旅先で出会った、忘れえぬ人たち(7)

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彼女と暮らしていたのは今から17年も前の事です。
初めて会った時、彼女は日本と香港とオーストラリアという3つの国籍を持っていました。
詳しくは端折りますけれど複雑な家庭でしたね。
日本人の私には想像し難かったけれど、
家族や自分の中に二つの民族という問題を抱えていたんです。
私たちは同じ学校で絵を学んでいましたけれど、バイトで金が貯まればバックパックを背
に旅ばかりしていました。
このスレの1か2にも書いたんですが、ゴビ砂漠の真ん中でバスに置いてけぼりを食って、
たまたま通りかかったフランス人ライダーに助けてもらったのもこの頃の話です。
彼女は中国が好きでした。
離婚した両親のうち父と一つ年下の弟が住んでいる国でもあったから。
一緒に暮らすようになってからなんとなく結婚という言葉がちらつき初めたけれど、
「あんたが望むなら」とか「きみが望むなら」とか、
まあ責任を擦り付け合うようにして答を先送りしていました。
まだ若かったし、急ぐ必要など無いと二人とも考えていたからかも知れません。

同棲し初めて1年半経った初夏の頃、北京にいる彼女の弟が公安当局に逮捕されるという
事件が起きたんです。罪状は日本で言う国家転覆罪で、最高刑は死刑です。
なんでまた? と思いましたが、その頃中国では胡耀邦総書記の死を境にして
北京大学を中心に民主化運動が急速に広まり始めていた頃でした。
実母と仲の悪かった彼女は鞄一つを持ち単身香港経由で北京入りしました。
私も一緒に行きたかったけれど香港国籍を持っていた彼女と違い、
当時は今と違って中国のビザが日本国内ではすぐには取れず、
香港の旅行社でビザを「買う」のがもっとも早い手段でした。
3日遅れで香港に着いた時、彼女は申し合わせていたゲストハウスをもうチェックアウト
した後で、私宛に短い手紙を残していました。
旅行社にビザを申請すると2日後に出来るという話でしたが、
私のビザが発給される日の明け方未明、人民解放軍の重火器が民衆に向けて火を噴いた。
六・四事件。いわゆる天安門事件でした。