1 :
アヴァンギャルド志向:
この人のスレが落ちているようだ
個人的には吉本隆明なんかよりも、この「美」に対する執着が好きなのだが...
あとは宜しく
俺も吉本より花田の方が好き。吉本などとは全然格が違う人だと思う。
共産主義などにハマらなければもっと才能を伸ばせたのでは?
3 :
吾輩は名無しである:01/09/26 01:12
20代、30代で花田を読んでる人なんていないでしょう。
4 :
吾輩は名無しである:01/09/26 01:25
ひでえな、講談社文芸文庫。
カタログで見るとこの人の本十二冊出しているはずなのに
書店には2、3種類しか出廻っていない… あとは品切れ
5 :
fishman:01/09/26 23:01
>講談社文芸文庫
いや、文庫化しているだけましかも。。花田清輝は人気が高いので、
古本屋廻れば結構手に入りますよー。あ、ちなみに20代です(笑)
高校生に、小論文の文章うまくなりたいんですけど、どうすれば
いいんですか?と聞かれた時、『復興期の精神』を何度も読みな
さいとアドバイスしたことを覚えていますが、今思うとあまり
適切なアドバイスではなかったなあと思います。
7 :
吾輩は名無しである:01/09/26 23:18
>>6(JPBさん)
『復興期の精神』の文章、酷いっすよ・・・
8 :
fishman:01/09/26 23:22
『復興期の精神』。。誰かに何かを伝える文章ではないですねぇ。
何というか、こう書く必然のようなものまで見ないと読めないと言うか。。
>7さん
(苦笑)。何ともはや・・・ただ、アレは良くも悪くも花田の文体に
対して、どう自分は反応するかっていう試しが出来そうです。
『小説平家』は好きです。
>fishmanさん
『復興期・・・』、まあ戦中期真っ只中の頃書かれたということも
あるのでしょうが・・・中毒性のある文章だということも出来そうです。
>>5 なるほろ。
実は「新編映画的思考」を買って読みたかったのだけど、
目星を付けていた古本屋の在庫が消えていて図書館で全集を
借りるのも面倒だし、どうしよっかな〜 と思っていたところでした、、、
12 :
fishman:01/09/26 23:38
>4さん
うろ覚えですが、岩波文庫に入ってなかったですかね?花田。
頑張って手に入れて下さい。
>JPBさん
8の書き込み少し言葉が足りなかったかもしれません(汗
何というかこう「私はかくかくしかじか思っている。」という
ストレートな意思表明には向かないですよねーって話でした。
私も中毒組です。はい。
13 :
吾輩は名無しである:01/09/26 23:41
吉本・花田論争の詳細が知りたいですね。
14 :
fishman:01/09/26 23:48
>4さん
ありましたね。これ普通に買えると思います。
中身はあんまり覚えてないですけど。。
花田清輝評論集 粉川哲夫‖編
出版地 :東京
出版者 :岩波書店
出版年月:1993.10
資料形態:292p 15cm 570円
シリーズ名: 岩波文庫
ISBN:4003319214
15 :
吾輩は名無しである:01/09/26 23:49
60年安保世代が2chに来てるかなあ? 詳しいと思うけど。
>> fishman
Oh!せんきゅー。岩波文庫か…。
さっそく捜してみますです
17 :
K.O.M.F.:01/09/27 00:12
>>13 批評空間U−20
【共同インタビュー】五〇年代の運動空間 武井昭夫
に詳しいよ。
19 :
K.O.M.F.:01/09/27 00:43
>>2 >吉本などとは全然格が違う人だと思う
学生のころ埴谷の「永久革命者の悲哀」(『闇のなかの政治』所収)で
花田を知って、『復興期の精神』を図書館で全集借りて読んで、
えらく感動した。以来花田マンセーなんだけど(全集欲しい、一時は30万もした)、
でも、「吉本などとは全然格が違う」とは思わないな。
吉本と論争していた当時の平岡正明がたまたま道で吉本と通りすがって、
ああ、このひとは天使なんだ、このひとと論争なんかしちゃいけないと思った、と
かいているけれども、
おれもたまたま(講演とかではなく)見かけて、花田との論争で激情のままに花田を
罵倒した吉本を敬遠して読まなかったんだけど、なにか落雷を受けたような感じ
になってしまって、慌てて吉本の著作を購入して読んだりしたな。
>>19 訂正 『闇のなかの政治』→『幻視のなかの政治』
21 :
吾輩は名無しである:01/09/27 01:14
花田と吉本とでは教養の幅・深さが全然ちがうでしょ。
吉本に関しては、浅田彰が「てにをはが変で読めない」てなことを
むかし言っていたけど、禿げ胴だったな。
全共闘世代にとってはありがたいお筆先だったのかな。
22 :
吾輩は名無しである:01/09/27 03:00
ファシズム=共産主義と喝破していた稀な左翼。
これが彼の強みだった。教養の質は、実はそうたいしたものではない。
彼の左翼体験はおそらくかみさんが重要なキーだったのでは・・・
女ですな。
左翼体験が躓きの石だったとは思うが、しかし、それがなかったら、
当時掃いて捨てるほどいた単なる恥かき文学青年に過ぎない。
尊敬する人=有島と芥川という孤独な高校生・・・
左翼体験がなかったら渋沢龍彦以前のプチ澁澤って程度の人だよ。
好きなんだけど、何時の時代にも田舎者には受けるテイストだとは思っている。
23 :
吾輩は名無しである:01/09/28 22:48
>何時の時代にも田舎者には受けるテイスト
激しくワラエタ
>何時の時代にも田舎者には受けるテイスト
意味不明。具体的に述べたまえ。
25 :
吾輩は名無しである:01/09/29 07:33
>何時の時代にも田舎者には受けるテイスト
これって吉本の方にあてはまる言葉だと思うけど。
26 :
吾輩は名無しである:01/10/04 02:02
>>fishman さん
岩波の「花田清輝評論集」、どこに行っても見当たらないんです
やっぱ品切れですか。
>>22 >おそらくかみさんが重要なキー
えっ そんなに奥さんが特徴的な人なんですか?
