【地域経済】赤字3年連続…神戸空港が開港5年、市は発着枠撤廃求める[11/02/16]

このエントリーをはてなブックマークに追加
819名刺は切らしておりまして
1980年代になって神戸が再度関空誘致に動き始めたきっかけが1980年12月の代議士 石井一の私案です。

ここに1982年の彼のコメントがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私は石井私案を、政府と、自民党政務調査会に提出しました。
全国から激励の声が殺到しました。一方、泉州沖の地元の八市五町は、答申以来7年も反対していたのに、私の
提案が出ると、たちまち態度を変えて賛成にまわりました。
私の提案が、泉州反対派を逆転させる皮肉な結果となりました。

中央では運輸省が石井私案に反対しました。昭和40年代後半、神戸沖に協力しようとした運輸省に、神戸は反対
決議までしたではないか、今になって何事だ、と。
大阪財界や大阪選出の代議士連も、厳しく批判しました。しかし私は、単に神戸や地域の利益を考えたのではなく、
国家利益の見地からも、この主張が正しいと信じて疑いませんでした。

一方、大蔵省からは指示の声が出てきました。国家財政危機の時でもあり、当時の大蔵大臣の渡辺美智雄氏も、
自民党の田中六助政調会長も、一兆円で早くできる、はるかにプラスになる−と支持してくれました。

ついに神戸の地元でも時代の推移の中で賛成意見が出始めました。坂井時忠知事や、宮崎神戸市長が、立場上、
慎重な発言ながら支持してくれました。その後、正式に神戸市案が発表されました。
私が火をつけ、持ち続けていたタイマツは、神戸市へバトンタッチされる形となりました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
答 申 以 来 7 年 も 反 対 し て い た の に、私 の 提 案 が 出 る と、 た ち ま ち 態 度 を 変 え て 賛 成 に ま わ り ま し た。

大 阪 財 界 や 大 阪 選 出 の 代 議 士 連 も 、厳 し く 批 判 し ま し た 。

一 方 、 大 蔵 省 か ら は 指 示 の 声 が 出 て き ま し た 。

↑ 当時は運輸省、泉州市町、大阪府、大阪財界、大阪選出議員が一緒になって泉州沖案の利権で動いていたのでしょう。
  少しでもローコストに空港を建設しようなんて意思は全くなく、むしろ逆でどうせ国の金なんだからと、できうる限りの金を
  国から引き出そうとしたのです。超軟弱地盤で技術的解決方法も未知数だったのに、いい加減な予測工費をいい、
  大蔵省をだまし、予算が着いて着工後、不測の事態が起こったなどと言ってその後工費をその1.5倍、工期を1年のばし
  たのはほとんど犯罪です。やってみないといくらかかるかわからないが真実だったわけですから。
  彼らにとって、安くてすむ神戸案などもってのほかだったのです。
  まともな判断をしていたのは大蔵省だけだったようです。そして、大蔵省を説得するため、彼らは株式会社とせざるを
  えなかったわけです。大阪財界はその出資者となり、彼らの一蓮托生の関係が強まります。