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>>49のつづき)
広田の生活信条を考えれば、広田は、皆がこうしようと決めた政策にとかくの反対など
する人ではなかった。「皆がそうというならそうしましょう。」といって受け入れている。
そしてそれはその後の時代の滔滔(とうとう)たる軍国主義、国権主義的風潮のなかでは、
軍の圧力にはまったく抵抗せず無定見な大勢順応主義と同じになってしまったのである。
広田にとって大事なのは政策の内容よりも、一言「よい」といった以上、その政策には
自分が全責任を負うという覚悟なのであろう。「一言(いちごん)然諾(ぜんだく)を重んず」ということである。
中央から引退したあとの西郷隆盛の進退もそうだった。部下が起ったと聞いて、
「しまった」と一言いったあとは、いっさい批判がましいこといわず、指揮も部下に任せて、
従容として部下と運命をともにした。まったく無益の戦を起し、彼我の将兵を無意味に死なせてもなお、
天に恥じず死したのは、その言動に何ら天道にもとるところがなかったと信じていたからである。
こういう伝統的な東洋的人物は、周囲が常識的ならば、その大勢に逆らわず、
自らの行動に全責任をとる用意のある篤実な政治家たりえるが、そうでない場合は、
ただ時流に流されてあえて指導力を発揮しない危険を伴っている。
(おわり)