「昭和の碁聖」苦闘を映画に 日中協力「呉清源」

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1名無し名人
昭和の碁聖・呉清源九段(90)の波乱の生涯を中国の田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督(52)が映画化する
「呉清源」の日本国内の撮影が昨年末に終わった。日中協力の大作で今秋の公開を目指す。
呉九段は少年期に「囲碁の天才」とうたわれ、昭和の初めに14歳で来日。日中戦争から戦後にかけた
「十番碁」で木谷実や坂田栄男ら一流棋士を次々に破った。映画は日中のはざまで苦闘する生涯を描く。
映画化は00年末に合意されていたが、脚本や製作態勢が遅れていた。映画の9割は日本の場面だ。
昨年10月、滋賀県近江八幡市に本拠を構えて撮影を始め、ほぼ3カ月かけて12月末に終えた。
主役の呉九段役は台湾のスター張震(チャン・チェン)。「日本語が難しいうえ、
内面的な演技を求められて苦労した。何とかこなせて満足している」と語った。
出演陣は理解ある女性棋士に松坂慶子、師匠が柄本明、新興宗教の教祖に
南果歩ら多彩。万波佳奈女流棋聖や円田秀樹九段ら東西の現役棋士も出演した。
撮影は昭和の戦前期のたたずまいが残る近江八幡市のほか、
京都府舞鶴市や福井県内などで進められ、市民や自治体が協力した。
田監督は新中国の政治運動の狂熱を描いた「青い凧(たこ)」で
93年の東京国際映画祭グランプリを受賞するなど、国際的に評価が高い。
製作主体は中国だが、撮影の技術スタッフや出演者は大半が日本という日中協力作。
今秋に中国、日本、韓国の同時公開を予定している。
2名無し名人:05/02/03 11:07:24 ID:uCGLvB+m
5
3名無し名人:05/02/03 11:11:05 ID:vxO9ovsJ
「生涯」ってまだ生きている人に使える言葉?
4名無し名人:05/02/03 12:15:33 ID:gmLjLWiu
>>3
「公開される頃には死んでるだろう」って読みじゃないか?全く不謹慎な話だ。

ただ、映画にするなら秀行の方が面白そうだが。
5名無し名人:05/02/03 13:07:16 ID:4lYZPR3W
映画のシナリオ

囲碁の天才少年を日本が人買いスカウト。
日本でのいじめにもまけず大成する呉少年。

時がたち呉青年は事実上世界一の強さになるも、
日本の不当な扱いにより昇段やらタイトル戦やらの参加を妨害
苦しみぬいた人間呉は宗教にすがるも、宗教団体にも利用されてしまう。
恐るべし日本社会。

しかしなんとか、自力で復活。
そうこうするうちに、日本の諜報機関がオートバイ事故を仕掛けて再起不能に

こうして中国人呉のおかげで囲碁大国になったにもかかわらず、
日本はその恩人の功績を葬り去ると同時に、自分の力で強くなったような
ふりをしてのさばることができるようになった。

しかし、天網恢恢粗にしてもらさず。
いまや日本は中国の後塵を拝する囲碁後進国になってしまった。
それはなぜか。
それは、中国に戻った呉老人が後輩を指導し続けたからであった。

感動の大巨編。
6名無し名人:05/02/03 13:15:10 ID:0qBsWe9x
>5
母親もいっしょに日本に来たんだぞ
とマジレスしてみる
7名無し名人:05/02/03 13:41:32 ID:jh1TJ+t/
囲碁って普通に在日多そうなイメージだな
8名無し名人:05/02/03 13:53:50 ID:3GLDA4KG
>>4
あれを映画化したら大変な事になる。
9名無し名人:05/02/03 14:00:24 ID:nABl+fCx
円田秀樹って初めて聞く名前…
10名無し名人:05/02/03 15:08:20 ID:4lYZPR3W
映画の大半が競艇シーンとピンサロのシーン
酔って「おま●こ」の放言しながら千鳥足

たまに対局のシーンでは「アー月に1千万円ほしいな」のぼやきとポカ

自宅のシーンでは、やみ金融の取立て

紆余曲折をこえて、大団円。
11名無し名人:05/02/03 15:11:46 ID:4XtzkVYv
>>10
碁聖元って、面白い人だったんですね。
12名無し名人:05/02/03 15:19:27 ID:3GLDA4KG
13名無し名人:05/02/03 15:23:44 ID:4XtzkVYv
>>10
>大団円

