いいとこ取り健康法(宗教、オカルトを含む考察)

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416たま【レス代行】
一躍時代の寵児のようになった真砂は、各宮家や、大臣諸公などから面会依頼が相次ぎ、世間からは「宗教界の惑星」と
呼ばれるようになったのである。だが、そうした華々しい活躍の日々を送る真砂に対し、森田悟由禅師は深い憂慮を抱いていた。
ある日、泉岳寺に来錫(らいしゃく)した禅師は、真砂を呼び、「奇異にかこつけて衆生の菩提心を滅却するは、
不謗三法戒(仏祖をそしること)だぞ」と諭し、尼寺に入って有髪の尼となり、禅学を修めることを勧めた。
真砂は恩師の言葉に素直に従い、そのまま大久保の「観音庵」という尼寺に入った。

太霊道をやめた真砂は、以後この庵で禅道を学びながら、静かな修養生活を送る。やがて真砂の禅は、定中の観得
(瞑想状態であらゆる物事を知ること)も自在であることが曹洞宗に知れ渡るようになり、教えを請う人々が集まって来た。
そんな中に、当時は学生で近所に住んでいた今東光もいた。
真砂は太霊道にいた時の指導法ではなく、座禅を勧め、普勧坐禅儀の講話から逐次経典の講話を通じて、
闘病の方法や自己確立の道を説いた。こうして、座禅会や講話会が、真砂を中心に開かれるようになっていった。

訪問客は日を追うごとに増える一方で、観音庵は手狭となり、大正7年(1918)、貴族院議員の竹越与三郎らの働きかけにより、
青山五丁目に一軒家を借り受け、「分身会」を発足させ、一派独立した。油井真砂、32歳の頃である。
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