに、ideologyは「政治思想」とも意訳されるが、
詞の全体を考えると、そういう意味で使っているとは
思えない。要するに、ideologyとは、それに掛かっている
形容詞句が明かしているように、「何処にいても揺るがぬもの」
の意であろう。しかし、歌詞のなかで、まさか、ideologyという
語に出会うとは思わなかった。
>>383 レスどうも。
そんな事情だったのですね。
残念。
らげさん、AZUKIの詞、容姿からしてクリスチャンっぽくないですか?
>>391 確かに、詞に「祈り」というフレーズが多いし、
ロザリオを付けているからそう思えても不思議は
ないですね。でも本当の所は判断しかねます。
ロザリオはファッション化もしているし、仏教徒もイスラム教徒
も祈りますから。
でも「聖書」は詞を書く上で参考しいていい文献だとは
思います。というか、してくれたら嬉しいですね。
芥川龍之介はキリスト教を「詩的宗教」と言っていますが、
その聖典「The Holy Bible」にはきっと詩的インスピレーションを
喚起する何かが眠っているということなのでしょう。
保守
tesuro
凶のレス】
このレスを見た人間は十三日以内に身近な人物へ災いが訪れます
*回避する方法が一つだけあります。
それはこのコピペを13日以内に7つ、別のスレに貼り付ける事です。
(^^)
398 :
吾輩は名無しである:03/01/21 04:42
age
>>309 もの凄い亀レスですけれども、309さんが七夕の日のことを
書いて、かつて僕がレスしました。あの時は確かにああ思ったのですが、
改めて、”らげスレ”を読み返したところ、今はこう思います。
七夕の日に、星が流れた。それを見た人は恐らくひとりではない。沢山の人が
見、そして、それに願いを込めただろう。しかし、星には一人の願いしか叶える
力がないのだとしたら、沢山の願いは何処へ行ってしまうのだろう?
星が流れた偶然に、人々の願いが偶然重なり、僕が託した星への願いは、
人々の願いのなかで千々に裂かれている。偶然に揺さぶられる僕の願いは
、そうして、僕の身体を軽くした。真夏の夜闇のなか、僕の眼は猫のように、
暗闇に反し、世界をしかと捉えていた。かつてどこかで見ていたような風景が
既視感とともにそこに現れている。そう、既視が闇夜を明る照らし出したのだ。
そして、静寂の闇夜に現れたかつて見た世界は、僕から言葉を奪うに十分だった。
と、こんな感じです。相変わらずピント外れの読みかもしれませんが、
”らげスレ”を改めて読み返して、前の僕の読みがあまりにピントがずれて
いたように思え、申し訳ない気持ちになったので、この場を借りて書き直しました。
またずれていたらすいません(w。
400 :
吾輩は名無しである:03/01/24 12:32
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ピュ.ー ( ・∀・)< 軽やかに400ゲット
=〔~∪ ̄ ̄〕 \________
= ◎――◎
保守
402 :
吾輩は名無しである:03/03/02 01:40
ありゃロザリオじゃねえ。
あんな十字架でかくちゃにぎれねー。
保守なんです
___
/::::::::::::::::::\
/::::::::/ 丶::::::\
/:::::ノ \:::::ヽ
|:::::::''''''' ''''''' :::::|
|::::|.(●) (●) |::::| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|::::| .. .. |::: | < 私をおかずにしてティンポをシゴきなさい!
|::::\ 〜 /:::::::| \________
|::::::::::\___/:::::::::::::|
|_:::::::::| |::::::::(⌒)::|
|::::::::::|-、 ,-/......ノ~ レ-r┐
/....|::::丿|,,,,,,/.....ノ__ | .| ト 、
/.........レ.....| 〈 ̄ `-Lλ_レ′
レ...................|/.... ̄`ー‐---‐′
405 :
edz@g:03/03/16 17:02
>>181 らげ君、実は違うんだ、すまん。
あれは「由利り」が「なな○ ?/3?」に、お願いごとをしたせいなのだ。
自分では、ポジション上出来ないから、自分に代わって、カメラに向かっ
て、念を送る様にとね。
多分悪いのは、私です。
>>314 これも、もしかすると、私が悪いのかもしれません。
こっちにも来やがったか
407 :
edz@g:03/03/17 00:11
>>406 それは404の事かね。それとも私の事かね。(w
もし私の事だとしたら、少し言い訳を・・・。
いや、「由利り」と「なな○ ?/3?」の話をふられ、間接的に彼女らの
仕事の内容に対するコメントを求められた時、話題の中で、先方が私=ら
げ君の可能性があると、疑っている節があった事を、思い出したんだよ。
その関係で、彼に迷惑がかかっていたかもしれんと思って、ざっと書き込
みを読んだんだが、その様子は無いようなので、安心した次第。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
409 :
吾輩は名無しである:03/04/20 00:04
age
とりあえずedz@gは鬱陶しい。
川*・-・)
はっきりいって文学板にいらねーだろ。こんなもん。
小豆7とかなんとかなんやねんくだらん。
目障りなことこの上ない。別のところ、音楽板とか
そこらへんでやってればいいやんか。
414 :
吾輩は名無しである:03/05/21 07:03
こんなものやっつけでつくってしまった…
ゆりっぺの2番煎じだな
これでメンバー4人中3人目のget系AA
/――――――─────--,
/長者番付第8位(関西部門)/
. /―――――――───---`'
/
/
.'⌒⌒丶
||/从 从)
/|ノ#´ー`) GARNETCROWの名ポエマー、AZUKI七が○getよ。
lニニニニニl=====⊂/\__〕 ノ 高額納税者にひれ伏せ!貧乏人共が!
/丶7 |m; ブゥーン
/ //7ゝ〇 ノ\ ブゥーン
/ (_///⌒γノ/___)
/ /// ///ノ// /
// |/ ///◎) パラリラ
/ / / // パラリラ
// V ノ \
岸本早
>>3さんへ あなたじゃやる気が起きなかったのよ(プ
岡本仁
>>4さんへ ゆりっぺに近づくなボケッ
>>5松未歩さんへ 私のほうが若くてよ
中
>>6ら由利さんへ (´Д`;)ハァハァ
愛内里
>>7さんへ あれ?長者番付何位?
上
>>8らあずみさんへ せっかく頑張って詞の書き方教えたのにね(プ
>>9ら木麻衣さんへ 芸能部門何位だったの?(プッ
古井弘
>>10さんへ GCの影の支配者は私よ
age
age
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
418 :
吾輩は名無しである:03/06/03 12:59
あげ
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