どんな人だったのか教えてください
27 :
吾輩は名無しである:01/10/04 15:20
湯浅泰雄の『ユングとヨーロッパ精神』(人文書院)は、
『復興期の精神』の解説として書かれてる、とも読める。
>>22 世の中には、そんな風に思ってる人もいるのか?
>26さん
そうですか。。岩波はわりと絶版になるの早いですからね。。。
何か、無駄な労力使わせちゃってごめんなさい。
図書館利用を勧めたいところですが、手許においてじっくり読み
たいんですよね?その気持ちは良くわかります。ちょっと時間
貰えますか?もちっと正確に探してみます。
29 :
fisman:01/10/04 21:10
アマゾンなら岩波文庫に限らず全然普通に買えるみたいですよ。
送料無料のようですし。検討されてみては如何でしょうか?
>>浅田彰が「てにをはが変で読めない」てなことを
俺はそう感じたこと一度もなかった。理系のきわめて
わかりやすい文章だと思ったね。むしろ蓮見や柄谷や
朝だの文系の複雑怪奇な文章のほうが気持ち悪いよ。
学問に携わっている人たちは吉本の文章について
よくそういうことをいいます。すでに概念ができあ
がっていてそれをつかって物事をみたり考えたりと
いう人はそう感じるでしょうね。でも吉本の思考法は
現象学的で向こうからやってきた言葉です。
だから既成の概念で化学方程式のように理解しようと
すれば「てにをはが変で読めない」てなことに
なるんでしょうね。
花田さんからそれてごめん。関心がうすいもんで。
32 :
吾輩は名無しである:01/10/05 22:07
花田清輝の軽め随想の、文句のつけかたのチャーミングさに
女子高生のころはまりました。
33 :
吾輩は名無しである:01/10/08 00:10
おそらく花田清輝は石川淳と同様、ただ文体だけで物を
書いていたんだろうと思う。吉本隆明には確かに実感として
ある思想の実体が感じられるが、それは「現象学的で・・・」云々
というのとはまったく関係なく、ただ吉本の思考にはあらかじめ
ある枠組みが設定されていたにすぎない。一方花田には、突発的な
幾つかのアイデアがあるにすぎなかった。すなわち「あらゆる
時代は転形期である」とか「政治上のアヴァンギャルドを芸術上
のアヴァンギャルドと統一させる」などのテーゼだけが。だが
こんなことはすでにロシア・フォルマリズムが提唱し、見事に
失敗していたことに過ぎなかったのである。
あれ、「復興期の精神」が絶版になってるではないか!
講談社学術文庫てめぇこの野郎!
35 :
吾輩は名無しである:01/10/15 19:35
>>33 ロシア・フォルマリズムって、あんた。
統一って言葉に引っ張られすぎなんじゃないの?
36 :
吾輩は名無しである:01/10/18 01:41
あげ
37 :
吾輩は名無しである:01/10/18 01:48
花田清輝は第二次大戦中、「東方会」に身を寄せ「復興期の精神」
を一人書き継いでいた。戦後、戦時中にああした内容のものを書いて
いたということで、“抵抗派”の論客として一躍脚光を浴び、華々しく
活動を開始しはじめる。だがその後、吉本が登場してきてそのブルジョワ性
をするどく衝き、激しく非難され、終いには“ファシスト”呼ばわりされるまでに至る・・・
成る程、花田は芸術をこよなく愛する、多少ブルジョワ的な評論家
の一人だったのかもしれない。だがそれは彼が“花鳥風月”を愛する、
伝統的な日本の知識人の伝統に列なる一人だったということを示して
いるにすぎなかった。そこへイデオロギー的なディスクールの権化と
言うべき吉本が現れた時、それは花田一人のみならず、日本の知識人
の脈絡そのものが壁にぶち当たったというべきだったのである。事実
それ以降、日本の“花鳥風月”な評論の伝統は良くも悪くも新しい
うねりと混沌の中に突き落され、そこで身をよじって身悶えせざるを
得ない状況に巻き込まれていったのであった・・・
ううっ・・・ やっぱ文章乱れてるな・・・
「伝統的な日本の知識人の伝統」ってなんだよ!
