【※】松本博文と米長邦雄が交戦中18【mt】

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2※=松岡洋右
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【岡崎久彦「重光・東郷とその時代」(PHP)単行本P.56-58(文庫本アリ)】

松岡は、山口県室積の浦の家運が傾いた船問屋に生まれた。幼時から頭がよく、
父や兄が放蕩や事業の失敗を重ねるなかで、家の再興の将来を期待されながら育った。

明治二十六年、十三歳の松岡は移民船で米国西海岸のポートランドに渡り、
朝晩は家事を手伝いながら昼は学校に行かせてもらうスクールボーイとして住み込んだ。
そして苦学をしながらオレゴン大学の夜学に進み、二番の成績で卒業した。
帰朝後は外交官を志し、明治三十七年外交官試験に合格した。

松岡が生涯、独立独行、自らの能力を恃(たの)んで前進したのには、もともともって生まれた
性格のうえにこうした苦学力行の背景もあった。

松岡の性行を知るには次の二つの挿話を紹介するのが有益であろう。

(中略)

これを見るだけで、松岡の性格のなかに一種殆(あや)ういものがあるとの感を禁じえない。

道を譲って相手から軽蔑されても、穏便にすめばそれでよいではないか、という心のゆとりがない。
また弁論で相手が正しいと思えば、なるほどそうかと相手を尊敬する雅量がない。

より根本的な問題は、喧嘩といい、弁論といい、すべて人間関係の技術的な問題であり、
思想とか信念ではないことである。松岡の生涯の言動を辿ってみると、彼自身の信念や哲学が見当たらない。
あるとすれば、当時の日本国民一般と同じ、漠然たる国家主義、膨張主義であり、
それがときとして時流に乗って急進的な表現をとることもあったが、
それは裏からいえば独自の思想がないということである。議論を逆転しても相手に勝つ
という発想からして、もともと思想の一貫性は期待できない。

(つづく)