現実は、そうなってるの?
14名無し名人:05/02/03 15:26:17 ID:4XtzkVYv
棋院復帰くらいで終わらせとくのかな。
15名無し名人:05/02/03 16:19:19 ID:+81u+1pY
英誌Economistの記事、呉清源を見出したのが岩本薫となっているが、間違いだろう。
瀬越健作か他の誰かだろ。

A century of surprises
That has changed. The past century has been the most dramatic
in go history. The first surge of excitement came in 1926,
when a Japanese pro, Iwamoto Kaoru, discovered a 12-year-old
prodigy by the name of Wu Qing Yuan in Beijing. Once word of
the boy's skill had reached Japan, invitations were soon
forthcoming. By the time he was 19, Mr Wu was beating Japan's
top players. Having eliminated all rivals, he won the honour
in 1933 of battling the tenth reigning Meijin, Honinbo Shusai,
21st in the line of masters of the great Honinbo school.


Mr Wu's opening, a sharp, direct lunge for territory, was seen
as shocking, even insulting, to his elder. The ailing Meijin
eventually carried the match, but only just, and after shamelessly
exploiting his rank to postpone play 13 times, over three months.
It was even rumoured that his brilliant, tide-turning 160th move
had been devised, in breach of strict rules, by one of the Honinbo
disciples.

16名無し名人:05/02/03 16:42:21 ID:0SC9tfur
清原さん
17名無し名人:05/02/03 16:47:30 ID:sjTpbm/I
>>15
日本の棋士で呉清源と最初に打ったのは岩本6段のはず。
瀬越が来日のために奔走したのはそれらの棋譜をみてから。
18名無し名人:05/02/03 16:49:18 ID:0qBsWe9x
>>12
そのページの他のコラムはよめないの?
19名無し名人:05/02/03 21:07:07 ID:2HPFfCbh
20名無し名人:05/02/04 01:35:18 ID:CMTv2ziH
>>15
本因坊秀哉は、外国誌エコノミストにインチキしたって書かれてるね、
13回の自番での打ち掛け、弟子による逆転の妙手の発見、とか。
エコノミストって結構影響力あるよ、インテリに。

川端康成の小説では、旧の慣習であって白番での打ち掛けは常識ってことだった。
その時代はそれで済まされていても、歴史が進むに連れ悪者になって来るのだろな。
21名無し名人:05/02/04 03:02:06 ID:yVhjjHDA
当時から秀哉は特別品がなかったと思う。
昔の碁は持ち時間無制限とか言われることが多いが、
江戸時代はほとんど1日打ち切りだったそうですよ。
22名無し名人:05/02/04 08:48:46 ID:So/0s5yi
>>20
秀歳の行状は歴史の評価に耐えられないということかね、
日本棋院は今でも秀哉系列(大枝とか)が幅を利かせているが、
彼に対する評価をうやむやにすると、置いていかれるかも。

瀬越なんかは、弟子の前田があの手を発見して秀哉に教えたと、もらしただけで
譴責、役職追放だもんな。
23名無し名人:05/02/04 08:50:18 ID:f7+WrXaM
師匠秀栄には「金に汚い」ときらわれていた。
24瀬越検索:05/02/04 10:15:42 ID:SpCJjA9/
 昭和二年の秋頃であつたろう。北京で骨董商を開いていた山崎有民氏(碁は素人二段)
から、中国に碁の天才少年が現われた。呉清源というのだが碁譜を送るからそれを調べ
た上で、もし有望なら日本で修業させたいものだが−−という通信があった。
 送って来た碁譜を見ると、われわれ仲間の井上孝平(当時五段)が、同年中国を漫遊し
、北京でその時に十四歳の呉清源と打ったもので、二子が一局、先が三局の都合四局で
あつた。

 いずれも年の割りには素晴しい出来で、その風格はわが国の碁聖秀策の少年時代を髣
髴(ホウフツ)とさせるものがある。秀策の碁譜百局を集めた『敲王余韻』という本が
あるがそれを研究していることがよく判る。
 私はすっかり感心して、その旨を返事したところ、山崎氏も大喜びで、是非、日本へ
行けるように心配してくれ、尤も少年一人では家族も心配するから、母親も兄貴もみな
連れて行けるように計つてくれ、ということをいって来た。これにはちょっと困ったが
、それもなんとかしようと返事をした。山崎有民氏は、彼の家に呉清源が遊びに行く度
に日本語を教えて、日本遊学を盛んに勧誘したそうである。