アホか >おれ
そう言えば、林達夫が出していた雑誌(「思想」じゃなくてね)の出版元も東方会だったけ?
40 :
fishman:01/10/18 20:29
勝利だよ、勝利だよ。。。
37さん、吉本が突いたのは花田のブルジョワ性なんでしょうか?
ここ最近、当論争に関する書物を漁ってみたのですが、
今一つ争点がクリアーにならないんですよね。
もっとも、それは他の論争についても大同小異と言えそうですが。。。
なんかメールがつかえなくなっちゃいました・・・(独り言)
花田の小説って、森茉莉のそれと似ている気がします。
42 :
fishman:01/10/19 08:06
>JPBさん
なるほど。。。小説との距離の取り方は後藤明生が似ている気がします。
何となく思うのですが、小説を抜きにした花田像ってあんまり
魅力ないかもです。
>JPBさん、fishmanさん
確かに『小説平家』は「小説とは何か?」を考えさせるような作品ですね。
これはほとんど「話芸」の世界だと思えます。「どうでもいい」事(些事)
を、そのまま「どうでもいい」事として語りながら、徐々に焦点を結ばせてゆき
そこで一気に移動させてしまう。焦点は焦点として結実してゆきながら
随時移動され、多層的・多義的な多焦点的世界を浮かび上がらせる。これを
星座配置(コンステラツィオーン)と呼ばずになんと呼ぶのか。花田清輝は
“日本のベンヤミン”と呼ぶにふさわしい唯一の人物ではないでしょうか?
彼は一般で考えられているような「小説」(=フィクション)という
ものは書かなかったわけですが、こうした“語り口”そのものを「小説」
だと考えていた節があると思います。
『復興期の精神』復刊してます!
45 :
吾輩は名無しである:01/10/20 22:47
>>fishmannさん
「花田清輝評論集」、てっきり随想集かなんかだと思って
緑帯の近代文学の所を捜していたのですが、その名の通り、
青帯の「哲学・思想」のカテゴリーにあったのですね。
そちらで捜したらあっさり新本の平積みの棚で見つかりま
した。情報ありがとうございました。
そう。比較項がちいとばかし恣意的なのはご勘弁願うとして、例えば『室町小説集』
を含めて花田の小説群を見てみると、批評なんだか小説なんだか解らない語りの
不埒さというかいかがわしさを感じて、思わず胸躍る。
それは、fishmanさんのいうように後藤の小説の方法であったテクスト間移動をも
思わせる。「『吉野葛』注」なんて、谷崎の「吉野葛」の製作過程を追いつつ、
「史実を配列」しつつそれとは別のものを語ろうとする。それが37さんの言う
ようにベンヤミン的と言えもする。
そしてまあ、さらに一人挙げるとするなら安吾の『信長』とか『二流の人』の
語り口を想起できる。判断の根拠などとりたてて挙げず、ひたすら語ってゆく
その調子は、小説意識の「あらゆる作品は終わりから始まるという明瞭な自覚」
に読み手を立ち戻らせる力を持っているように思う。
47 :
fishman:01/10/22 14:24
>45さん
舌足らずな説明で余計なお手間を掛けてしまったようです。
ごめんなさい。見つかって良かったです。
>37さん、JPB@改さん
2チャンネル上で久し振りに接した刃先鋭いレスに姿勢を
正される思いです。ここで坂口安吾の名前が挙がったことに
対して一瞬深い驚きを覚え、直にそれが深い同意へと変わりました。
『信長』『二流の人』は歴史小説の体裁を取りながら、史実の真偽を
表記することにではなく、むしろ思考の場を現出させることにこそ
評価すべき点があるように思えます。「真ー偽」に対するそのような姿勢は
そのまま花田の語りの磁場へと繋がっていくものでしょう。
>37さん
>こうした“語り口”そのものを「小説」だと考えていた
節があると思います。
ここだけちょっと保留です。それは花田を単純なレトリシャンと
して了解する安易さに繋がってしまう気がするのです。
勿論、文全体の総意から37さんの花田理解がそのようなもので
ないことはわかっています。ちょっと考えてみます。
花田の文章には、確かに固有名詞を濫用して、何かを語ったつもりになっている
という傾向がないわけではない。というか、結構あるから困るんだ、これが。
まあ、それは読者の方で軽くながすとして・・・
例えば『室町小説集』の「画人伝」などでは、何だかわか
らぬ史料を渉猟しつつ忠阿弥を例にとりながら、日本における「ルネッサンス」
というテーマに近づくように見える。でも、その合間に赤松満祐と足利義教の
亡霊との変なやりとりを書いたり、室町時代の百鬼夜行を滑稽に描いたりという
脱臼ぶりは、まあまあユーモリストというか結構適当な小説家花田の姿が見えて
くるようにも思う。
49 :
fishman:01/10/23 20:07
花田清輝に固有の言い回しとして「そんなことはどうでもよく」という
のがあり、くどくどと固有名詞を羅列した後にすっと差し挟まれるそれは、
何かを語ったつもりになっているという傾向すらも相対化しているように
見えるというのは、あまりに善意的すぎる解釈だろうか?
