いいとこ取り健康法(宗教、オカルトを含む考察)

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419たま【レス代行】
真砂はこのような法力で、来訪者の相談や依頼を一つ一つ解決していったが、会員から会費を集めたこともなく、人々が御礼として
仏様に供えていった金額が千円になると、孤児院や病院などに寄贈してしまった。こうして真砂は死去するまでの45年間を、
借家住まいをして過ごすのである。
会員の中には分身会の道場を建ててはと勧める人もいたが、真砂はいっさい耳を貸さなかったという。

昭和13年(1938)、日本は大東亜戦争の道を突き進んでいたが、真砂は、「国家の大事の時期だから寺に入って祈願したい」と
申し出、実弟の正智を住職とし、西多摩のひどくさびれていた空き寺に入った。現在の青梅市常福寺である。
真砂はこの寺を修理して再興し、物資も人手も不足する中、昭和18年には聖徳太子殿を落慶した。

昭和24年の末頃より『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の研究に専念し、昭和27年、曹洞宗の宗祖・道元の七百回忌に
当たる年に、大本山永平寺から大恩忌の記念として、『正法眼蔵釈歌集』を出版した。『正法眼蔵』を道歌で解釈しようと
95巻750首にまとめ上げた、真砂の悟道の結実であった。

昭和32年(1957)、横浜の日吉に移り住んだが、都内に近くなったため、かつての分身会の人々が毎日数十名
来訪するようになり、礼拝堂を増築、ここを常福寺別院「分身院」と定めた。
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