 しかし、中国では日本の囲碁界の事情に暗い。碁の大家になると生活の安定が得られ
るなどということが納得出来ない。だから、行きたくはあるが行ってひどい目に会いは
せぬかと不安でもある。そんなわけで、なかなか決断がつかぬらしい。
 私もその間の消息を感知したものだから、今、時を移さずに日本へ来てこそ天才少年
と謳(ウタ)われようが、時期を失して、一年二年と長じてからでは次第に意味のない
ものになってしまうので、一刻も早く来させようと考え、まず第一に犬養木堂に相談す
ることにした。木堂は、当時、省線信濃町の駅の上に住んでいた。
25瀬越検索:05/02/04 10:19:01 ID:SpCJjA9/
 その近所に私の先輩、岩佐八段(当時七段)が住んでおり、木堂も始終彼の所へ行って
いた関係から、私は岩佐さんに後援を頼んで、二人で木堂を訪ねたわけである。私は、
木堂に中国の天才少年の話をし−−これを日本で修業させたら名人になるのだが、先方
は私どものいうことだけでは不安に感ずるらしく、なかなか出て来ない。
 それで吉沢謙吉さん(木堂の女婿で、当時北京大使であった)から、日本へ留学を勧誘
するように、貴方から手紙を書いて頂きたい。大使の勧めなら大概意が動くだろうから
−−とお願いした。すると木堂は暫らく考えていたが、

「そんなことをいうが、そんな素晴らしい少年を呼んだら君方は皆やられるぜ」
とおっしゃった。
「やられるぐらいでなくちゃ呼ぶ甲斐がありません。やられるようになれば結構です」
「君方がそういう気持なら面白い。手紙は書くよ。しかし、一体誰が世話をするんだ」
私もまだ、生活費をみてくれるという人まで考えてはいなかった。犬養さんは鋭い。碁
でいえば急所を衝いてくる。私も返事をしなければならなくなって、
「日本棋院の副総裁の大倉さんに頼みます」
「そうか、大倉が引受けてくれれば、よし書いてやろう」
 ということになった。
 さあ、しかし、そういって帰ったものの、『これはえらいことになったぞ』、と内心
心配に堪えなかったが、これも碁道のためであると勇気を出して送ってくれた碁譜をも
って大倉さんのところを訪ねた。
26瀬越検索:05/02/04 10:20:48 ID:SpCJjA9/
 「実は今日伺ったのは、中国に碁の天才少年が出て、この碁譜を並べてみて私はすっ
かり感心してしまった。この少年を日本で修業させると海外の碁の普及にもなるし、犬
養さんも吉沢さんに手紙を書いてくれることになっているのですが、ただ向うは子供一
人は放せないので、親兄弟もついて来るという。 家族の最少限度の生活の面倒を一つ
みてもらえないものでしょうか」
 と語って持って行った碁譜を見せ、如何に素晴しいかを並べてお目にかけるからとい
ったら、
「それは君、わしが碁譜を見たって判りゃせんよ。君がそういうなら強くなるに違いな
いから、よろしい面倒を見ましょう。二ヵ年間毎月二百円ずつでよろしいかな」
 と即座に快諾された。

 その当時の二百円といったら相当なものである。私はすっかり安心して、向うへこの
旨伝えてやった。簡単にいえばこんな次第だが、その間に半年ぐらい経っている。
 天才少年呉清源を日本へ連れて来ることに関係して、昭和三年に私は北京から招待を
受けた。日程は一週間ぐらい、旅費の他に千円謝礼するというのである。これが中国の
外交辞令の一つなのであろう。ところが、私は考えた。私はその時七段で呉清源には段
も何もない。すると私は、呉清源と三子で打たねばならない。三子ではいかになんとい
ってもこちらに勝目はない。二子でさえも自信はない。
27瀬越検索:05/02/04 10:23:00 ID:SpCJjA9/
 日本の七段の大先生がベタ負けに負けたりすると、折角、日本へ留学しようと思って
いる呉清源の決意を鈍らせる恐れがある。
 これは迂潤に出かけられぬという考えから、私は健康の都合で行けないが、私の弟子
の橋本宇太郎四段が満洲を廻るというから、彼を私の代りに北京にやることにしようと
いうことになった。率直にいえば、それぐらい呉清源は私を恐れさせた。

 昭和三年夏、橋本は満洲から北京に行った。二番打ったが、呉清源が先番で二番とも
橋本に勝ち、橋本も舌を捲いたわけである。こうして呉清源が日本へ来ることに決定し
た。呉清源は私に日本での碁の師匠になってくれといって来た。私は、山崎氏に、とに
かく日本には本因坊という私より上の名人がいるし、私は呉清源の師となる資格はない
。お世話はするけれども師匠となるのはご免こうむると断ってやった。
28名無し名人:05/02/04 10:23:18 ID:psZ7D9C3
糞スレ
29瀬越検索:05/02/04 10:25:17 ID:SpCJjA9/
 しかし、向うから−−どうしても瀬越先生にお願いするという手紙を山崎さんと二、
三度往復させているうちに、瀬越先生が師匠になってくれなければ、呉清源が日本へ行
くのは取り止めにするというところまでに来てしまった。止めるといわれては何をかい
わんやで、私も僭越だが名義だけは師匠になり、親代りに何かと世話をしようというこ
とでケリがついた。