いやー 評論家・花田清輝について何かを論じようとするのは正直かなり難しい。
山城むつみ氏の著作があることもそうだが、ここで、どう見ても「強豪」である二人の論客を前にしては。
というわけで、逃げてました。テヘッ
しかし最近私も花田・吉本論争に関心を持ち、いろいろ資料などを見ていた
のですが、調べれば調べるほど、その論点は見えなくなってくる。
50年代後半から60年代始めにかけて行われたこの論戦で、一つはっきりして
いる事は、吉本は戦争直後華々しい脚光を浴びていた花田を敢えて攻撃目標と
することによって、評論界に地歩を築こうとしていたらしい、ということ。
吉本は、狡猾なレトリックを使って、花田批判を自己のイデオロギーと評論
家としての自己自身の宣伝にすり替えていたようなところがある。
当時、吉本が花田批判を主題にして編んだ著作は以下のようなもの
>『芸術的抵抗と挫折』、『異端と正系』、『擬制の終焉』、『模写と鏡』等。
一方で、花田の反論は個々の雑誌に掲載された論文のみで、量もそれほど多くはない。
資料に雑誌掲載論文が多いことも、この論争の全体像がイマイチ掴みにくい
ものになっている原因であるような気がする。
そこでこの論争の論点を詰めてゆくと、中野重治なども係わっていた、
当時のプロレタリア文学運動や、転向論なども絡んできて一気に文脈が複雑化する。
その中で、吉本はすでに「関係の絶対性」やら「共同幻想」といった概念
について口にしており(というか、吉本はこうした概念をまさにこの論争
の中から見い出してきたのではないのか?)、論点を詰めるとかなり吉本の
文脈になってしまって花田にはフェアではないような気がする。
一方、花田清輝の評論はあまりにも諧謔精神が勝ちすぎているせいで、
他人からの評価を落としている面があるのかもしれない。
いずれにせよ、この論争の発端が雑誌『現代詩』に載った花田・吉本・
岡本潤による鼎談「芸術運動の今日的課題」からだと考えると、論争の焦点
は大衆の文化・芸術運動が文字通りの「大衆運動」に与える貢献、というか
有効性を認めるか否か、という点に懸かっているように外側からは見える。
内部にどんな葛藤を隠していたかは分からないが、メディア・芸術運動を
重視する花田に対して、関係性の中における個人の主体性の絶対化に力点
を置く吉本、という構図は崩れないようである。
>37さん
吉本花田論争の要点、よくわかりました。サンクス。
花田の持ってる楽天性っていうのは、カメラの比喩なんかを見ていると、
細部把握から全体把握へと一気に行けるかのように書いてしまったという
ことに端的に現れている。吉本はそのあたりは出来るだけ厳密にして、
細部をまとめる上位概念をその都度構成しつつ、全体把握を目指そうとして
いるようだ。だから、花田のそのいかがわしさにちょっとムッとしたんじゃ
ないかな、という感じもするけど、どうだろう?ほとんど直感だから訂正
してほしいけど。
>fishmanさん
「どうでもよく」を考えると、そこには花田のjudgementすることへの誠実
さと躊躇を読み取ることもできる。法的な比喩を使えば、告発と弁護という
二つの批=評の言葉傾向があって、クリティックは告発へ通じ、レヴューは弁護
に通じている。批評家は、それぞれの立場をゆきつ戻りつして、最終的に
作品をjudgementしなくてはならないのだけど、それを読者の代表として代行
せず、読者に事を指し示すことで、judgeを委ねようとする。これが見方に
よっては逃げの姿勢に見えてしまうこともあるのだろう。
52 :
fishman:01/10/28 00:41
>37さん
どうもありがとうございます。政治的な視点から当論争を眺めていたので、
自分自身の無知も手伝って、すっきりしなかったのです。
個人的には、吉本の花田理解が、「職業奉公論者」呼ばわりに端的に顕れて
いるように、杜撰に過ぎるという気はするのですが、発言数を取ってみても
吉本が圧倒的に上であり、ある種の新旧交代として、世評は吉本勝利に落ち
着いているようですね。
>JPB@改さん
法的な比喩に幻惑されそうです。。。花田が最終的なudgementから身を逸ら
している。そこに「逃げの姿勢」ではなく「小説家」を見てしまうのは、
果たして批評家花田にとっては不名誉なことなのかしらん。。。
>fishmanさん
いや、それは確かにそう。それこそ小説家。それも叙事的な。
花田にとっては「ほほほ」くらいなもんでしょう。
そして、それは例えば「開かずの箱」の
「「臥者」には「臥遊」という便利な手があって、足にマメをつくって
歩きまわるでもなく、寝床の中で、天井の染みなんかを見つめながら、
ぼんやり夢想にふけっていると、おのずからその周りに、雲煙が漂い
はじめ、青山がそびえ立ち、谷川の水は、渦をまきながら、流れ出し
心行くまで山水の美を楽しむことができるからである」
