いいとこ取り健康法(宗教、オカルトを含む考察)

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46たま【レス代行】
「MW1(ムウ)」手塚治虫 著

あとがきのエッセイ「二元論の罠を逃れて」花村萬月

罠がある。天と地、火と水、善と悪・・・・そういった二元論で現実を割り切ろうとする考え方である。
たとえば、警察官ならば物事をそういった二元論で割り切って、なんら破綻をきたさないだろうが、この程度の
ごく単純な二元論がありとあらゆる表現の世界でも散見できるのにはいささか驚かされる。
そういった表現は、自分の馬鹿さ加減に気づいていない厳格な校長先生が、朝礼で偉そうな訓辞をたれるのに似て、
あるいは成り上がりの社員を集めて努力と誠実、などと口ばしるのに似て、不細工なことこのうえないし、
腹立たしく、不気味でもある。

だが、二元論的割り切りは、常に誘惑の甘い匂いを放っているのだ。そして、思考のなかに巧みに忍び込んでくる。
楽なのだ、二元論的思考は。
なぜならば、善と悪、美と醜といった具合に割り切ってしまったとたんに、それでなんらかの真理に到達したような
気になれるからだ。また、そういった表現は、絶対的大多数である阿呆どもに受け入れられやすい。
民衆は、白黒はっきりしたものが好き、というわけだ。
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47たま【レス代行】:2010/04/29(木) 21:24:20 ID:xfSJMOyG0
私の母方の叔父がなぜか「少年」や「少年クラブ」などを毎月取り寄せていた。
私は満足に言葉も喋れぬうちから、叔父の取り寄せた漫画を貪り読(見?)んでいた。
しかし幼い私は手塚治虫の熱心な読者ではなかった。私は鉄人28号派で、アトムは鉄人のあとに読んだ。
私は仰々しいものが好きで鉄人のいでたちの大仰さが気にいっていたのだ。

それはともあれ、当時から漫画と言えば、単純な二元論の宝庫であった。それは対象が子供であるから
当然であるともいえるが、描くほうの漫画家も単純な二元論をのどかに信じていたのではないか。

しかし、いつのころからか、漫画は冗漫な絵ではなくなっていた。先駆者は、もちろん手塚治虫だ。
『MW』はそのストーリーだけを抜き出してノベライズしたら、ご都合主義的な、まるで説得力のない代物である。
しかし、手塚には、大衆にむけられた紋切り型の表現である単純な二元論を克服しようという明確な意志があった。
その意志に支えられて、男女の境界を平然と踏み越えて結城美知夫は悪の道を疾駆する。

だが、悪とはなにか。印象的な・・・・まるでこれを描きたかったがためにこの作品を書き続けたかのような
気さえするエンディングを見てしまった私は、勧善懲悪の陳腐な結末に唾を吐いた手塚の意志に胸をうたれてしまった。
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48たま【レス代行】:2010/04/29(木) 21:25:06 ID:xfSJMOyG0
ところで『MW』という題の核になっているであろうMAN(男)とWOMAN(女)。
二元論の最たる組み合わせである。私自身それを超越するための第一歩として『セラフィムの夜』という
小説を書いた。私事ではあるが、これを書いていたときは、ゾロアスター教的二元論は当然として、
デカルト的二元論からも逃れたいという強迫観念的なものに突き動かされていたような気がする。
いまさら私がこんなことを口ばしらなくても、誰もがそう感じていることだろうが、
男と女、という発想では、もはや諸々に対応しきれないのではないか。

だからこそ、私はスピノザのいうところの「全体を一挙に把握することのできる直感知」を獲得したいと
願っているのだ。しかも、それを無味乾燥な哲学書的文章や錯綜した純文学的手法であらわしてはだめなのだ。
手塚のようにエンタテイメントとして結実しなければ、誰にも読んでもらえない。
読んでもらえない作品は、存在しないのと同じこと。
手塚治虫はそれを結実させ、成し遂げた巨人だ。
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49たま【レス代行】:2010/04/29(木) 21:26:06 ID:xfSJMOyG0
私は野宿が趣味で、無人の山中でごろっと土の上に横になるのが無上のよろこびだ。
べつにゴツゴツじめじめした地面が好きなわけではない。
そうすることによって時々なんともいえない幸福な体験をすることがあるのだ。
そんなとき、私は超越したなにかからの囁きを幽かに感知する。
だが、超越した存在からの囁きはべつに私個人にむけられたものではないだろう。
私が日常と違った環境で眠りにつこうとすることによって、たまたま回路がスパークして、
ごく秘めやかでささやかな青白い静電気が私のからだに通じてしまった、という程度のことだ。
こういった体験は、ごく直感的なものだ。ダイレクトに存在を感じる、あるいは観るのだ。

しかし、そういった体験をもちながらも、私はあくまでも不可知論者だ。
神はいるかもしれない。いや、いるだろう。だが、私とは何の関係もない。
私には、手塚が意識するしないにかかわらず、結城美知夫という主人公を
直感知の象徴として描いたように思えてならない。
結城美知夫は超越的存在を観たのか?その行動には、超越的存在の意志が介在しているのか?
善と悪、男と女、そういった二元論を超越したところになにがあるのか?
それを感じ、考え、観るのは、あなたです。 (おわり)

(※花村萬月・作、さそうあきら・画の「犬・犬・犬」(漫画)は面白い、おすすめ。)