【※】松本博文と米長邦雄が交戦中19【mt】

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41名無し名人
【岡崎久彦「重光・東郷とその時代」(PHP)単行本P.264-267(文庫本アリ)】

(※昭和十六年)四月十八日、たまたま東京で閣議の最中にこの案(※日米諒解案)がもたらされ、
その夜、政府と統帥部の連絡会議が開かれたが、全員賛成だった。陸海軍は「飛びついた」
のが実情だったという。すぐに原則的賛成を変電しろという意見もあったが、
もう二、三日で帰国する松岡を待つこととした。

じつは、近衛は松岡がつむじを曲げることを憂慮していた。そして、自ら松岡を迎えの車中で
説得しようと飛行場まで赴いた。ところが松岡は帰路二重橋で皇居を拝むパフォーマンスをすると言い出し、
インテリの近衛は、それにつきあうのをためらい、同乗を断念した。

はたして代わりに同乗した大橋忠一次官は説得に失敗し、近衛は、のちのち
「あのときに自分が同乗していたら……」と残念がったという。

じつは日本に着く前に、近衛は大連に着いた松岡に電話をして
米国から重大な提案がきているから急いで帰国するようにといった。
松岡はそのときは上機嫌だった。モスクワで旧知の駐ソ・アメリカ大使に対し、米国が日支和平の
仲介をするよう説いた効果が早くも表われたと思ったからである。ところが、自分の知らないうちに
カソリック宣教師によってできた案と聞くや、ただちに不快の念を顔に出し、会話を打ち切ってしまった。

首相官邸の会議に出席した松岡は、ヒットラーさん、チアーノさんと呼びながら訪欧の話を吹きまくり、
近衛がたまらずに日米諒解案の話をすると、激昂して、「米国にだまされるな、
とにかく自分は疲れているから、二週間か一ヶ月くらいのうちに考えをまとめたい」と
いいたいだけいって帰ってしまった。
後に残った関係者は東条陸相も含めて、松岡の暴慢に憤慨し、
とにかくこの話を進めようと合意したが、もう機会は去ってしまった。

この経緯は書くだけでも恥ずかしいような、低次元の話である。しかも、こうした小人物の
意固地が国の運命を翻弄したとなるとやり切れない気持になる。

結果として、松岡は、日米諒解案に到達する際に双方が行った妥協をすべて否定するような
日本側修正案を五月十一日、米側に提案した。