ていうとこに表明されてる気もします。
54 :
fishman:01/10/28 21:56
ちと長いですが。。。
「ところが、そのとき、不意にぱっと視界がひらけて、眼下に、まるで海の波
のように揺れうごいている、緑草でおおわれた、広大な盆地があらわれた。
そして、左手にみえる、台地のなだらかなスロープになっているあたりには、
チベット風のラマ寺院らしいものが、まるで船のように、緑の波のなかを浮
きあがったり、沈んだりしているのだ。何という奇怪な景色であろう。あら
ゆるものが明瞭な輪郭をうしなって、溶けてながれだし、みわたすかぎりの
緑の波が、あちらこちらで、ゆらゆらとたゆたっているのだ。そして、その
波は、しばしば、急に大きくふくれあがって、ぐんぐん空中にむかってのび
ていき、無数のホタル火のように、キラキラとかがやく緑の飛沫をばらまき
ながら、その下に浮かんでいる白い船に似たラマ寺院らしいものにむかって、
一気にくずれかかるのだ。」 「かげろう紀行」
平仮名の多用が何となく気になったりもしますが、これって花田のエッセンスが
凝縮された一節だと思うのです。「その下に浮かんでいる白い船に似たラマ寺院
らしいものにむかって、一気にくずれかかるのだ。」ここがちと不吉ではありま
すが、多様性が一方向に定義づけられることなく広がっていくという。。。
ここでふと「砂漠について」が浮かんできたのですが、こう必然的に『砂の女』
について語らなくちゃいけないのかな?と不安になったりするのです(笑)
読み返す…かな?
55 :
吾輩は名無しである:01/11/07 12:32
先日長編漫画「あずみ」を読んでいて、科白中に「太刀先の見切り」
という表現が出てきてそこに語注がついていた。この言葉はもと
もと宮本武蔵の言葉らしいが、相手の切っ先が、自分の身に届くその
微細な距離を読み切って、相手の剣を避け、そして相手に切りかかっ
てゆくことを意味している。
批評家・小林秀雄は言わずもがな、達人である。達人は皮を斬ら
せて肉を斬る、肉を斬らせて骨を斬る、といった武術の極意でもって
迫ってくる。理窟をふりまわすだけの凡俗の評論家が太刀打ちできる
ものではない。花田清輝はあらかじめ自分の分が悪いことを知っていた。
「…理窟などに眩惑されず、自らの肉眼をもって、あるがままの対象
のすがたを、適確にとらえることのできる人物」としての視線の人、
小林秀雄。一方で「(かがいている)眸のひらめきにさえ厖大な理論を
夢見るような人物」として、自己及び評論家を規定する花田清輝。
両者はどちらも、丁度サルトルのように「眼」の暗喩が批評対象と
その主体の関係性を反転させ、地獄を垣間見せると同時に一種、
弁証法的なやり方で止揚する手法であることを知っていたかのようである。
なおも花田は引き下がりはしない。「小林は自己を語ったというのか。
断じてかれは語りはしない。かれが自己を語ったとすれば、それは達人
としてであり、批評家としてではない。批評家としてのかれの生涯は、
たぶん、闇から闇に葬られて行くにちがいない …」
と書いた花田は、小林が批評家として失効していることを喝破している。
小林を主眼として書かれたこの文章(「太刀先の見切り」)は、花田の
小林に対する身悶えするような愛憎・嫉妬がなまなましく描き出されて
いて読んでいるこちら側がむずがゆくなってくるような代物である。
だが我々としては(少くとも、私は)、「肉を斬らせて皮を斬り、骨を
斬らせて肉を斬」ると言った、彼の我流の武芸に遵奉してでも、彼が
筆をとる時の意気込みを信じたいのである。
「首が飛んでも動いてみせるわ、…」
という冒頭に掲げられた彼の意気込みを・・・
56 :
吾輩は名無しである:01/11/12 21:40
魯迅かぁ。ageとこ。
57 :
吾輩は名無しである:01/11/13 20:55
sss
58 :
吾輩は名無しである:01/11/21 17:33
59 :
吾輩は名無しである:01/11/27 01:15
60 :
吾輩は名無しである:01/12/17 11:56
「錯乱の論理」アゲ。
>>59 今ごろ『葉隠』なんて気取ってどーすんだよ?
>>54 「沙漠について」と『砂の女』ですか・・・
どちらも「砂漠の思考」ということで、どういう類縁性が見られるのでしょうか?
というかこの二人、花田と安部の影響関係がどちらがどうなっているのか、
どなたか簡潔にコメントくれませんかね?
ところで山城むつみさんの『転形期と思考』、
読んだ方いらっしゃったら是非レクチャーしてくださーい。この本では
ほとんど花田清輝については触れられてないんですけど、左翼の「転向論」
としては面白いし、門外漢なのでまったく事情に疎いので。
62 :
吾輩は名無しである:01/12/17 14:10
> どちらも「砂漠の思考」ということで、どういう類縁性が見られるのでしょうか?