 呉清源が日本に来た時は麻布谷町へ一時落着いた。が、私の住居は東中野にあって、
どうにも世話をするのに遠くて不便だったので、私の近所に家を探して引越させた。そ
の時、呉清源と一緒に来たのがお母さんと兄さんと妹さんが二人の五人であった。昭和
三年の秋である。
30名無し名人:05/02/04 12:13:53 ID:yVhjjHDA
>>29さん
大変興味深く読ませてもらいました。
もしよければどの本に載っている文章なのか教えてください。
3129ではない:05/02/04 12:34:56 ID:F46xX1jG
http://www.tesuji-bible.com/
の「手筋辞典著者紹介」
http://www.tesuji-bible.com/igo-ichiro/ichiro-index.htm

ソースの記載なしコピペだけの馬鹿めが。
いい内容が台無しだ。
32名無し名人:05/02/04 12:36:06 ID:jpTb8+R6
>>29 ID:SpCJjA9/
なるほど、色々な関係者の協力や信頼があって初めて呉清源の才能が
開いたのですね。  小生も、どの本に載っているのか知りたいです。
も手には入る物なら、その続きなどを読んでみたいのですが。
33名無し名人:05/02/04 13:01:53 ID:ha47Aaew
呉制限の家族は日本のスポンサーにタカり過ぎな感もあったよな。
共産党に追われて中国本土から台湾に流れてきて、本土での役人生活と比べ
生活基盤がいまいちしっかりしなかったということはあるんだろうけれども
34瀬越検索:05/02/04 13:08:19 ID:SpCJjA9/
失礼、まだ途中だったんですが、、、
もちろんアップが完了すれば出典を記載するつもりでした。
でも28みたいなのも出てきたので、萎えていました。

31さんのソースで間違いありません。
ネタがばれたところで、引っ込みます。
35名無し名人:05/02/04 13:15:30 ID:mU4M/aA+
ID:SpCJjA9/さんサンクス。面白かった。
呉清源はやはりすごいがその天才を見抜いた瀬越もすばらしい。
36名無し名人:05/02/04 14:23:40 ID:rRjqEpMk
瀬越さんて、最後は失明して、首吊り自殺だろ、
色んな意味であの頃はスゴかった。
37名無し名人:05/02/04 14:59:53 ID:w8EDrFzs
>>15 エキサイトしますた

1世紀の驚き
それは変化しました。 過去の世紀は碁の歴史で最も劇的です。 興奮の最初の
高まりは1926年に来ました。(その時、日本人のプロ(岩本Kaoru)は北京でウー
清Yuanという名前の12歳の天才を発見しました)。 一度少年の技能の単語は日
本に達したことがあって、すぐ、招待状はそうでした。用意にされる。 19歳で
あるまでには、ウーさんは日本の一流のプレーヤーを負かしていました。 すべ
てのライバルを排除したので、偉大なHoninbo学校のマスターの家系では、彼は
1933年に10番目に支配しているMeijin、Honinbo Shusaiと戦うのについて21番
目に名誉を得ました。


ウーさんの始まり(領土のための鋭くて、ダイレクトな突進)は彼の年長者にと
ってショッキングで、侮辱的であるとさえみなされました。 結局、マッチを運
びましたが、まさしく、そして、および13回(3カ月以上)プレーを延期するのに
単に恥ずかし気もなく彼のランクを利用した後に、患っているMeijinはそうし
ました。
彼の160番目の輝かしくて、形勢を一変させる移動が工夫されたとうわさされさ
えしました、厳しい規則の不履行で、Honinbo弟子のひとりで。
38名無し名人:05/02/05 12:42:31 ID:p03ZLu4F
「呉さんは日本に来てから、どのくらい強くなりましたか」
「5目くらいでしょうかね」
「ほう、そんなに上達しましたか」
「いや、置き石にして5子じゃないですよ。コミにして5目くらいです」
と、それくらい呉清源の碁は来日時点で完成品に近かったらしい。
39名無し名人:05/02/05 13:34:41 ID:dSddB6VE
映画では秀哉は誰が演じるのだろう、
吉良上野介役者とダブルね
これほど悪者だと。

