【※】松本博文と米長邦雄が交戦中19【mt】

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45名無し名人
【岡崎久彦「重光・東郷とその時代」(PHP)単行本P.270-272(文庫本アリ)】

松岡訪欧の最中すでに、ドイツは対ソ戦を暗示していたが、(※昭和十六年)六月二十二日、
ドイツはついにソ連を攻撃した。同じ日の夕方、松岡は天皇に拝謁し、近衛となんの打ち合せもなく、
日本はドイツと協力してソ連を討つべきこと、南方は一時手控えねばならないが早晩戦わねばならず、
日本はソ、英、米を同時に敵として戦うことになる旨奏上して天皇を驚かせ、天皇は松岡忌避のご意向を明らかにした。

三国同盟は、米国の参戦を防止しようというのがその本来の目的であった。しかし独ソ戦により
たちまちに米英ソの同盟ができたことになる。これと戦うことは危険極まりない。(中略)
しかし、他方ドイツはしきりに日本が軍事行動に出ることを督促してきた。六月三十日オットー大使は
松岡に対し、リッベントロップの申し入れとして、いまこそ日本にとって「唯一無二のチャンス」であり、
「シンガポール攻撃も重要だが、いまはソ連を叩くべきだ」といってきている。

結局、七月二日の御前会議で「帝国国策要綱」をつくって、松岡の即時北進論を抑えた。
そして、矢部貞治によれば、「多少代償的な意味で」南方進出の態勢を強化する姿勢を示した。
矢部によれば、そのなかの「対英米戦も辞せず」は「たんなるお題目にすぎず、誰もそれを本気で
考えたのではなかった」という。しかし、むしろこれが日本を対米戦争に追い込む大きな要因となるのである。

この御前会議の内容を、正確なコメントとともにソ連に報告したのはゾルゲであった。
ゾルゲは尾崎秀実とともに、第二次大戦中活躍したスパイのなかでおそらくは最高の実績を上げた
スパイであり、一九六四年にソヴィエト英雄賞を授けられ、いまも賞状と勲章が赤軍博物館に展示されている。

(つづく)