> というかこの二人、花田と安部の影響関係がどちらがどうなっているのか、
花田がやっていた「夜の会」というグループで一緒だった。
花田の「沙漠」から思い付いて安部が「砂の女」を書いた筈。
映画「砂の女」は、勅使河原宏監督だけど、この人もまた「夜の会」のメンバ。
山城むつみのあれって面白いですか?
読んでからだいぶ経ったので内容忘れました。
批評空間?�-24で大西巨人がなんか言ってましたよね。
内容忘れましたけど、「渡辺一夫をいれると話が通じなくなる」というよなコメントでした。
なんですが秀実「花田清輝」の話題が出ないんですか?
名著なのに。
63 :
吾輩は名無しである:01/12/17 14:29
> ところで山城むつみさんの『転形期と思考』、
> 読んだ方いらっしゃったら是非レクチャーしてくださーい。この本では
大西巨人によりますと、
中野重治の「卑しさ」(=菊池寛に「文学報告会へ入れてよ」と手紙を書いてること)と
渡辺一夫の「卑しさ」(=戦争で大変だってのに俺はラブレーの研究なんかやってる、これは世間一般からみれば『卑しい』けど、自分は大きなもののためにこの『卑しさ』に耐える)では、
「卑しさ」のベクトルが逆。
渡辺の「卑しさ」に揃えるなら、中野は「大きなもののために文学報国会へは入らない、これは世間的には『卑しい』かもしれないが・・」と
ならなければならない。
とのことです。
(花田とはずれてしまいました)
64 :
吾輩は名無しである:01/12/17 22:21
50で言われてる吉本vs花田論争が僕が知ってる話と違うや。
1957年発表の「芸術運動とはなにか」で吉本が、花田の「ユートピアの誕生」
の中の「ユートピア社会ってのは資本制社会の枠内で単純再生産を実現できれ
ば、できるんだ」とと書いてるのを引用して、
「このようなユートピア社会表式を資本制社会のわく内において確立するのが
現代の課題であると注釈したとき、花田の理論はただちにマルクス主義内の典
型的なファシズム化である生産力理論に転落した」(原文)
と言って「花田=社会ファシスト説」を展開した。
でも残念ながら、これ、吉本の完全な誤読で、「資本制社会の中における単純
再生産の確立」が「マルクス主義の典型的なファシズム化」の訳がない。「単
純再生産」っていうのは生産力の停滞なんだから、寧ろマルクスは生産力の飛
躍的拡大を想定していた筈。
花田は、寧ろ戦時下の統制経済にユートピアを夢見ていたファシストや官僚た
ちを揶揄しながら「そんなもん、トマス・モアのユートピアだよ、できっこな
いだろ?」と書いてる。論争の過程でも「『大菩薩峠』と戦争責任」「随筆三
国志」ではっきり「官僚の空想を嘲笑したものをユートピア肯定論だと誤解し、
生産力論者という見当違いなレッテルを貼った」と書いてる。
だから、花田が親切に「キミね、それは変でしょ? 『資本論』の該当箇所を読
み直してごらんよ」と対応してれば、あんな妙な論争にならなかった筈。それを
遠回しな嫌味ったらしい揶揄をし続けるもんだから、吉本が逆上した。もっとも
旧左翼vs新左翼、旧世代vs新世代とかいった要素も絡んでるとは思うけど。
(以上、すが秀実「花田清輝-砂のペルソナ」を参照しつつ)
65 :
吾輩は名無しである:01/12/17 23:57
吉本より↓だとやなので、age
花田の全集を読み返してみて、彼の浪曼派への対抗意識や晩年の匿名批評に興味を
覚えた。花田は戦前、三浦義一と尾崎士郎の対談にケチをつけて大東塾の連中に暴
行を加えられたが、戦後も三浦の友人だった保田與重郎らを批判し続けた。「小説
平家」で後鳥羽上皇を徹底的に相対化し、「室町小説集」の一篇「力婦伝」では後
南朝の自天王や忠義王の母親をマムシを素手でつかんで毒を吐かせるような力持ち
の大女として描いた。これらは全て日本浪曼派的なるものへのアンチテーゼだろう。
彼の出世作「復興期の精神」はもともと「転形期の精神」だったというが、彼にし
てみれば、天皇や上皇が武家によって島流しにされたり、家臣が主君を殺したりす
る下剋上が繰り返された鎌倉時代や室町時代は転形期であり、それらを見つめるこ
とで、日本浪曼派とは逆の、共和主義の要素を歴史からくみ取り、戦後という転形
期に生かそうとしていたのではないか。最近彼の全集を読み返し、そんなことを思
った。
67 :
吾輩は名無しである:02/01/05 21:00
いいな、全集もってるんだ。
68 :
吾輩は名無しである:02/01/06 01:16
花田は戦後初のカフカ翻訳者なんだよね。
それまでは戦前に一つ出たきりで、ほとんど読まれていなかった。
それを国会図書館に英訳が入っているのを、敏感にかぎつけ
そこから訳したと言う。
また戦後初の戸坂潤選集は花田の蔵書からつくったそうです。
ローザ・ルクセンブルク再評価を花田が唱えれば、日本初のローザ
選集がくまれ・・・・花田はすごくないですか。
あ、全部全集年譜によっています。
ロシア・フォルマリズムを日本でやろうとしただけで、
そんなもの、ロシアアヴァンギャルドが失敗したジャン、
という意見もあると思うけど、この時点=50年代にそれをいうのは
