いいとこ取り健康法(宗教、オカルトを含む考察)

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414たま【レス代行】411の続き
大正3年頃の春、山から降りた真砂は東京の谷中に家を借り、ちょうど東京に出て来ていた妹の八千代と共に住み始めた。
そんなある日、真砂は新聞の広告で「太霊道」(たいれいどう)の存在を知って興味を持ち、麹町にあった本部を訪れる。
太霊道とは、霊理学の創唱者・田中守平が設立した霊学研究団体であり、大正から昭和初期にかけて、
大本と並び称されるほどの勢力を有した。実際、大本時代の浅野和三郎と守平とは、霊術の直接対決を行ったことがある。

「霊子論」に基づく霊術を考案し、万人に修得可能であるとして大々的に宣伝したために、一時は霊術ブームが起こり、
信奉者が大勢集まった。大量の郵便物が発着し、これをさばくために大正14年に郵便局が設置され、受講希望者や
マスコミ関係者が連日押し寄せたために国鉄大井駅が開設されるほどの盛況ぶりであったという。

太霊道の合理的な教義は、医学者としての素養のある真砂にとって受け入れやすいものがあったようだ。
また守平自信も、山篭もりと長期に及ぶ断食行により驚異的な治癒能力と霊術を身に付けたという経歴の持ち主だった。
真砂にとっては、「わが師を得たり」という思いであった。
守平は真砂に会うなり彼女の霊能の素晴らしさを見抜き、その翌日より太霊道の術師として採用する。
真砂はこの太霊道で活動することにより評判が日増しに高まり、多くの著名人が彼女のもとに集まるようになった。
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