【※】松本博文と米長邦雄が交戦中19【mt】

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46名無し名人
>>45のつづき)

ゾルゲはナチス党員になりすまし、近衛側近の尾崎と連携して、日本政府内の情報を
オットー大使に頻繁に連絡して珍重(ちんちょう)され、すべての枢機(すうき)を知る立場にあった。

日米交渉を成立させず日米戦争に導くよう、日本の最高の国家戦略にまで影響を与えただけでなく、
日本に対ソ戦争の意思がないことをソ連に知らせて、ソ連がシベリアの戦力をモスクワ前面に転用し、
独ソ戦に勝つ一因をつくっている。

尾崎もゾルゲもスパイであることが発覚して真珠湾の二ヶ月前に逮捕された。尾崎は検察当局に、
「自分たちの赤化運動はすでにその目的を達し、日本はついに大戦争に突入し、革命は必至(ひっし)である。
自分の仕事が九分どおり成功しながらいまその結果を見ずして死ぬのは残念だ。」と述べている。

近衛としては、こうして北進は抑えておいてただちに対米交渉を進めたかったのであるが、
当時米国はすでに松岡を通じて折衝してもムダと考えるに至っていたようである。
そして七月四日付の大統領メッセージを松岡の頭越しに直接近衛に伝えたことで
松岡はつむじを曲げて、ますます米国に対して挑発的な言動をとるようになり、
野村大使からはもうこれではやっていられないと辞意の表明まであった。
そこで、もともと天皇のご意向もあり、実質的には松岡はずしを主要な眼目として近衛内閣は総辞職し、
大命は再び近衛に再降下し、第三次近衛内閣が発足した。

この時期の松岡の言動には、矛盾撞着(どうちゃく)するものが多く、重光葵(まもる)や伊藤正徳など、
控えめであるが「狂」という表現を使っている。巷間(こうかん)伝えられるところも、これに符合するところがある。
こうした人物を登用した近衛に最大の責任が帰せられるべきであろう。

(おわり)