西村晃がいいいと思うけど、もう死んじゃたしね
40名無し名人:05/02/05 13:49:31 ID:AiCk5+hB
>>38
俺はその話、5目ではなく3目で聞いたぞ。
もっとも聞いたのが何十年も前の話だから、最近は利息がついてきたのかも知れないが。
41名無し名人:05/02/05 16:01:57 ID:4XkZyjue
瀬越は、秀哉門下派にはかなり煙たがられていたけれども
本当に碁界の為によくやってくれたと思う。
今でも、守旧派の棋院職員の文章の中では瀬越を必ず頑迷な爺さん扱いしているが、
そういうことも、むしろ瀬越の功績の大きさを反証しているようでもある(苦笑)
42名無し名人:05/02/07 21:29:30 ID:GwgwJpSZ
>>38
確か2目のはず。
43名無し名人:05/02/07 22:13:11 ID:E/00J6S5
巣鴨の本行寺に歴代本因坊の墓ってのがあるが、あれみると秀哉の根性が分かるよ。
赤御影の秀哉の墓が真中で馬鹿でかく、道策やら秀策は他の本因坊と三人くらいの
合葬墓で、それも石ころに近い。
戒名みたいな名前は刻んであるが骨なんかは入ってなくて、秀哉の引き立てにあるだけ。
馬鹿馬鹿しい限りだ。
一種の捏造だな。
44名無し名人:05/02/08 15:21:36 ID:Dy9rCbvy
たしか、チクンは呉清源先生の棋譜並べるの薦めてたような気がする。
45名無し名人:05/02/08 23:04:38 ID:7XRznlbA
棋風はぜんぜん違いそうだけどね

ただ、趙治勲は、子供の頃
「現代布石の研究」という呉清源の布石の本を繰り返し読んでいたらしい。


呉は、足早で、決めうちをしてわかりやすくまとめる傾向が強いような気がする。
多分の推測だが、その呼吸を学べということなのかもしれない。
46名無し名人:05/02/09 05:27:27 ID:uDjQWzsn
アマに呉清源を薦めてたかどうかは知らないが、
自身は呉清源全集を何度も並べた(まさに葦編三絶で何組も買いなおした)と書いてた。
碁盤が狭く感じられるくらいの明るさ、明快さ(高川の簡明さとは違う)に引かれたと。
ただ、コミ無し碁の時代だけに白番は無茶苦茶やってるとの評だった。
47名無し名人:05/02/09 08:32:49 ID:bToo3LZi
>>44-46
これですな。『趙治勲打碁傑作選(下)』(1981年)より。

(承前)だから私はアマチュアの人にも、『呉清源全集』をすすめることにしているのです。
棋力のいかんを問わず、呉清源全集を座右の書物にすればいいと思います。
そして五年、十年、と並べ続ければ、きっとすばらしい宝物を手にすることができるはずです。
 呉先生の碁はたえず自由で、形にはまったところがありません。
未来を見る視野が広いというのでしょうか。そして自由でありながら、固有のものを作り上げています。
そこがすばらしい。
 プロもアマチュアも、そこをくみ取るべきでしょう。着手の意味がわからなくても、
並べるだけでいい。くり返し並べていると、必ず得るものがあるはずです。
呉先生の自由の精神が、水がしみ通るみたいに伝わってきます。
 
48名無し名人:05/02/09 11:36:27 ID:thiOqqvN
秀サイを良く言う同時代棋士が殆どいないのは事実
野沢、瀬越、鈴木、高部、秀栄、雁金。みんな反秀サイ
高い実力を持った秀サイ派は秀元と小岸くらい
しかし、現代から見ると家元制から実力主義への転換期に
弱い身体で不敗の名人を死ぬまで演じきったのは高く評価されるべきだろう
49名無し名人:05/02/09 14:01:19 ID:WvR+ni3Y
>>48
それが川端康成の見解であるのだが、
エコノミスト誌というか外国に秀哉の行為のみが伝わると、
単なる、卑怯者だな、

川端的言説は歴史を少し踏まえた
日本人以外に評価できるものは居ないだろう。
50名無し名人:05/02/09 14:17:10 ID:qQDJ3R6E
>>49
川端ってそういう見解だったんですか
観戦記読んだけど単なる日本文化マンセー名人マンセーに見えた

>>1
理解ある女性棋士って誰だろう。喜多文子かな
万波タソは記録の萩原佐知子役と予想してみる
51名無し名人:05/02/20 23:09:27 ID:KuxfQVe0
呉清玄ビデオって最近雑誌に広告出してないけど、止めちゃったの?
52名無し名人:05/03/21 00:21:21 ID:Ef0PciNH
150歳までがんばれ
53名無し名人
23世紀までがんばれ