>>102 続き
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◆07/7/27朝日夕刊
室内は異様な緊張感に包まれていた。
1943年5月、東京の海軍省の2階。門田圭三(93)は、電話機からのアッツ島守備隊の通信に耳を澄ませる軍人たちを、部屋の外から見ていた。
「生きて捕虜の辱めを受けざる様覚悟せしめたり」。「玉砕」の前、アッツの部隊はそう通信した。
朝日新聞政経部の記者だった門田は、...海軍省の記者クラブに所属し、大本営海軍報道部の発表を取材していた。.....
今日、虚偽の代名詞のように言われる大本営発表だが、門田は「回線からミッドウエー回線までの半年は正確だった」という。
1942年6月、海軍は空母艦隊を投入し、中部太平洋で米艦船と決戦、空母4隻を失った。だが大本営の発表は「空母1隻喪失、同1隻大破」。門田は発表を疑わなかった。
しばらくして米国から交換船で帰国した朝日に記者から、米国の短波放送の内容を耳打ちされる。ミッドウェーでの日本は惨敗したという。
しかしそのことを報道部に問い合わせはしなかった。「発表されない損害は軍機密だった。確認なんかしたら大変なことになった」
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...門田は翌1943年8月「報道班員」として南方のラバウルやトラック諸島へ赴き、実際に戦地を体験することになる。
空路サイパンに向かう途中、日本の輸送船が敵の潜水艦の魚雷を受け、沈没するのを見た。不安がよぎった。「ここまで潜水艦がきているちは」
さらに43年11月〜12月のブーゲンビル島沖の航空戦。基地に帰還できる味方の飛行機は数えるほどだった。あまりに戦局の激しさに門田は驚く。大本営で取材していた時は、航空戦力はまだ日本が上と信じていたからだ。
だが、門田の署名が入る12月7日付け夕刊の記事は「ブ島沖航空戦の大戦果によって我々は戦勝への核心を固め、これに対して敵の焦燥狼狽の色を覆うべくもない」となっていた。
門田はいう。
「国の命運がかかっている戦だから、発表通りに書くほかはなかった」
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