世界的にすごい、と思う。ヨーロッパでロシア・アヴァンギャルド再評価
がはっきりなされたのは、ポンビドゥー文化センターの「パリ・モスクワ」
展ぐらいからで、まあいわゆるポストモダン期からでしょ。みんなセゾン
文化にはまったじゃないですか。浅田彰の『GS』のゴダールスペシャル号
とかもろ、ロシアアヴァンギャルド風の表紙だった。
70 :
吾輩は名無しである:02/01/06 01:38
「歯にキヌをきせる」つまり、本質が歯でレトリックがキヌであるという
が、現代においては、レトリックこそ歯なのである、なんてジョイスと
マヤコフスキーを例にとって明快に言う。日本人はフランス語で「pli」
=ひだなんていうほうがありがたがるけど、いいたいことは同じですよ。
スガさんが「紋切り型をもって紋きり型を殺す」という手法と、
『砂のペルソナ』で言ってたけど、こんな『ブヴァ-ルとペキュシェ』
がわかっている人、世界的にみてもこの時期少ないですよ。
フランスの文脈において20年代アヴァンギャルドをふまえ、
60年代にドルゥーズ・ゴダール等がやろうとしていたことと、
これはある種パラレルだと思う。
71 :
吾輩は名無しである:02/01/06 01:43
何故吉本にやられたかのように見えたかというとやはり、
スターリン擁護文があるからだと思うけど、中野重治
なんて、スターリンが死んだときに、ソヴィエト大使館に
香典もっていっている、なのに、吉本は花田と論争以後も
=『転向論』中野は自分でモノ考えてた、と評価する。
このへんも納得いかない。
しつこくてすみません。
吉本は戦後の政治状況より、戦前の『転向』に
はまっていて、そこからモノ言っているんじゃないか、と思う。
戦前の『戦旗』を事細かに調べたり、中野重治の戦前の言動を日本的文脈
に即して、擁護する(そして宮本顕治をけなす)
しかし中野の戦後の言動をみたら、とても花田をけなして、中野をいい、
とは言えない筈。ある種の盲目さ(とそこからの偶然的な明視)からこの時期
吉本が注目されたんじゃないかしら。
73 :
吾輩は名無しである:02/01/07 10:01
『革命的スカラベサクレ』age
74 :
吾輩は名無しである:02/01/07 12:42
中野重治ってフニャフニャしたとこのある人じゃん。
中野は本気でスターリンに感動したらしいから、香典
ぐらい持ってっても不思議じゃないと思う。「むらぎも」
にスターリンを「本当に新しいスタイル」と褒めたたえる箇所
がある。
吉本・花田論争について書かれた「真昼の決闘」とかいうタイトルの
本を見た記憶があるんだけど、誰か知らない? 86年頃。作者は
確か、好村富士彦とかいったような。晶文社あたりだったと思うなあ。
75 :
吾輩は名無しである:02/01/07 17:41
真昼の決闘―花田清輝・吉本隆明論争
好村 冨士彦著
そのとおりです。花田は吉本にわざと負け、吉本を調子に乗らせてだめにしたという
お話です。
知っています。持っています。作者・出版社ともにそれです。
好村さんは、ドイツ文学者で、だが、よーするに60年安保時の、
左翼・新左翼交代時に共産党系で学生運動やっていたらしく、
共産党系で委員長だった、今日本文学者の、野口武彦とかとも
かなり親しいカンジで書いているから、コアな部分にいた人だと思います。
ブント/社学同が吉本を大学に講演によべば、花田を負けじとよんだりした
と書いていて、ヴィヴィドです。当時の学部生レヴェルにも花田や吉本は
よまれてたんだなあーということがうかがえます。論争は書評誌でほぼ
行われているのに。だから論争といっても、今の学部生が『読書人』読むかなあ。
75さんのいうように、「花田は吉本にわざと負け、吉本を調子に乗らせてだめにしたという
お話」という結末は、なんだか引いてしまいますが、 ベンヤミンが今
再評価されているように、花田を再評価というノリで、一定の水準はクリア
していると思います。あと、研究者らしく、スガのとちがって、
文献検索に使える。その我田引水的な結末にいたるまでのお話はスガの
『砂のペルソナ』と似ていて、論理的には花田は圧倒的にスジが通っているのに
なんで、途中から、なんで花田はふにゃふにゃになったんだろう、またなんで
吉本が勝ったということになったんだろう、というものです。
大学の授業で、花田・吉本論争を講義すればこうなる、というカンジ。
しつこくてすみません。晶文社が出版というのも
おそらく関連があります。社長が、小野二郎で英文学者で
、ウイリアム・モリス研究の第一人者ですね。しかしそこに
至るまではモダニズム・戦後左翼運動を通過しているらしく、
花田に関する論文を書いていたり、新日本文学に寄稿してい
たりします。また武井昭夫とも親しいらしく、『武井昭夫批評集』
の月報を書いていたりします。
花田全集の月報も書いていて、
「アントナン・アルトーやマリリン・モンローやルイス・キャロルの面白さ
が分からなければ、花田の面白さが分からないのでは、と書いていた人
がいるが、そんなことはコミュニストにとっては当たり前のことではないか」
というのには、驚きました。『50年代の運動空間』(批評空間)は
そんなにレヴェルが高かったのか?
