旅先で出会った、忘れえぬ人たち(7)

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香港から中国への入国は出来たけれど北京は戒厳令が敷かれていて近づけず、
私は広州の安ホテルで香港のテレビ局が伝えるニュースに一日中かじりついていた。
北京市へ入れたのは事件から4日後の事でしたが、私には彼女の居場所も、安否も、
彼女の弟の名前も、何一つ解らなかった。
手掛かりなんて何も見つからないまま私は8日間で北京を出て帰国しました。
彼女と暮らしていた部屋で待っていれば、
必ず電話か手紙が来るだろうという気持ちもどこかにあったからです。
その部屋で1年3ヶ月が経って、仕事を持った私はどうしても東京を離れなくては
いけない事になった。
1年間は手紙の転送が効くけれどその後はもう望むべくもない。
何か、あまりの惨さに言葉もありませんでした。

それから6年後、今の妻と出会って結婚しました。
今は幸せです。妻を、愛しています。

あの夜、彼女は天安門広場の西端で左の腿に2発被弾して病院に運ばれた後、
公安当局に連行されたそうです。
一応香港籍の外国人でしたけれど逮捕されている実弟との関係を明らかにした所、
その後約2年半に渡って公安の監視下で、出国はおろか外出もままならない軟禁状態に
されたと話していました。
今のご主人は日本から北京大学へ留学していた人で、彼女は釈放後の中国で知り合い、
精神的にも経済的にも色々と助けてもらったそうです。
その事について彼女は「ごめんなさい」と言い、「とても一人では生きて行けなかった」
と声を震わせて弁明しました。
彼女が軟禁を解かれた日、そこにいるのが何故自分ではなかったのかと、
どうして自分がその場にいてやれなかったのかと、悔やまれてなりません。
結婚して香港籍とオーストラリア籍を破棄し、帰国してご主人の故郷である
伊那に落ちついたのが5年近く前だと話してくれました。
ああすればよかった、こうしておけばよかった、という気持ちはずっとあったし、
もちろん今だってあります。
けれど、今となってはもう何もかもが手遅れだし、お互い別々の幸福や生活があるんですから。