【映像論】阪神優勝、ケータイで「撮られる選手」と「撮る選手」
胴上げ。星野監督が宙に舞う。……と、ここまでは18年前の神宮球場(当時は吉田監督)をほうふつとさせるシーンだったのだが、
そこからだ。テレビに映し出される映像に、何か違和感を抱いた僕なのだった。
藤本や赤星が手に手にカメラを握り、記念撮影をしている。ペナントを掲げての球場行進。
そこでもまだ、選手たちはあちこちで写真を撮り合っている。肩を組んでパシャッ! 星野監督とツーショットでペチッ!
肩を組み、自分たちにレンズを向けてセルフ・ツーショットでプチッ!(長谷川裕行)
ZDNetより抜粋
http://www.zdnet.co.jp/news/0311/21/cjad_hasegawa.html *コラムの概要は以下の通り
【喜びの変化とカメラの普及】
18年の間に、特に若いスポーツ選手の「喜びの表し方」が変わったことは間違いない。
【カメラの普及に必然性はない】
実生活上さほど重要な役割を担わされていないカメラは、1人1台という「満遍ない普及」まで広がらなかった。
【プリクラが「撮る」ことの意味を変えた】
人々の写真に対する意識が「イベントがあるから写真を撮る」から「友達と写真を撮ることがイベント」へと変化し始めた。
【視覚の補助記憶装置となったカメラ】
もはや「私は、今、カメラで撮影している」という意識すらないかのようだ。いや、「ようだ」ではなく「明らかに」ない。
【アルバムの存在意義は消失しつつある】
カメラは時間と空間を隔てて「私(撮影者)がそのとき抱いた感覚を共有」する装置へと進化している。
撮影したらプリントしてアルバムに貼り、後からそれを眺めて「その時」を思い出す――といった「撮影後の行為」に、
もはや大きな意味はなくなった。
【内部で消失する公私の境界】
見られる立場でありながら、自分もまた見る側に回るという、二つの立場の同時共存状態こそが「今風」なのだ。
【映像装置によって変えられた意識】
対立から比較へ、比較から並立へ、並立から混交へ……
写す側と写される側の認識の変化が、まさに現実のものとして我々の内部で進行しつつある。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 20:32 ID:o3XOPcCv
↓若者批判
ま、メディアにおけるインターネット(特に掲示板)と煮たよなモンですな。ぐつぐつ。
えっ!?批判しなきゃいかんかった?
『最近の女子高生は見せパンなど履きおって、まったくもってけしからん!』
こんなもんで勘弁してくらはい(w
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 20:40 ID:+LMRdFi4
林家ぺー、パー子に時代が追いついたと言う事か・・・
安くて使いやすくて簡単に手に入るからカメラの使われ方が変わったんだよ
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 21:53 ID:c9jXJ1Kn
そしてスレはカメラ業界を案じる流れに。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
プリクラの利用者は、印刷されたシールそのものより、「一緒に撮る(写る)」という「行為」の方に意識を傾けている。
小さな画面に解像度の低いプリントで、表情も不鮮明である。
にもかかわらず相変わらず利用者が多いという事実は、
彼らの目的が「鮮明に定着された静止画像を所有すること」では<ない>ことを物語っている。