>>64で疑義が提出されているので、一つネタ元を明記しておきます。
50で記述した大まかな流れは、昭和52年の秋に発行されている『別冊新評・花田清輝の世界』
に掲載されている粉川哲夫氏の記事(「吉本隆明と花田清輝――アンタゴニスムの弁証法」)
に拠るものです。(粉川氏は岩波文庫の『評論集』を編集されている方ですね)まだ
このスレでこの雑誌特集について言及されておられる方はいなかったようなので特筆しておきます。
私はそのすが秀実氏の論文はまだ読んでいないので、その信憑性いかんにつきましては
判断は保留させていただきます。ただ、この雑誌特集は巻末に充実した年譜と書誌が
付随しており、執筆者も充実しておりますので一見の労を払う価値はあるかと思います。
それで花田清輝についてですが、私は「レトリックの人」というごく一般的な花田評には
賛同せざるを得ません。主に評論作品を見渡してみて、あの軽口ぶりというか、
絶えずロジックが反転する手品のような記述ぶりには舌を巻かざるを得ません。
これは吉本の難解で難渋な多少鬱陶しい記述ぶりとは好対照を為していると思います。
花田は一瞬一瞬において、「明視の人」であり、そこに通底しているロジックの一貫性
などには無頓着だったと見受けられます。難度の高い曲芸を見せるためなら、論理性などは
等閑視しただろうと思います。そんな著述家が、まして「イデオロギーの一貫性」を
重視するなどとは到底思えません。上のレスで花田のことを「社会ファシスト」と評した
文言を見ましたが、私には徹頭徹尾、ブルジョワの著述家の姿をしか花田の中には見出せない
のです。そしてそのことで、私は花田を肯定します。マルクスを読んで、マルクスの書く冗談と
アイロニーをしか受け継がない人もいれば、そのイデオロギーをしか受け継がない人もいます。
花田はまさにその前者なのです。
80 :
12人の怒れる消防士:02/01/29 20:49
レイ・ブラッドベリィに消防士の物語があつた。
火を消す消防士ではない。
文字を消す消防士の話だ。
世界から紙に書かれた文字が消えた未来の物語だ。
ガルガンチュアの物語よりも荒唐無稽な法螺話。
しかし、この世でもっとも寡黙で雄弁な男達は、街の消防士たちなのだ。
ブラッドベリの物語では一人一人が一冊一冊の本を暗唱して文学を後の世に伝えようと試みる。
そして、2チャンネルは紙に書かれざる文字によって世界との共時性を試みるものだ。
けれども、2チャンネルを訪れることは、小市民にとっては余りにも危険な行為になったしまった。
しかし、人はいかなる状況にあっても物語ることができる。
花田清輝が試みたように。
現実の消防士たちも職務の遂行を通じて世界に雄弁に語ったのだ。
81 :
吾輩は名無しである:02/02/14 11:29
age
82 :
吾輩は名無しである:02/03/03 01:03
age
83 :
オペラ・おフェラしよるね:02/03/03 01:13
華氏421度上げ
84 :
吾輩は名無しである:02/03/11 04:46
age
85 :
吾輩は名無しである:02/03/19 01:21
age
age
87 :
吾輩は名無しである:02/03/29 20:37
age
88 :
吾輩は名無しである:02/04/07 23:33
age
89 :
吾輩は名無しである:02/04/19 02:05
っっっっっっっっっっげ。
90 :
吾輩は名無しである:02/04/24 20:53
>>44 それよそれ。あんな極悪非道な改竄もないな。
「随時改行を加え」たと称してムチャクチャ。
91 :
吾輩は名無しである:02/04/29 17:10
age
92 :
吾輩は名無しである:02/05/04 05:52
あげ。
93 :
吾輩は名無しである:02/05/14 22:32
age
94 :
吾輩は名無しである:02/05/19 03:51
『ザ・清輝』はまだ手に入るかな?
『ザ・清輝』の中に手書きっぽいのがあったと記憶しているが、
あれは花田が書いたものか?
えらい律儀な字なので。
96 :
吾輩は名無しである:02/05/23 15:03
あげ。
98 :
吾輩は名無しである:02/06/02 10:24
花田の名前を「せいき」って読む人は
吉本の名前を「りゅうめい」と読む人説
99 :
吾輩は名無しである:02/06/02 11:30
>>95 花田の字は、律義というよりも、筆圧の強い、堂々とした、しかも読みやすい字です。
100 :
吾輩は名無しである:02/06/02 11:44
>>98 それがトーゼンやろ!と言う人は
ばななを「りゅうめいの娘」と言う人説
101 :
吾輩は名無しである:
age