将棋 雑談・雑学・質問総合スレッド 第1局

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698その1@囲碁屋
「王座戦半世紀 共に歩む」 丸田祐三   2002.9.13日経新聞文化欄  
囲碁・将棋王座戦が50期を迎えた。私は半世紀前、王座戦設立にかかわり、昭和28年の
第1期の決勝戦を大山15世名人と戦った。今更ながら年月の早さに驚いている。                        
王座戦の企画は昭和26年ごろに持ち上がった。当時夕刊はなく、囲碁・将棋欄も現在の
ように毎日掲載しているわけではなかった。私は将棋連盟の理事として、大軒順三
編集局次長(後の社長)と頻繁に打ち合わせをした。棋士の生活は苦しかったので、
大軒さんが「優勝した棋士が1年間食べていけるだけの対局料を」と提案してくれたのは
ありがたかった。しかし、様々な要求も厳しく、非常に手強い交渉相手で、大軒さんとの
交渉に私はいつも辞表を懐にして臨んだ。大軒さんには参謀役として加藤治郎八段(後に
名誉九段)が付いていたようだ。王座戦のアイディアももともとは加藤さんからでたもの
だった。大軒さんとは同じ早大卒なので、相談に乗っていたのだろう。王座戦という名称を
考えたのは花村八段(後に九段)。昭和27年に囲碁、将棋のトーナメント戦が始まった。
ちょうど木村名人から大山名人に替わり、将棋界は新しい時代を迎えていた。
翌年の大山さんとの決勝戦、形勢は私に有利に展開したが、大山流の粘りでなかなか勝た
せてくれない。あのジリジリした気持ちは今も覚えている。終盤で桂を打てば勝ちだったが
発見できず最後に逆転された。少し不利なときの大山さんは、本当に強かった。
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ある年、大山さんが1回戦で四段の若手に負けたことがあった。そのときは文化部長に呼び
出され「大山さんに真剣に指すように言ってくれないか」と苦情を言われた。私は棋譜を
見せ、大山さんが1分将棋で頑張ったことを説明して納得してもらった。その四段は
囲碁棋士との交際も広がった。坂田23世本因坊には気遣いの細やかな人物という印象がある。
藤沢名誉棋聖は私を同年輩と思ったのか、気さくに付き合ってくれた。しかし実は私が
6歳も年上と知ると一転恐縮して謝った。「今までマルユウさんで通していたのですから
このままでいいですよね」と言うのだった。第1期囲碁優勝の橋本宇太郎九段とは、大山さんと
三人で話したことがある。そのとき橋本さんは「今に日本一になる若手が関西棋院におる」と
嬉しそうだった。第7期優勝の橋本昌二九段のことだった。
私は第8,13期と優勝したが、第17期からは中原永世十段が連覇する時代に移った。木村名人の
後をどう受け継いでいくかが私たちの課題だった。大山、中原、谷川、羽生と続いて将棋界は
幸運だったように思う。話してみると羽生君も傑出していることが分かる。ただ苦しい時代を
経験していないので、それだけが心配ではあるが。
2日制のタイトルが主流の時代に、王座戦は1日指し切り制で始まった。それが初手から緊張を
生み、密度の濃い好勝負が半世紀続いた一因だろう。私は6年前に引退したが、後輩たちの
熱戦を目の当たりにすると、心は今も盤上をさまよっている。