甲田式で野菜ジュースのみの食生活を目指す8

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303たま【レス代行】
これらの倫理=神学的な反論は別として、激しい断食に対する教会の拒否には、
別のもう少し俗っぽい理由もあった。断食者が激しい断食のため、その共同体の一種のお荷物となるので、
一部の修道院はこのような断食に反対の命令をしていた。
断食者が疲憊(ひはい)状態になり、修道会が要求している労働を完全に分担することが出来なくなるからである。
教会のその他の反論は、持続的な断食が神聖な霊感だけに由来したものか否か、という疑問にもとづいていた。
とりわけ、もし断食者が非常な注目と尊敬を得るようになった場合、欺瞞や不正な動機が疑われた。

近代初期には多くの修道士は、このような生き方は悪霊の惑わしから生じたという立場を取った。
悪霊に憑かれた者は、秘密裡に悪魔から養われており、食べることができないか、
あるいは食べないふりをしているだろうというのである。これと戦うことは、悪魔と戦うことを指した。

ある者は、単に食物なしに生きていることを、気高さの現われと考えたが、他の者は、そうした生き方は
病気か無能力によると考えた。後者の場合には自発的な禁断ではないから、自己否定を意味しなかった。
時によると、聖人自信がこのことをよく意識していた。
例えば、シエナのカタリーナは、自分の厳格な断食は一種の病弱であって、
随意的、宗教的な実践ではまったくないと述べた。